2-43 PM17:25/チェイス・カウンター・チェイス③

「おい! 左から来るぞ! ひでぇ化物だ!」

 それまで後方を一手に担っていたパンクが何事かを叫んだ。ヴォイドはワイヤーを一旦手元に回収すると左へ視線を流し、迫り来る新たな襲撃者へ見舞おうとしたが、あまりの存在感にぎょっとなって、攻撃の手が止まってしまった。

「ほぉー、凄いビジュアルですねぇ」

 好奇心から少しだけ顔を出して外を見たニコラが、思わず感嘆の声を漏らした。

「轢き殺しぢゃるううううううう!! 轢き殺しぢゃるううううううう!!」

 ソプラノ・ボイスの美声で恐ろし気な恫喝を奏でながら、人馬一体の怪人がこちらをじっと見つめたまま、左車線を猛然と駆け走っている。両目は白濁に染まり、頬は病人のように痩せこけ、唇も真っ青だったが、その反面、真っ赤なコートに包まれた人間の上半身も、豊かな赤茶色の毛並みに覆われた下半身も、どちらも健康そのものな、分厚い筋肉に覆われていた。質量の化物としか言いようのない巨躯を支える逞しい四本脚は十全なしなやかさを発揮し、真っ黒な蹄を力強くリズミカルに道路へ叩きつけながら、時速百キロのワゴン車とぴったり並走している。

〈紹介しよう。オクトパシー・ザ・ベイビーシェイカー。我が偉大なる七人の同志が一人にして、神話の都市に蘇りし機械仕掛けのケンタウルス。戦場を駆け回ったゆりかごベイビーシェイカーだ〉

 スピーカー越しに聞こえる、まるで難関大学に合格した我が子を自慢するようなボルケイノの声を無視して、ヴォイドは両指十本のワイヤーを、その悍ましい姿のケンタウルスへ向けて勢いよく解き放った。だがその瞬間、妙な感覚がワイヤーを伝って指先を刺激した。実際に目の前で起こっている事実を確認して、さらに愕然とした。全てのワイヤーが、オクトパシーを避けるようにして、あらぬ方向へ散ってしまっていた。まるで滅茶苦茶なフォームで投げられたフリスビーのように。腕の磁力装置でコントロールしようにも、全く軌道が制御できなかった。決して強風の影響ではなかった。見えない壁に弾かれているような手応えしかなく、しかも、なにが原因でそうなっているのか判然としなかった。

 座席下部に備え付けていた簡易救急セットで止血作業に入っていたアンジーが、火急の事態を感知してすかさず援護に出た。うなじや手首や足首。露出した皮膚上に褐色の分泌液を滲ませて揮発。仲間に危害が出ないように指向性を操作しながら放たれたその毒霧は、ワゴン車のスピードに食らいついてくるオクトパシーの全身を丸ごと呑み込むように、素早く球形状に取り囲んだ。ストロベリィを襲った時とは異なる、濃い橙色だ。毒性は無色透明のそれより幾分か劣るが、威力低下を覚悟してまで毒霧に色をつけたのは、ある狙いがあってのことだった。

「轢き殺しぢゃるううううううう!! 轢き殺しぢゃるううううううう!!」

 狙いは的中し、考察の材料を引き寄せた。オクトパシーが、苦悶というよりかは嘲りを匂わせる声色で何事かを叫んだ拍子に、周囲に展開していた毒風の牢が破裂した風船のような勢いと呆気なさで周囲へ拡散した。色がついているぶん、夜でもはっきりと霧の動きを追う事ができた。それで分かったのは、内側から強烈な圧力が連続的に発生して毒霧の牢が破られた可能性が高いということで、そこからアンジーたちはそれぞれに所感を抱いた。防戦一方な戦況を、どうにかして好転させるための手掛かりを。

「空気だ。奴は空気で作った壁を操作している」

 ヴォイドが端的に、それでいて正確にオクトパシーの能力を早口で暴いた。

 周囲の空気を複雑に流動させて自らの周囲に『壁のように』展開し、迫り来る多数のワイヤーを逸らすだけでなく、形成した空気壁を押し出すことで毒霧の立体的な攻撃を散らして無力化する。そんな攻防一体に優れたオクトパシーの異能力が暴かれたことで、逆に士気を上げる者がいた。言わずもがな、チーム一番の銃撃手であるパンク・バレルである。

