2-38 PM16:00/目撃者

 たったいま目撃した悪魔的な光景を、戎律のベルハザードは心のど真ん中が砕かれるような衝撃と共に、呆然と脳裡で反芻することしかできなかった。

 つい、数十分ほど前のことである。鬼血人ヴァンパイア狩りを専門とする異形集団との苦闘を切り抜け、途中途中で人間たちを襲いながら血を補充しつつ、ベルハザードはイースト・ラウンド・ストリートを訪れた。

 鬼血人ヴァンパイアに特有の能力の一つ――同胞の居場所を感知する血の共鳴反応を活用しながら移動を続けているうちに、エヴァの居所におおよその目星がつきはじめた。

 ベルハザードは血の導きに従って、人込みで賑わう大通りを避けて裏路地を駆け抜けた。コートの裾が地面を撫でることは一度もなかった。

 位置関係を詳細に把握するためにも、立体的な視座が欲しい。十階建てのマンションが目に入ったのは、そんなことを考えていた矢先のことだった。

 ベルハザードは即座に行動へ移った。自慢の膂力を駆使してマンションの壁を飛び上り、十秒と経たぬうちに屋上へ到達。体内の恒常性を保つために素早く調息にかかり、血の巡りを安定化させながら、落ち着き払った態度で周囲をぐるりと見やった。

「やはり、いたか」

 目視にしておよそ百メートル先。社団法人や保険会社、派遣サービス会社のテナントが入った、それなりの年季を刻んだ七階建ての雑居ビルの屋上で、エヴァが何者かと対峙している姿が目に入った。

 エヴァが相対しているのは、燕尾服を着飾った若い男である。見覚えがあった。あの階層間エレベーターの一件で、自分よりも先にエヴァを襲撃していた集団の一人だ。

「(ここでも先を越されたか……)」

 一瞬迷ってから、ベルハザードは屋上に設置されている給水タンクの陰に隠れると、事の次第を見守り始めた。ちんけな雑居ビルよりもマンションの方が高層なのもあって、ここからなら完全に現場を俯瞰できた。

 エヴァと燕尾服の男が睨み合っている場へ飛び込もうとも考えたが、それは悪手とまではいかないにしろ、最善の手だとも思えなかった。騒ぎを聞きつけて、また市警の連中が横槍を入れてこないとも限らなかったし、エヴァはともかく、彼女をつけ狙う集団・・の戦闘能力がいかほどのものなのかも、まだ判然としなかったからだ。

 臆病風に吹かれたのではない。乱戦に雪崩れ込んだとしても、エヴァを仕留める自信はある。だがベルハザードは、何よりも確実性を優先した。エレベーターの時と同じ轍を踏むわけにはいかないのだ。

 それに――日向を歩く者デイライト・ウォーカーたるエヴァが、たかが家畜ごときに遅れを取る可能性など万が一にもありはしないと、ベルハザードは確信していた。

 俺が命を懸けて殺そうとしている相手は、そんなヤワな奴ではない。

「早く決着をつけろエヴァ。そしたら今度は、俺がこの手で楽にしてやる」

 純然たる怒りの熱を滾らせながらも、妙な信頼感めいたものも抱いている。そのことを自覚しながら様子を伺っていると、ベルハザードは、ある異物がエヴァの背中にぴったりと張り付いていることに気が付いた。いや、しがみついていると言った方が正しいだろう。

「女……?」

 真っ赤な服に身を包み、頭には葉を編み込んだ冠を乗せている。明らかに一風変わった服装だが、顔つきや体つきからして、どう見てもただの人間にしか見えない。

 なぜ鬼血人ヴァンパイアたるエヴァが、人間の娘なんかと行動を共にしているのか? 異様な光景を目にしたことで湧いた疑問は、ベルハザードの思考で瞬く間に変換され、ある一つの解を導く公式へと姿を変えた。

「(もしかして奴らの狙いは、あの少女なのか?)」

 一つ、ベルハザードには思い当たる節があった。階層間エレベーターでの戦闘時、エヴァはバッグを背負っていた。見た目には何てことないただのバックだった。それなのに、とても大事そうににエヴァは扱っていた。そのことが頭の片隅に引っ掛かっていた。

 そして今、エヴァはバッグの代わりに少女を背負っている。

 二つのビジョンが、ベルハザードの中で完全にリンクした。

 あの時、バッグの中には少女が隠されていたのではないか?

