2-39 PM17:00/恩讐は彼方に在るか①

 急に雨が降り出した。つい数十分前のことだ。最初は小雨がしとしと降る程度だったのが、中層外縁部の寂れた再開発区域に辿り着いた頃には、すっかり土砂降りの有様と化していた。上層の岩盤を傘代わりとする中心部はいざ知らず、傘の範囲外になる外縁部ともなれば、悪天候の影響をもろに受ける。重金属を多分に含んだ有毒の雨から逃れようと、ベルハザードは耐環境コートを翼のように広げて顔を隠しながら、工事用に建てられた倉庫目がけて足早に駆けた。

 倉庫の外観はすっかり赤錆だらけになっていて、開店休業状態の零細企業も同然の出で立ちであったが、一時的に雨風を凌ぐ程度なら、問題はなさそうだった。固く閉ざされた搬入口用のシャッターを、何てことなしに片手で押し上げて即席の入口を作り、中へ入る。中は埃まみれの汚れた空気が充満しており、夜かと見まがうほどに暗かったが、鬼血人ヴァンパイアの視力を以てすれば、どうってことはない。

 ベルハザードはぎろりと辺りを見回した。天井は高く、白濁した照明灯が連なっている。建築資材と呼ぶべきものはほとんどなかった。そのことから推測できるのは、この区域に再開発中止の決定が下されてから、どうやら相当の月日が経過しているらしいということだけだった。

 右肩から背中にかけて人肌と重量を感じながら、ベルハザードはだだっ広い倉庫を探し回った。使い込まれた金属棚の一か所に、誰かが忘れていった工具箱が置かれているのを見つけた。中を漁ってみると、プラスチック製の結束バンドが一束あった。それを手に取ってしばらく考えてから、ベルハザードは行動に移った。右肩に担いでいたエヴァを静かに床へ下ろし、彼女の右手首と金属棚の脚部を、バンドでひとまとめに固定して、壁にもたれかけさせた。この程度の簡素な拘束、鬼血人ヴァンパイアの膂力を以てすれば、全力を出さずとも容易に引き千切れる。だが、今のエヴァにそれが出来るかと問われたら、判然としないのが現状だろう。

『自己を省みることなく、心の弱さを他人へ向ける時、それは最恐の暴力としての姿を形取ります』

 ベルハザードは、記憶の引き出しにしまっていた太母の声を振り返った。もしも彼女の言葉通り、エヴァの力の源が血ではなく、その深層心理に眠る『イド』なのだとしたら、あの黒い魔人のような存在こそが、イドの具現体ではないのだろうか。ここに来るまでの間に思考を巡らせ続けた結果、ベルハザードは自然と、そのような仮説を己の中で打ち立てていた。

 だとしたら、イドを喪失した今のエヴァには、この結束バンドを破るだけの力すら残されていないはずだった。そこまで結論を出しかけていながら、いま一度思い返すと、どこか馬鹿げているようで、ベルハザードは二、三度かぶりを振った。太母の言葉を借りて出てこなければ、信じるどころか思いつくことさえなかったであろう推測。だが、なぜだか妙に説得力のある仮説だと思えてしまう。

 死んだように気絶したままのエヴァを見下ろしながら、ベルハザードは、腰に下げ佩いた同胞殺しの逸品へ、静かに指を這わせた。つい数時間前まで力強く握れていたはずのそれを、なぜだか今は、手に取ることすらためらわれる。

「(なぜ俺は、こいつを助けるような真似をしたのだ)」

 今更になって己の行動を省みる。殺そう、殺そうと、何年も心に誓っていたはずの穢れた血を宿す怨敵を前にして、こんな情けをかけるような行為になぜ走ったのか。自分でもうまく説明できなかった。

 だが、後悔しているのかと問われたら、それもまた違うと答えられる自信もある。あの時、雑居ビルの屋上で殺しておけば良かったとか、千載一遇のチャンスをふい・・にしたとも、思えなかった。なぜだろうか? あの黒い魔人の姿を見て、エヴァという個人の価値が、一層のこと分からなくなったからだろうか。それもある。だがもっと決定的な部分が、復讐の道をを走りきろうとする決断を鈍らせている。

