幕間 昏き黄昏れのフラジィル

 鬼血人ヴァンパイアコロニーがひとつ《斜陽の冠》は、その拠点を地下から雪深い山脈へ移設してもなお、人類が引き起こした大陸間戦争の余波をものともせず、吹雪降り荒ぶ極寒の世界で、密やかにその雄姿を湛えていた。

 いま、戎律のベルハザードが佇む《無幻の天間》と称される一室が、その象徴と言えるだろう。岩石と木材と石膏を組み合わせた質素で武骨なコロニーの外観からは想像もつかぬほど、その部屋は機能的であった。壁の中には断熱材がみっちりと敷かれている他、地下から汲み上げた温水を巡らせるための循環用パイプラインが這い回っているし、部屋の一画に置かれた立派な暖炉はパチパチと火花を散らしているのもあって、寒さとは無縁である。

 部屋のあちこちに何本も立ち並ぶ燭台に灯る、かたちの異なる炎の揺らめき。高い天井から釣り下がる巨大な真鍮製のシャンデリアのアームは同胞の手を模して歪にくねる。青い絨毯を踏みしめているはずが、まるで羽毛の上にいるかのような軽い感覚しかない。これまで狩ってきた人間の骨を大量に集積し、石膏を使って階段状に組み上げた先に設置された原始的様相の祭壇には、天井まで届くほどに高い背を持つ、からの黄金玉座が鎮座している。

 太母に仕える護衛士の一人が祭壇の下手しもてから姿を見せ、手に持った神楽鈴を、しゃん、しゃん、しゃんと三度鳴らして、玉座へ向かって恭しく一礼したのち、足音も立てずに戻っていった。古来、人間の世界における儀礼上の鈴と言えば、人心惑わす悪しき魔物や悪霊を鎮める呪的役割を持たされた道具である。だが、ここは闇の世界。人ならざる化生の理が満ちる場所だ。当然にして鈴の音に持たされた役割も大きく異なる。それは深淵なる闇の到来を呼び寄せ、彼らにとって最も敬意を払うべき至上の存在の現出を意味していた。

 かつ、かつ、かつと、祭壇の上手かみてから響く足音を耳にした途端、それまで凍り付いたように身を硬くしていたベルハザードは、さっと腰を落とすと、緊張感に満ちた表情のまま、静かに片膝をついて、恥じるように顔を伏せた。

「面を上げなさい、勇敢なる我が子よ」

 やや間があってのち、頭上から声が降ってきた。秋水の刃のように研ぎ澄まされながらも、体の芯にじわりと沁み込むような暖かみを感じさせてくれる独特の声色。何度も耳にしたはずなのに、聞く度に全神経が新鮮味を覚える、奇妙で忘れがたい心地良さ。

 言葉に甘えるかたちで、ベルハザードはおもむろに顔を上げた。黄金玉座に悠然と腰かけるその人を視界に収めた瞬間、感嘆とも感動とも取れる溜息が自然と小さく洩れてしまう。

 地平に広がる大海を彷彿とさせる、艶やかな蒼髪。悪魔の火のように燃える緑瞳。血のようなアイシャドウ。白磁のようにきめ細やかな肌に真紅のシルクドレスが良く映える。鋭角に襟を立たせた闇色のマントに皺ができないように細心の注意を払い、両足を閉じて両手を膝の上に置く、彫像のようなしなやかさを湛えたその姿。

 ベルハザードやエヴァを生み育てた《斜陽の冠》九十二代目始祖。連綿と続くコロニーの絶対的守護神にして、月の影のように美しき女大君。

 その名を“昏き黄昏れのフラジィル”と言った。

「差し上げた斧の使い心地はどうですか? 狩りには役立っているかしら?」

 微笑みを浮かべる太母。そのあまりの美しさと、滲み出る包容力を前に意識が軽く遠のきかけるも、慌てて平服して応える。

「貴方様から賜った物でしたら、路傍の石ですらも、私にとって生涯の宝でございます」

 緊張のあまりか、妙に分かりにくい遠回りな言い草になったベルハザードの様子を察して、フラジィルは軽く破顔した。他のコロニーにおける太母は、組織を束ねる絶対的な存在として常に強く厳しく振る舞う傾向が多い中、蒼き黄昏れのフラジィルは違った。彼女は、まるで人間の母親が子供に接するように、日頃は慈愛の眼差しを向け、時に必要とあらば叱咤激励する、一風変わった鬼血人ヴァンパイアであった。

