2-42 PM17:20/チェイス・カウンター・チェイス②

〈よろしい。ならば力づくで奪うまで〉

 ハンドルを握ったまま、器用に身を屈めて銃撃をやり過ごしたボルケイノ・ザ・ノックスが、うっそりと笑みを浮かべた。彼の隣でハンドルを操るムルシエラ・ザ・スクリームもまた、昆虫そのものな瞳を三日月型に歪めて、くつくつと嗤い声を漏らした。

詰みチェックだ。君達の車は、歌姫の放つ魔声に苛まれることになるだろう〉

 それは正しく、宣告だった。ワゴン車がオートドライブモードへ勝手に・・・切り替わり、アンジーの手の中でハンドルが正位置を取り戻そうと回転しだした。アンジーは歯を食いしばってハンドルを握る手に力を込め、どうにかしようとしたが、どうにもならなかった。明らかに、車体の自動運転システムに介入されたことの証だった。敵は、アジトにあるオーウェル自慢のメインフレームへ情報サービス会社のゲートウェイを通じてクラッキングを仕掛け、サーバーの管理者権限を奪い、違法構築した回線を通じ、遠隔操作機能を備えたワゴン車へ電子的攻撃を働きかけていた。どうやってアジトのIPアドレスを割り出せたのか。三人とも全く見当がつかなかったが、そのぶん余計に背筋が凍り付いた。

 オートドライブモードへ切り替わったせいで、車体に速度制限がかかり、ワゴン車の時速は百キロまで落ち込んだ。窓の外を勢いよく流れていた風景が、わずかにその輪郭を取り戻す。それと前後して、ワゴン車の前方を走るスポーツカーのサンルーフが開く。運転手はヘイフリック・ザ・ディスクランチャーが務めており、残る二人のうち一人の怪人が、後部座席からぬっと身を乗り出してきた。

「アタシを捨てないでエエエエエエッッ! アタシを捨てないでエエエエエエッッ!」

 ストロベリィ・ザ・ホワイトヴェノムだった。彼女は真っ赤なブーツで包まれた足をルーフのへりにかけると、ブロンドの長髪を風になびかせ、真っ赤なペストマスクの向こうで奇怪な叫び声を上げながら、露出狂さながらに勢いよく両手でコートを広げた。露わになる大量の乳房。闇に映えるその白い肉の集合体の突起から、これまた真っ白な強溶解性の毒母乳をワゴンのタイヤ目がけて放とうとしたが、どうしたことか、いきなり喉の辺りを抑えて苦しみだした。

 体内に小型の薬品工場を持つに等しい能力を宿すアンジェラ・ミキサーの、不可視の化学的攻撃によるものだった。毒には毒を以て制するという言葉があるが、まさにそれだった。体内で攪拌ミキサーされた有毒性の化学成分が、うなじの辺りからじわりと滲み出て、たちまちのうちに気化すると、運転席側の窓を通って、確実にストロベリィの喉元へ食らいついていた。指向性を持つがゆえに強風をものともしない、無色無臭でいて人体の皮膚や粘膜を著しく傷つけるたぐいの、容赦のない毒霧攻撃である。

「アダジッ! アダジッ! アダジィイイイイイイイイイイイイイイイ!!?」

 くぐもった狂声を撒き散らしながら、ストロベリィはしきりにマスク越しに顔を掻きむしった。ペストマスクは見た目はともかく、防毒性の面では大戦時のものとそう変わらない逸品だ。だがサンルーフから飛び出した際に横殴りの強風に煽られたせいで、わずかに顔面部との密着性が低下していた。そのせいで、まるで古ぼけた家屋の隙間を縫って流れ込む夜風のように、意図せずに大量の毒霧を吸い込む結果となってしまっていた。

「そのままとっととくたばりやがれ!」

 戦闘本能を剥き出しにして、思わず口調が乱雑になる。運転がマニュアルに切り替わらないぶん、アンジーは攻撃に集中することに傾注した。次第に、マスクの向こうで激しく咳き込みながら、がくがくとストロベリィの全身が痙攣し始めた。

〈ほう――私と似たような力を持っているのか〉

 脳に埋め込んだ機器を展開し、仲間との視界共有で一連のやりとりを観察していたボルケイノの呟きがスピーカーから零れ出るも、車内に渦巻く風に浚われ、誰の耳にも届かなかった。だが風のあるなしに関係なく、突然の狂乱に遭遇したヴォイドたちにしてみれば、他人の声に耳を傾けている余裕など皆無だった。特にアンジーは額に脂汗を浮かべながら、悶え苦しむストロベリィの様子を注視し、毒の配合や濃度を連続的に調整するのに余念がなかった。