「(奴らは最初からエヴァ個人を狙っていたのではなく、本命はあの少女だったのか?)」

 そこまで考えが至った時、出し抜けに戦闘が始まった。血騰能力アスペルギルムを展開するエヴァを前に、両手両足に蒼白い波動を纏わせた燕尾服の男の姿を見て、ベルハザードはひとりごちる。

「電磁を司る力……サイボーグか」

 再び思考の沼に嵌る。いったいどういう理由があって、サイボーグ集団が少女を狙うのか? いや……肝心なのはそこではない。エヴァはどういった理由で、人間の少女と行動を共にしているのか。そっちの方が自分にとって重要な問題であるように思えた。その問題に対して仮説を導こうとしたベルハザードだったが、眼下で開始された戦闘を眺めているうちに雑念が混じってきて、それどころではなくなった。エヴァのあまりにも一辺倒過ぎる闘いぶりに、段々と苛立ちが募ってきたせいだ。

「(どういうことだ。まるでなってないじゃないか)」

 期待はあっさりと裏切られた。筋肉の使い方ひとつとっても無駄が目立つし、細やかな重心移動にも気配りが行き届いていない。鬼血人ヴァンパイアという生まれ持ったアドバンテージに胡坐をかいているだけの、力任せの戦法。昔と比べて、明らかに精彩を欠いている。そもそも、これだけ接近しているというのに、エヴァはまったくこちらの存在に気付けていない。その時点で戦闘の感覚が鈍っているとしか言いようがない。

 この堕落した都市で、すっかり怠惰な生活を送るのに慣れ切ってしまったせいだろう。表情にも、どこか緊張感と闘争心が欠けている。いくら不死に近い体とはいえ、ろくに戦闘プランも練らずに闘争へ突入して良いわけがない。戦闘とは、もっと高潔で油断ならない、神聖な狩りなのだから。

 今の彼女を突き動かしているのは、ただの欲望だ。少なくともベルハザードにはそのように映った。見境なく血を渇望する心に肉体が振り回されて、その摩擦から湧き上がる狂暴性を「己の強さ」だと、エヴァは勘違いしている。

「(ぬるま湯に浸かり過ぎたな)」

 歯痒い。いくら相手が浮遊能力に物を言わせた機動力を持っていようが、昔のエヴァなら、ただちに間を詰めてあっさりと屠り去っていたはずだ。素人目にはエヴァが終始優勢なように見えるだろうが、このままだと案外、ころっと足下を掬われるかもしれない。

 そんなベルハザードの危惧は、ものの見事に的中してしまった。燕尾服の男を取り押さえた直後に屋上へ現れた、仲間と思しき男の指先から何かが放たれた途端、エヴァは苦し気に身をよじらせて、完全に動きを封じ込められた。まるで、見えない糸に絡め取られてしまったかのようだった。

 だが、ベルハザードにはただちに理解できた。エヴァの動きを封じたのが、肉眼で目視不可能なほどの細さを持つ強靭なワイヤーであることは。百メートル先の出来事とはいえ、微妙な光の反射の加減でそれが把握できた。どんな構造の下でワイヤーが展開されているのかも、これまでに蓄積してきた戦闘経験からおおむね予測がついた。