「あなたって、本当にユニークな人ねベルハザード。まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかったわ」

「はっ! これは大変失礼をいたしました!」

 ほとんど土下座と言っていいくらいの格好になるベルハザードを見て、慌ててフラジィルが訂正する。

「怒っているわけではありませんよ? とてもあなたらしい、賢さと優しさに満ちた返事ですね。どうもありがとう。さぁ、顔を上げてください。あなたの凛々しいお顔を、もっと良く見せて」

「はっ!」

 うながされるかたちで、ベルハザードは恐る恐る顔を上げた。緊張の色はいくらか和らいでいるが、それでも胸の高鳴りが止むことはない。なぜなら、今日この日に自分が呼ばれたその意味について考えるたびに、大変な栄誉を賜ったと感激するその一方で、言い知れぬ不安感を覚えずにはいられないからだ。

 今日が太母にとってどのような意味を持つ日であるか。ベルハザードでなくとも、コロニーに属する全ての鬼血人ヴァンパイアが理解している。

《宮入りの儀》――その前日であるということ。

 当代の太母が、次世代の太母を、文字通り己の命を懸けて産むという神聖極まる儀式へ臨む際、以降の面倒は太母の近衛たる護衛士たちが全て務めるというのが、コロニーの長い歴史における習わしであった。つまり、最前線で人間狩りに勤しむ乱獲士たちを相手に太母が姿を見せるのは今日が最後であり、明日以降は、彼らが収穫してくる人血を糧にして、何か月もかけて次世代の太母をその身に宿すことに、全神経を集中させるのだ。

《宮入りの儀》以降の太母との面会は絶対的禁忌とされており、また、当代の太母の死に目に会うことも許されない。それもまた、コロニーの伝統だった。太母は出産の時を迎えると、世話をしてくれていた護衛士たちすらも遠のかせ、ひとり闇の世界で、死と生の接点の只中で格闘することとなる。確実に迫り来る死の恐怖に怯えながらも、生まれてくる命に自らの記憶を引き継がせ、コロニーの行く末を託す。

 そんな凄絶としか言えない儀式へ臨んだ時点で、乱獲士たちにとっての当代の・・・太母は、死んでしまったも同然の意味を持つ。いくら次代の太母へ記憶と名が引き継がれようとも、それは以前から知っている太母ではない。無論のこと尊敬の念が揺らぐことなど万が一にもあり得ないが、それでも一抹の寂しさは残るというもの。

 そのことを考えれば、今日という日がどれだけ代えがたい一日であるか、言うまでもない。九十二代目始祖の座を務める昏き黄昏れのフラジィルは、人生の最後に会う鬼血人ヴァンパイアに自分を選んでくれた。コロニーに全てを捧げる覚悟で生きてきた己にとって、これ以上の名誉はない――そうベルハザードが考えるのも当然のことだった。

 しかし、一方で気がかりなこともある。なぜ太母は、今日になってわざわざ自分を呼びつけたのか。まさか雑談だけが目的ではないだろう。何か自分に、言い残すことがあるのだろうか。

 ベルハザードはしっかりとフラジィルの瞳を見つめ、ただ言葉が紡がれるのを待ち続けた。そんな彼の意を汲んだのだろうか。フラジィルは一呼吸置いてから、長い睫毛を少し伏せて、粛々と話し始めた。

「貴方を今日、ここに呼んだのは他でもありません。我が血によって生まれし孤独なる子、黒き冠のエヴァンジェリンのことで、どうしても伝えたいことがあるのです」

「エヴァが……あやつがどうかされたのですか?」

「私は、あの子に何もしてやれませんでした。ただ一人、太陽の呪いを授かり、苦難の道を歩むあの子の孤独を、分かち合うことができなかった。その事を大変悔いているのです。私がなにか、気の利いた言葉の一つでもかけてあげられたら良いのですが……」