「アダジッィィィィイイイ! アダジッィィィィイイイ!? ア゙ッ! ア゙ッ! ア゙ダジイイイイイイイッッッ!」

 苦悶の叫びを上げる仲間の窮地にたまりかねたのだろうか。赤い手甲に覆われた何者かの大きな手が車内からぬっと伸び、ストロベリィの首根っ子を掴んで、後部座席へほとんど放り投げるようにして退避させた。直後にサンルーフが閉じて、スポーツカーが急速にギアを上げた。ぐんぐんと速度を上げて、みるみるうちに距離を稼ぐ。

「いい度胸じゃないの」

 恐慌と闘争心からくる歪な笑みを顔面に張り付かせながら、アンジーはさらに力を高めた。臓器をフル稼働させて、次々に毒霧の主成分を体内に蓄積し、間断なく気化させていく。自慢の毒霧で、運転手ごと抹殺できるチャンスはいくらでもあるように思われた。カーエアコンの排気口なんかが特にそうだ。仮にエアコンが備わっていなくとも、アンジーにとって大した問題ではなかった。ガラスとフレームの境目なんかが狙い所だろう。カミソリの歯一枚ですら通らないほどの、隙間とも呼べぬ隙間であっても、指向性を持つ気体であればどうということはない。突破力と侵襲力に関して、アンジーは己の能力に大きな自信を持っていた。

 だが、どうしても逃れられない弱点があった。それが距離だった。車間が五十メートルほど開いたところで、ついにその弱点が露呈した。ワゴン車の車速が制限を受けている以上、驀進するスポーツカーとの距離はどうしても詰められない。苛立たしい感情に支配されそうになっていると、安全圏を確保したスポーツカーのサンルーフが再び開いた。中から現れたのは重傷を負ったストロベリィではなく、先ほど彼女を車内へ退避させた張本人――全身を赤塗りの鎧甲冑で完全武装した男だった。

「ブッた斬って刺す! ブッた斬って刺す!」

 アトラス・ザ・ゴッドスピードである。兜の奥で光る眼差しは睡魔に襲われたように虚ろげであるが、恐ろしいほどの威圧感を放つ巨漢であった。まるで分厚い鋼を何枚も重ね着したような出で立ちとでも言おうか。その猛々しい巨漢の姿が――突如として消失・・した。と思った次の瞬間には、ワゴン車の前方バンパーに、重機が激突したような凄まじい衝撃が加わり、サスペンションと前輪シャフトが悲鳴を上げた。

 声にならない悲鳴を上げたのは、アンジーも同じだった。五十メートル先のスポーツカーに陣取っていたはずのアトラスが、下半身に重心を蓄えた力強いガニ股の姿勢で、いつの間にか、ボンネットの上に立っていたからだ。着地・・の衝撃でボンネットはへこみ、ワイパーが根本からへし折れた。エンジンに致命的なダメージが入らなかったのが、不幸中の幸いだった。

 アトラス・ザ・ゴッドスピードにとって、距離の移動に時間を労すことは、愚の骨頂と言えた。その身に備わった能力を発揮すれば、どれほどの長い距離だろうと、瞬きをしている間もなく詰めることができる。加速に必要な予備動作を捨て、いきなりトップスピードに入るという離れ業。さながら瞬間移動めいた、物理法則も人体の限界も無視した神懸かり的な超高速移動は、まさに神速ゴッドスピードと称するに相応しい。スポーツカーがアンジーの攻撃圏外へ逃れた時点で、それはアトラスにとって、自らの攻撃圏内を確保したことを意味していた。

「ブッた斬って刺す! ブッた斬って刺す!」

 野太い声を上げて、アトラスの両手が目にも止まらぬスピードで動いた。左右の腰に拵えた鞘から鋭い銀閃を奔らせ、両の手で逆さに構えるは二本の日本刀サムライ・ブレード。まるで巨大化したカマキリだった。だがカマキリよりもずっと素早く、ずっと鋭く、ずっと狂気に囚われていた。

「ブッた斬って刺す! ブッた斬って刺す! 斬る! 刺す! ブッッッッッ滾る!」

 仲間の仇と言わんばかりに、アトラスは驚異的なバランス感覚を駆使しながら、時速百キロで走行を続けるワゴン車の上で真っ白な歯を剥き出しにして、力の限り獰猛に荒れ狂った。夜風を切り裂くように振り上げられた二本の刃が、たちまちのうちに赤熱。柄の部分に設置された微細振動装置を作動させたのだ。