 蚊帳の外に置かれている自分がこれだけ冷静に状況を読んでいる一方で、肝心の当事者たるエヴァが敵の策略に気づかないとは、彼女の目は節穴も同然と言わざるを得なかった。

 鬼血人ヴァンパイアが、あっけないくらい簡単に、人間たちの反撃を受けている。種としての誇りと矜持に耐え難い傷をつけるような事実が、これまでとは違う意味でベルハザードの心を搔き乱した。

「(まずいぞ――)」

 冷や汗がこめかみを伝う。もう黙って見過ごすわけにはいかなかった。

 狙っていた獲物を、どこの馬の骨とも知らない輩に横取りされるという危機感。間違っても、助太刀に出ようという心構えではなかった。

 しかしながら、一歩遅かった。腰に下げ佩いた手斧に指をかけようとした直後。一発の銃声が、したたかにベルハザードの耳元を打った。

 反射的に瞠目した。間違いない。輝灼弾だ。ワイヤー男が構える拳銃から放たれたそれが、エヴァの右肩へまっすぐに食い込む様が、たしかに目に焼き付いた。

 致死の攻撃を食らったエヴァの絶叫が、ベルハザードの鼓膜に鋭く響き渡る。まったく予想だにしていなかった現実が、そこにあった。

「……ッ!」

 全身から一気に力が抜けたかのように、ベルハザードはその場にへたりこんだ。

 この都市は、いまだに鬼血人ヴァンパイアの脅威をトラウマとして抱え込んでいる。その証拠に、最下層で無謀にも自分を狩ろうとした酒場の店主のように、個人レベルで輝灼弾を保管しているくらいだ。なぜそのことに思い当たらなかったのか――気づいていたら、傍観に徹するという愚策に溺れることなく、真っ先にサイボーグ集団を排除する方向へ動いていたはずなのに。

 手斧の柄が折れそうなほどに力を込め、血が滲むほどに唇を嚙み締める。だがそうしたところで、結果は何も変わらない。悔やんでも悔やみきれなかった。

 戦闘を終えた燕尾服の男が少女へ近づいていくのも、エヴァの肢体を注意深く観察するワイヤー男も、もうベルハザードにとってはどうでもよかった。この手でその命を刈り取るはずだった、かつての同胞の無残な姿だけが、瞳に容赦なく映り込み続けている。

 肩から血を流し、泡を吹いたままぴくりとも動かないエヴァ。復讐の機会の喪失。太母の死と同等かそれ以上の衝撃的な光景に、胸が圧し潰されそうになる。

 信じて歩んできたはずの道が、ぷっつりと途切れたようなやるせなさ。復讐に身をやつした人生の全てを否定されたような徒労感が、鉛のような重みとなって、じわじわと体中を侵食していく。

 これからどうすればいいのか――生き甲斐を奪われ、呆然とした心持ちで、潰えた未来の先についてぼんやりと想像を巡らせ始めた、その時だった。

 恐るべき悪夢が、ゆっくりと身を起こし始めたのは。

「なんだ……?」

 絶命したはずのエヴァ。その腹の辺りから、着ている服越しに黒い微粒子のようなものが立ち上り始めている。

「……なんだ?」

 理解不能な現象。だからこそ、ベルハザードは同じ台詞を繰り返すしかなかった。

 鬼血人ヴァンパイアは死亡すると肉体を生かしていた血の力が消滅し、急速な細胞の劣化が始まる。それゆえに、死後に肉体が灰のような状態と化して消えていく。それが定説のはずである。だが、いまエヴァの身に起こっている現象は、それとはまったく異なっていた。彼女の体から発生した黒い微粒子は、コップに注いだ水を掻き混ぜた時のような小さい渦を巻いて延長し、瞬く間に人のかたちを象った。