『お願いです。どうかエヴァンジェリンの力になってください』

 エヴァの力になる。もちろんそのつもりでいた。あの日、あの時、蜺血げいけつに沈む太母の遺骸と、その前に立つエヴァの姿を、この目で見るまでは。

『あの子が、内なる破壊の衝動を克服し、自己の内面と正しく向き合える時を無事に迎えたなら、私たちは新たなるステージに辿り着ける』

 太母の、何かを確信するかのような穏やかな声が、脳裡で何度もリフレインする。それは、じわじわとベルハザードの心をほぐそうと沁み込んでくるが、妙に意固地な心境にも陥ってくる。S極とN極の作用を同時に受ける磁石さながらといった状況に陥って仕方なかった。

「(信じていた……俺だって当然、信じていたッ! あいつをッ! エヴァをッ! だが……)」

 あの日、希望は幻影にすぎなかったと知らされたはずだった。未来は裏切られ、後には崩壊したコロニーと、太母殺しという一族最大の罪に手を染めた同胞の足跡だけが残った。突きつけられた非情な現実に抗いたくて、命を縮めてまで仇を追ってきたのではなかったか。ここで諦めたら、今までの苦労が水の泡だ。そんなこと、誰よりもまずベルハザード自身が、痛いほど理解している。それなのに、手斧に触れる指先は、震えるのを止めてはくれない。

「……ごほっ……ごほっ……っ」

 雨風が奏でる激しい自然音が目覚ましとなったのか、エヴァの、細く白い喉から、咳音が零れた。眉間に皺を寄せ、今まさに覚醒の時を迎えようとしている。

「……ッ!」

 反射的に、ベルハザードは後ずさった。咄嗟とはいえ、意識の隙間を突かれたとはいえ、そんな反応を自然と取ってしまったことに、ベルハザード自身が一番驚いた。

「……なぜ……ッ」

 なぜ怖気づく? なぜ尻ごみをするような真似に出た? 

 たじろいだ理由を求める間もなく、エヴァがうっすらと目を開いた。

「……ぁ……」

 最初こそ、微睡が尾を引いたような声が漏れたものの、ぱちぱちと目を瞬かせているうちに、意識が緩やかに起き上がってきたようだった。だが、次に彼女の口から出た目覚めの第一声は、あまりにも鬼血人ヴァンパイアらしからぬものだった。

暗い・・……どこだよ、ここ……ううぅ……頭、いてぇ……」

「……視力が……利いてないのか……」

「その、声……ベルかっ!?」

 名を呼ばれて、思わずベルハザードは身を構えた。棚に繋がれたエヴァの右手首に視線を泳がすも、それが力任せに千切られるような予感は、全くなかった。細い手首が、本当にただ細いだけの、女の手首に見えてしかたなかった。

 今までの成り行きからして、危機を察したエヴァが野獣めいた狂暴さで食って掛かるのではないか。どこかでそう期待・・している自分がいたのを、ベルハザードは認めざるを得なかった。だがそれがないと分かった今、彼の中で、予測はついに確信へと更新された。

「……本当に力を失ってしまったとはな」

「力……?」

「自分に何が起こったか、貴様、覚えているのか? どうなんだ。答えてもらおうか」

 ベルハザードは低い声音で厳しく問い詰めながら、コンタクトレンズのオレンジカラーに染まったエヴァの目をじっと見つめた。きつく眉根を寄せて当惑するしかなかったエヴァの表情が、意識が本格的に目覚めていくにつれて、悪夢に慄くかのように頬を引きつらせ、悔しさを噛み締めるように唇を引き結び、そして自嘲するように、乾いた声で囁いた。

「当然だ。全部覚えているに決まってる。襲ってきたサイボーグを蹴散らしてやるつもりが、まんまと策に嵌って死んだかと思ったら、体の奥から得体の知れない怪物が出てきて、そいつがアタシの力をまるごとひっくるめて掻っ攫っていきやがった。でも、体を動かそうともがいても、どうにもならなかった。こうして目覚めた時には、この有様だ。こんなチンケな拘束も破れねぇぐらいには、弱っちまってる」

 そう吐き捨てて、がしゃり、と右手首をこれ見よがしに揺らす。

「貴様の体から飛び出したのは、イドの怪物だ」

「……その口ぶり、なんか知ってやがんのか」

「太母が、かつてお前の力の起源について、そう見立てをしていたのだ」

「あの人が?」

「人間や鬼血人ヴァンパイアの心の奥底。無意識領域下に眠る、狂暴性や攻撃性といった破壊衝動の動因を司る不可視の領域。貴様の場合、そいつが実体化した。貴様の膂力も、血眼フレンジィ血騰呪術アスペルギルムも、血に由来するものではなく、深層心理に由来するものだったということだ。だから貴様の場合、輝灼弾を食らっても、それは普通の銃弾を食らったのと、大差なかった可能性がある。血を構成する諸要素が、俺を始めとする他の鬼血人ヴァンパイアとは、違っているのだろう」