「イッパツぶち込んでやるよクソ馬がよぉ!」

 後方から迫るスポーツカーからは目を放さず、喉元に仕込んだ音響探査を作動させて、周囲の空間を精密に把握しようとした直後、ワゴン車が盛大な音を立てて左右に揺れた。オクトパシーが周囲に空気壁を展開した状態で、恐ろしく軽やかなステップを披露しながら一気に距離を詰めて体当たりをしてきたのだ。パンクは銃を抱くように構え、後部座席の窓越しに標的へ向けて掃射するも、ガラスが粉々に割れただけで、肝心の銃弾はオクトパシーを避けるように、あらぬ方向へ逸れていった。

「轢き殺しぢゃるううううううう!! 轢き殺しぢゃるううううううう!!」

 圧倒的な防御力を維持したまま、オクトパシーが再び体当たりを敢行してきた。壁の威力は相当のものだった。鋼鉄製のハンマーを叩きつけられたように、いともたやすくサイドミラーが吹き飛ばされた。衝撃の余波を殺せず、車体が軽く浮いて斜めに傾き、リアサイドがガードレールに擦られて、耳障りな金属音が鳴り響いた。

 前後不覚な揺れに、ヴォイドもアンジーも反撃の姿勢を整えることができなかったが、パンクだけは――高速移動の際に働く体内のジャイロセンサーが他の二人より優れているのもあって――バランス感覚を維持し、焦慮に呑まれそうなところを必死に踏みとどまり、音響探査を応用してオクトパシーが構成する空気壁の探査と解析に集中していた。

 時間との勝負。だが反撃の猶予など与えないとばかりに、オクトパシーは車体から離れると、一度目や二度目の体当たりの時よりも大きく距離を取りつつ、それでいて力強い蹄のステップで素早く助走をつけて、三度みたび突進せんと車線を越えてきた。

「轢き殺しぢゃるううううううう!! 轢き殺しぢゃるううううううう!!」

 口から粘つく涎を垂らし、真っ白な瞳に禍々しさを宿した怪人。ヴォイドはぞっとするしかなかった。このままでは車ごと圧し潰される。彼に限らず、アンジーもパンクも、最悪の光景が脳裡を過った。

 だが幸運なことに、まだ死の女神は彼らに微笑まなかった。ワゴン車のエギゾースト・パイプから、まるで獣の目覚めの息吹のように莫大な白煙が吐き出され、エンジンが獰猛な唸り声にも似た駆動音を上げたのだ。速度が一定に制御されているはずの状態では、まず見られない現象だった。

「アンジー! とばせ!」

 何かを悟ったヴォイドの叫びが、アンジーに本来の役割を思い出させた。急ぎハンドルを左手だけで握り締め、割れたフロントガラスの向こうを睨みつけると、アクセルを踏む足に力を込めた。オートドライブでロックされているはずのアクセル・ペダルが、これといった抵抗もなく動いた。スピードメーターの針が飛び起きたように大きく振られ、タイヤの回転数が急速に向上し、道路の表面を削り取るような勢いで速度が増した。

 危機一髪。左後部のテールランプこそ空気壁の圧力で弾き壊されたが、致命的な一撃は空を切り、ガードレールの一部が、べこん! と音を立ててひしゃげるに終わった。

「オーウェル! 回線を取り戻したのか!?」

 後方確認をしながらのヴォイドの問い掛けに、スピーカーから聞き慣れた声が響いた。

〈なんとかね。けど、安心はできない。今もサイバー・ワームでマルウェアを片っ端から破壊してるけど、いつまたシステムをハックされるか分からない。敵の手数が多いし早いんだ。耳から変な汁が出そうだよ〉

 車体に搭載された運転システムの権限を辛うじて取り戻した割には、どこかオーウェルの口調には弱音が混じっていた。それだけ、敵の電子的工作が予断を許さぬほどの猛攻なのだろう。