 灼ける刃と化した二本の太刀を、運転席側のフロントガラス目がけて突き立てる。一度目の刺突で真っ白な亀裂が生じ、二度目の刺突でガラスの全面が盛大に砕け散った。強風が車内へ雪崩込み、ガラスのシャワーがヴォイドの顔面へ叩きつけられ、アンジーが風圧に思わず顔をしかめた。それこそ決定的な隙であった。

 アンジーの右肩を、アトラスの左手から繰り出された刺突が容赦なく襲った。刃の先端がダウンジャケットごと華奢な肉を突き潰し、肩甲骨を完全に砕き、座席シートを真っ直ぐに貫通。後部座席の下のスペースへ自主的に退避していたニコラが、シートからいきなり飛び出してきた赤熱する切っ先を見て、「わっ!」とびっくりしたように目を丸くする。

 高熱に炙られて、傷口から焦げた生肉のような悪臭が漂った。灼けつく痛みに、アンジーの喉奥から絹を裂いたような悲鳴が飛び出す。わずかに滴る血が腕を伝ってジーンズに染みを作った。ただちに痛覚遮断システムが作動したことで痛みは除去されたが、体に刻まれたダメージはそれなりに深かった。後部座席に陣取るパンクが後方の車へ向けてぶっ放すマシンガンの轟音が、やや遠くに感じられる程度には意識がぐらついた。

「斬った! 斬った! 斬った! 刺した! 刺した! 刺したァアアアアアアアッッッ!」

 アトラスは歓喜の雄叫びを上げて血に焦げついた太刀を引き抜くと、今度は右手に持ったもう片方の凶刃を、猛然と振り下ろさんとした。

 その時、翼を得た蛇のような迅速を伴い、火花を散らして太刀へ巻き付く何かが、アンジーの視界に飛び込んできた。細く硬質化した液状金属。鋼線ワイヤーだった。ヴォイドの右手から放たれた決死の一撃である。

 完全防弾仕様のガラスをたったの二撃で破壊せしめた太刀の切断力を鑑みれば、ワイヤーを溶断するのは容易いはずだった。しかしながら、ワイヤーの太さがそれを困難にしていた。五本のワイヤーは、仕手であるヴォイドの指先から逐次供給される液状金属のコーティングによって太さを増し、弾性も強度も、通常時のミクロンサイズのよりもはるかに向上していたのだ。

「ブッた斬って刺す! ブッた斬って刺す!」

 アトラスは左腕に万力を込めると、いまだ薄く血煙を上げる太刀を猛然と振りかぶった。アンジーではなく、右手の愛刀へ向けてだ。ワイヤーを叩き斬ろうというのだ。

 だが太刀が振り下ろされる寸前、動きを読んでいたヴォイドの左手が素早く振りしなった。銃弾のような速度で放たれたワイヤーは太刀へ勢いよく巻き付くと、アトラスの反撃をギリギリのところで封じ込めるのに成功した。

「やら、せる、か……ッ!」

 顔中にガラスの破片が突き刺さり、血を滴らせながら、ヴォイドは苦闘へ没頭していった。腕の力だけではどうにもならないと分かると、ダッシュボードに片足をかけて踏ん張りをつけて、両拳を硬く握り込み、思い切りワイヤーを引っ張る。

 ギン、と鋼の死線が張り詰めた。アトラスは柄を握る手に力を込めながら、下半身に更なる重心を置いて、太刀ごと体を持っていかれないように耐えるしかなかった。

 ヴォイドの足が、さらに踏ん張りを強めた。加えて磁力装置が作動。太刀へ巻き付いている部分がノコギリめいた歯刃を生じさせてワイヤー・ソーと化したのを確認すると、今まで以上の踏ん張りを込め、懸命に奥歯を食いしばった。

 力と力の均衡に終始していたロープ・ファイトの天秤が傾く瞬間は、唐突に訪れた。耳障りな金属音と共に、赤熱した二本の太刀が中ほどから完璧に折れた。

「斬ッ! 斬ッ! 斬ッイィィイイイイイイイイイイイッ!」

 アトラスは怪鳥音めいた叫びを上げると、なまくら同然と化した太刀を二本とも道路へ投げ捨て、最後に残った無銘の一太刀を――己の股間部に上向きに装着された赤塗りの鞘へ手をかけようとしたが、太刀をへし折り、宙を蛇行して迫る無数のワイヤー・ソーを目にして路線を変更。自慢の超高速移動で一息せぬうちに離脱し、ストロベリィたちのところへ退避していった。

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