 日向を歩く者デイライト・ウォーカーとして生まれた以上、己にどのような特性が備わっているか経験から学んでいたはずが、更に己の知らない領域があることを同胞の口から知らされ、エヴァは少し呆けた顔になったが、それもわずかの間のことで、強がるように返事を寄こした。

「破壊衝動の動因が実体化か。どおりで。こうして捕らえられて、あんたの面を拝んでも『ふざけんな』とか『殺してやる』って感情が湧いてこないわけだ。というか、アタシの無様な姿を隠れて見ていやがったのかよ」

「貴様の戦闘が片付いたら、殺してやるつもりでいた。だが、不覚を取ったなエヴァ。いや、そんな表現が似合うのは強者が敗北した場合のみ。訂正しよう。貴様は弱者だ。どうしようもないほどの弱者だ。たかがサイボーグ如きに遅れをとるなど、鬼血人ヴァンパイアとしての誇りを持たぬがゆえに招いた、必然の敗北だ。奇跡的に命を拾っただけでも、儲けものだと思え」

「ああ、そうだよ」

「なに?」

 開き直るようにどかりと背中を壁に預けたエヴァの反応に意表を突かれ、怪訝な態度になるベルハザード。そんな彼に向かって、エヴァはぽつりぽつりと話はじめた。

「種族としての誇りなんてない。誇りなんて、持てるはずがない。太陽の下でも歩けるってだけで白い目で見られて、血の量が少ないってだけで侮られて、護衛士になったのをやっかまれて。どうやって居心地の良さを感じろってんだよ」

「それは……」

「たしかに、あんたがアタシに構ってくれた時、正直に言って嬉しかったよ。はじめての友達が出来た気分だった。それは紛れもない本心だ。でもな……アタシはよっく分かった。本当によく理解した。気絶している最中、意識が回想していた記憶・・を噛み締めているうちに、ようやくはっきりした。おぼろげだった風景が、くっきり輪郭を象ってきた」

「何を言っている」

「……ありがたかったけど、辛かったんだよ。その優しさが」

 その時、ベルハザードの蒼白い唇がわずかに震え、やや濁りはじめた赤い瞳に、動揺の色が奔った。

「普通に接してくれたのは、あんただけ。裏を返せば、それ以外の奴らは全員、アタシにとっちゃ依然として敵だったってことだ。それだけはいつまで経っても変わらなかった。あんたに優しくされるたびに、次第にこう思ったものさ。あぁ、他のやつらはそうじゃないんだってな」

 エヴァは視線を外すと、皮肉るような笑みを浮かべた。

「アタシは幸せじゃなかった。だからどうにかして、幸福ってのを手に入れたかった。でも手段が分からなかった。自分が本当は何を欲しているかも、その時・・・は全然思い浮かばなかった。それでも、幸せに飢えていた」

「なんの話だ」

「一つ教えてやるよ、ベル。あのな、アタシって奴は、幸せになる手段が分からなくてもがいている時に、幸福の絶頂に包まれている奴を見ると……殺したくなるほど憎らしく思えてくるんだ」

 己の醜さをついに吐露する格好となったその一言は、ベルハザードにとって、あらゆる意味での決定打だった。言葉の裏に潜んだ意味を見つけた瞬間、絶命間際の病人が見せる最期の一呼吸のように喉を鳴らし、震えていた指先が手斧の柄へかかる。

「貴様……どういうことだ」

「ベル、あんたの言い分は正しかった。だからさっき言ったんだよ。全部覚えている・・・・・・・って」

「貴様、それは――」

「アタシが太母を殺したことも、全部ッ! 全部ッ! 覚えているんだよッ! 思い出しちまったんだよッ! もう忘れることなんてできねぇんだッ!」

 喉奥を引き絞るように、やぶれかぶれに叫んだ。その叫びに呼応するかの如く、一際大きな稲光が轟いた。雷光が倉庫の窓を照らし、闇に包まれていたエヴァの相貌の半分を露わにした。目尻に熱い滴を溜め、唇がわなないて白い歯が覗いている、哀れな姿を。

「……どうして、そんな……ことを……」

 あれだけシラを切っていたのに、今になって思い出したとは、どういう意味だ。虫が良過ぎるんじゃないのか――顔を強ばらせ、震える声で尋ねようとしたが、言葉にならなかった。

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