 そう口にしながら、フラジィルは寂しそうげな表情を浮かべるしかなかった。

 黒き冠のエヴァンジェリンは、よく己を卑下していた。この身に流れているのは『穢れた血』だと。その事実を知らないフラジィルではなかった。出生時に鬼血人ヴァンパイアの特性を決めるのは太母自身の神秘的な意志の力によるものだが、時として誤謬が生じる。その割を食ったのが他ならぬエヴァであった。

 太母には責任がある。全ての子を愛し慈しむという責任が。だからこそ、母親として彼女に何かしてあげられることはないかと考えるのは当然で、フラジィルが自己を無力であると責めるのも、無理からぬ話ではある。

 だが、耳にする側のベルハザードからしてみれば、これほど悲しい吐露もなかった。彼女が口にしている内容は理解できるが、完全に納得できるかと言われれば、それは違った。

「あの子が自らの境遇を呪っているのであれば、その責任は、あの子を日向を歩く者デイライト・ウォーカーとして産んだ私にこそある。そう思わずにはいられません」

「恐れながら、申し上げたきことが」

「なんでしょうか」

「以前、大角殿クシュットの場で、あやつはこう言っていました。自分がどう生きればいいのか分からない。それが怖いと。鬼血人ヴァンパイアとしてどうあるべきか、迷っているようにも見受けられました」

 ベルハザードは続けて口にした。

「私が思うに、あやつは己の心を正しくコントロールできていないのではないでしょうか。日向を歩く者デイライト・ウォーカーとして生まれたことは発端に過ぎず、根本的なところで、あやつは己を見失っているように感じます。ですから太母様、どうかお気に病むことのなきよう、これは、あやつ自身が克服せねばならぬことです」

 太母のプライドを傷つけず、エヴァへの悪罵にもならないように気を回したベルハザードの意見を耳にして、フラジィルは目を細めた。

「やはり、エヴァの世話役を貴方に任命したのは、正しかったようです。本当に良く、あの子のことを見ていますね」

「恐悦至極に存じます。あやつもまだまだですが、なぁに、これからも私がビシバシ鍛えてやりますとも。そしていずれは、太母様が以前仰っていたような、一族に調和ハーモニーをもたらす存在に――」

 続く言葉は、しかし喉奥に押し込まれた。ごくりとベルハザードは息を呑んだ。フラジィルの目を見てしまったからだ。その緑の炎に燃える瞳の奥に、悲哀の色が浮かび上がっているのを、しかと目撃してしまったからだ。

 緩み切っていたベルハザードの表情に、一気に緊張感が蘇ってきた。口を滑らせたか? なにか要らぬ発言を零しただろうか? 焦慮がみるみるうちに脳内を満たす。太母の機嫌があからさまに変調した理由が己にあるのだとしたら――そう考えると、ベルハザードは心臓が口から飛び出そうな気持ちで一杯になった。

「私も、当初はそのように考えておりました。あの子は一族唯一の存在。ゆえに、一族の調和ハーモニーを司る存在になるだろうと。ですが……そうではないのかもしれません」

「それは……どういう意味でしょうか」

 重々しく開かれたフラジィルの言葉から、こちらの発言に非があるわけではないのだと察し、内心でベルハザードは安堵した。だが、新たな疑念が生じたのも確かだ。今のフラジィルの発言に引っ掛かる部分があった。エヴァンジェリンの存在そのものに対し、何か思うところがあるのだろうか。

「貴方もご存じの通り、血騰能力アスペルギルムの強度は鬼血人ヴァンパイアの血液量と比例しています。そして、血液の総量が後天的に増加することはありません。それは黒き冠のエヴァンジェリンにも言えることです。あの子の血液総量は一般的な鬼血人ヴァンパイアよりもはるかに少ない。本来なら血騰能力アスペルギルムのみならず、血眼フレンジィすら駆使できないはずなのです」

「すると、あやつの力は血に由来するものではないと……? まさか、日向を歩く者デイライト・ウォーカーであることと、何らかの関係があると見て良いのでしょうか」

 ベルハザードの推測に、フレンジィは力なく首を横に振った。

「いかんせん前例の無い話ですから、なんとも断言しかねます。しかしここで考えるべきは、彼女の特異体質の根源についてです。力が血に由来しないとするなら、何に由来するのか……ねぇ、ベルハザード」