〈ヴォイド、聞いてくれ。こっちはこっちでやらなきゃならないことがある。あのクソ煩い歌声を止めなきゃ。だから〉

「サポートが不十分になる可能性があるということだな?」

〈ごめん。情けない話だけど〉

「了解だ。聞いたなアンジー、そういうことだ。前の車を追い越して、追撃を振り切るぞ」

「なぁに寝ぼけたこと言ってんだ」

 四本の腕に黒光りするサブマシンガンを構え、パンクがこめかみに青筋を浮かべながら反論しつつ、後部座席の窓から上半身をぬっと覗かせて続けた。相棒を失くした悲しみに暮れる時間など、とっくに過ぎ去っていた。殺意の弾丸を込め、使い慣れた暴力の感触を確かめようとする、一人のハンターとしての顔だけがあった。

「やられっぱなしじゃ性に合わねぇ。誰を敵に回してんのか、しっかり骨身に叩き込んでやる必要があるぜ」

 狂暴にして、どこか軽薄さを感じさせる口調でも、パンクの脳内は冬の寒空のように冷静だった。目まぐるしく加速する戦闘の渦の只中にあって、彼は己の立ち位置を見失わずにいた。時速百五十キロを超える、恐るべきカーチェイスのど真ん中にいる事実を。

 それこそ、音響探査装置のたまものと言えた。反響する膨大な周波数の連なりを、改造した中耳、内耳、外耳で捕捉し、脳内で処理し、解析し、電子化された視覚野へ投影することに注力する。その矛先となるのは言わずもがな、後方から迫り来るオクトパシーが形成している空気壁である。

 漫然と観察しただけでは到底気付けない、大気の複雑な流動の最中に出現する小さなスポット。オクトパシーのすぐ足下でそれは発生していた。すなわち、蹄の接地地点。地面を蹴る際の障害とならぬように、蹄の周囲だけは空気の壁が薄く形成されているのだった。探査で得たその知見を下に、パンクは静かに燃える狩人の眼差しを以て、狙いを定めた。有効打を放てるのは自分しかないという自信家の思考と共に、引き金にかかる指に力を込める。迷いは全くなかった。恐怖すらも彼方へ放り投げた後だった。

 四つの銃口が小気味良い連射音を奏でた。精密な弾道計算の下で、銃弾は道路や、街灯や、ガードレールに跳ね返って、風を切り裂き、幾何学的な跳弾の軌跡を刻んだ。TOP ONE GUN MISTER ONE。ただ一人の優れた銃手としての本領発揮だ。

「ヒィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッッ!」

 オクトパシーの太い首がぐらりと傾き、いななきのような悲鳴が闇夜に木霊した。左前脚と鳩尾付近と右後脚に、牙を鋭く突き立てるように銃弾が食い込んだ。

 よろめきかけた態勢を立て直そうとしたところで、膨らみ切った風船が破裂するような音がした。オクトパシーの足下付近で跳ね返った銃弾が空気壁を破り、鉄壁の防御という肩書きを引き剥がした音だった。人馬の絶叫が迸った。見るからに強靭な四本脚の筋繊維が次々に絶たれ、赤茶色の豊かな体毛が血に染まっていく。

「次は脳天を狙ってやる」

 舌なめずりをしていると、唐突にクラクションが二回鳴った。オクトパシーの背後からだ。それを合図に、人馬は血を滴らせながらステップを切り替えると、左車線へ移って急激に速度を落とし始めた。相対的に速度を上げるのは、青一色のスポーツカー。助手席で不敵な笑みを浮かべる、ボルケイノ・ザ・ノックス。

「親玉じきじきのお出ましってやつか」

 逃げた獲物への興味はあっという間にしぼんでいき、新たに姿を見せた、全力を賭すのに相応しい最高の獲物を前に、パンクの心臓は興奮で燃え上がった。体中を巡る血液が熱を帯びるようだった。口から生暖かい吐息を零して、四本の腕で銃を構え直した。手首や肘の角度をどうすればいいか。どのタイミングで引き金を引けばいいか、この時のパンクは完全に理解していた。

 だが、その理解をいざ実行というかたちで実現しようとする直前、いきなり、鼓膜を直接殴られたような衝撃に襲われた。ほどなくして、凄まじい頭痛が到来した。意地でも指先に力を込め、銃こそ手離さなかったが、それにしても耐え難かった。頭の中で、ガラスの破片が踊っているかのような激痛だった。

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