「はっ!」

「貴方、呪術という言葉を耳にしたことは?」

「多少は。人間が相手を呪い殺すために縋る、精神的技術ですな。いかにも畜生文明らしい、浅ましい欲望の権化と言える代物でありましょう」

「呪術の根本は心の働きにある。以前、そのような話を耳にした覚えがあります。怨敵と定めた人物を心の奥底から憎み続け、目には見えない『負のベクトル』を操作して『死』というかたちで実体化させる。どこか、我々の扱う血騰能力アスペルギルムに近しいとは思いませんか?」

「…………」

 ベルハザードは思わず閉口した。まさか太母からそんな台詞が出てこようとは、夢にも思っていなかった。

「少々、理解しかねる話ではありますが……」

 意図的に苦笑を漏らした。太母へ忠誠と崇敬の念を抱いているベルハザードではあるが、相手の意志に絡め取られて操り人形と化す、イエスマン的性分の持ち主ではなかった。

「ただの偶然でしょう。あるいは奴らが、我々の力を猿真似したのやもしれません」

 闇に見初められし高貴なる種族と、いたずらに地を這うだけの哺乳類の成れの果てとを同列に扱うのはいかがなものか。言外にそのような含みを持たせるも、フラジィルの顔は晴れない。

「しかし、あの子は何もかもが規格外の存在。私達の常識が通用しない可能性も、無きにしも非ず」

 フラジィルはゆるりと足を組み変えると、瞳を皿のように細めて言葉を続けた。本題に入る直前に見せる癖だった。ベルハザードは耳に全神経を集中させた。一言も聞き漏らすことのないように。

「単刀直入に言いましょう。あの子の、黒き冠のエヴァンジェリンの力の根源は、彼女の無意識空間のさらに奥底にある未知の不可視領域、すなわち『イド』にあると、私は考えているのです」

「イド、ですか。それも人間世界の言葉ですか?」

「ええ。精神医療分野の学術用語らしいのですが、個人個人の心の奥底にある、深層心理と呼ばれる領域に眠っている、攻撃的な動因となる暴力性や狂暴性が渦巻いている場所。それがイド。古代まで遡れば、我々と人類は同一の祖を起源とします。我々にイドがないとは、言い切れないでしょう?」

「あやつの場合は、それが力の由来になっていると?」

「そう考えるとしっくりくるのです。焦慮、興奮、苛立ち、ストレス……自らに肉体的、または精神的な負荷がかかる状況にある時、あの子の力は切れ味を増す。攻撃的な動因を刺激する外的要素が絡んだ時、あの子は無意識下に働きかけ、心のベクトルを実体化させる。それが、あの子の宿す血眼フレンジィ血騰能力アスペルギルムの根源的正体。そしてこの仮説に立った時、私が最も危惧しているのが、あの子のイドに眠る破滅の欲動が我々自身に向けられるケースについてです」

「いま、なんと?」

「このコロニーが内側から崩壊するのだとしたら、その鍵は、あの子にある」

「そんなまさかっ!? エヴァに、反乱の意志ありと仰せられるのですか!?」

 唐突な推測に仰天しつつも尋ねるベルハザード。フラジィルは右手をさっと掲げると、荒ぶり出したベルハザードを諫め、持論を述べ続けた。

「あの子本人が自覚して我々に牙を剥けるというよりも、あの子のイドが暴走する可能性の方が高いでしょう。貴方が側にいるとはいえ、謂れなき差別を受けて苦しんでいるのは事実ですから」

「…………他の者たちは、まるでなっちゃいないのです。エヴァのことを、何一つとして理解せずに……」

 恨み節が出た。自分に対する批判はいくらでも許せるが、自分が面倒を見ている者が不当に扱われることだけは耐え難い。そんな、苦渋の色を表情に浮かべている。

「……ベルハザード……勇敢で健気なる我が愛しい子よ。貴方に、ひとつ真実を授けましょう」

「真実……?」

 皆目見当もつかないと当惑するベルハザードを余所に、ちらりとフレンジィは視線を動かした。彼の腰元に備えられた手斧。一族に多大なる貢献をした報奨の品として与えた、夕焼け色の刃を持つ武具へ。

「その斧には、同胞殺しの力が秘められています」

「え?」

 思わず、間抜けな声が漏れた。

「素材に用いた特殊な鉱石を、成型前に長時間太陽光に晒してあるのです。夕焼け色の紋様は、太陽光との化学反応による組成変化の名残りなのですよ」

「太陽光……」

「その斧を貴方に授けた意味は……ここまで話した以上、お分かりですね?」

 少なからぬ衝撃を受け、ただ瞠目するしかなかった。心のど真ん中に重石を放り込まれたような感覚だった。それをまともに受け止めるだけの胆力と覚悟が自分にあるのかどうか、ベルハザードは判然としなかった。

 ベルハザードはフラジィルから視線を外すと、そっと腰の斧の柄に手を触れた。

 もしも、エヴァが一族に対して牙を剥くようなことがあれば、その斧を快刀乱麻の如く振るい、押し寄せる破滅を食い止めよ。遠回しに太母はそう告げているのだ。いつか、そんな日がやってきてしまうのだろうか。太母の杞憂は現実のものとなってしまうのだろうか。それを考えると、体の芯が急速に冷えて、あらゆる熱が奪い去られていくような、そんな恐怖に襲われた。

「しかし、一方では別の可能性も考慮しています」

 声のトーンを若干上げるフラジィル。その声に引かれてベルハザードが見上げた先で、彼女は希望を託す聖女のような面持ちで言った。

「あの子が、内なる破壊の衝動を克服し、自己の内面と正しく向き合える時を無事に迎えたなら、私たちは新たなるステージに辿り着ける」

「新たなるステージ……?」

鬼血人ヴァンパイアの、新しき生命循環の可能性です。私は、それに賭けています。今の私たちは、命の円環に囚われています。私は……いえ、この『昏き黄昏れのフラジィル』という一概念は、何千年もの間、生と死の狭間を繰り返し繰り返し往復しているだけで、種族として目覚ましい進歩をしているとは、必ずしも断言できないと感じるのです」

「しかし、現に我々は人間たちよりも、はるかに機能的な肉体を有しています。着実に進歩していると捉えるのは、至極当然のことかと」

「機能的に他を圧倒している種が、この先も必ず生き残るとは限らないのが、自然環境の理です。ましてや、複雑化する社会情勢に馴染めずに、こうして穴倉の中で生活している現状からして、果たして進歩的と言えるのでしょうか」

「それは……」

「優れた科学力を醸成しつつ、それをより広い形で外へ示すことを許されない。そんな、広くて狭い我々の世界を変えてくれる可能性を、エヴァンジェリンは秘めているのかもしれない。そのように考えずにはいられないのです」

 フラジィルは、念を押すように続けた。

「イドは、普段は決して表に出てこない欲動の海。その海を太平の静けさのままにしておくか、荒れ狂う暴力的なうねりへとするかは、当人の問題なのです。また同時に、イドはその人の心の弱さ、醜さ、浅ましさが詰まった負の領域とも言えましょう」

「エヴァは、己の心の弱さを克服しなければならない……」

「そうです。自己を省みることなく、心の弱さを他人へ向ける時、それは最恐の暴力としての姿を形取ります。それを防ぐためにも、ベルハザード、あなたには今後も、あの子の側にいて欲しいのです」

「他ならぬ太母様のお言葉とあらば、喜んで」

 一点の曇りもない眼差しで、ベルハザードは応えた。

 満足したように、フラジィルは頷いた。微笑むその瞳に、期待と哀しみの色を乗せていた。

「ごめんなさいベルハザード。貴方に全てを任せてしまう母の愚かさを、許してくれなどとは言いません。恨みたければ、好きなだけ恨んでくださって構いません」

「太母様……」

「ですがもう、私にはどうしようもないのです。お願いです。どうかエヴァンジェリンの力になってください。あの子が己の醜さを自覚し、それを受け入れた時、わたしたち鬼血人ヴァンパイアは、真に種としての完成を迎える。そう信じずにはいられないのです。その斧が、あの子の命を刈り取る事態にだけはならないように、いつでも私は、あなたを見守っていますからね。それを忘れないで、愛しい我が子よ」

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