 がっしりとした足腰。硬質そうな黒の体色。全身を覆う亀裂めいた赤い紋様。無貌にして異形。頭上に浮かぶ真白の環。

 ベルハザードは息を呑んだ。魔人の姿から目が離せなかった。これだけ距離が開いていても、いまだかつて経験したことのない強烈な殺意を確かに感じた。

 あまりに異形。あまりに奇怪。それなのに、ワイヤー男も燕尾服の男も、その存在に気付くどころか、気配さえ感じ取れていないようだった。彼らには見えていないのか? ベルハザードの脳裡を疑問が過った刹那、魔人の、恐ろしいほどに妖気を孕んだ右腕が剣速の如き鋭さで、燕尾服の男の腹を、背中側から貫いた。血飛沫が飛び、機械化された内臓が露出する。

 濃密な血の匂いを、ベルハザードの鋭敏な嗅覚が捉えた。

 フラッシュバック。

 息が詰まる。鳥肌が立つ。体が固まる。

 ベルハザードは愕然とした。

 燕尾服の男がやられたことに、ではない。

 全く同じだったからだ。

 敬愛する太母。自らの流す血に沈んだ彼女の遺体。彼女を死に至らしめた致命傷。

 直視するのも憚れるほどの傷。内臓ごと抉り取られた腹部。そこから流れ出す虹色の血。

 巨大な・・・質量の・・・集中的な・・・・直撃・・・・・による即死・・・・・。それがベルハザードなりの見立て。

 そして今、まったく同様のかたちで燕尾服の男が殺された。

 記憶の奥に眠るビジョンと、現実のシチュエーションが、ベルハザードの中で寸分違わず一致した。一致せざるを得なかった。一度結びついたビジョンは固定され、二度と乖離することはなかった。

 一度虚無に堕ちた復讐のエネルギーが引き上げられ、爆発し、拡散し、烈しい渦を生み出し続ける。

 確かに言えることは、ベルハザードの中で途切れたはずの道が、また別の道を形成しはじめたということだ。しかし、そのひどく禍々しい道の終端に何が待ち受けているかは、ベルハザード自身にも全く予想がつかなかった。

 魔人が雄叫びを上げた。それまで白一色の環が、みるみるうちに闇色へ変化し、茨のような短い棘を生やしている。

 黒き冠――太母によって与えられた名の具現化。

 ベルハザードは、頭蓋をハンマーで殴られたような気分に陥った。

 状況を不利と見たか、剣呑と不穏に満ちる現場へ駆けつけてきたワイヤー男が仲間と合流し、そこへ追撃をかけるように燕尾服の男の遺体を投げつけるまでの一連のシークエンスを、ただ傍観者として眺めることしか許されなかった。

 魔人が屋上から跳躍し、いずこかへ去った後も、ベルハザードはしばらくその場を動けなかった。

 たった十数分の観察。しかし流れ込んできた情報量が多すぎて、処理が追い付かない。いや、処理しようにも、なにをどう結論付けていいものか判断に迷うものばかりだった。

 逡巡の後、彼は動いた。コートを軽やかに翻して建物から建物へ飛び移り、あっという間に雑居ビルの屋上へ。鼻先を濃い血の匂いが掠めていく。軽く酔った感覚になりつつも、ゆっくりと倒れ伏したエヴァへ近づく。

「……」

 無言のまま、腰に吊ったチェーンから手斧を外して右手に構える。夕焼け色の水平な刃が太陽の光を照り返して、鮮やかな輝きを帯びる。

 瞼を閉じ、まるで眠るかのようでいるエヴァの顔をじっと見つめ、ゆっくりと手斧を振りかぶる。

 だがそこまでだった。ベルハザードは眉間に深い皺を寄せたまま、振り上げた腕をこのまま下ろして良いものかどうか、決められずにいた。

 ――もしかすると、自分は、まだ何も。

 これまで一度だって疑うことのなかった己の行動を、ベルハザードは振り返った。

 正しい道を歩んでいる。そのつもりでいた。ついさっきまでは。

 だが、本当に正しいのか?

 太母の仇を討つ。その信義が揺らいだわけではない。

 ただ、何かを見落としている気がする。それも、ひどく決定的な何かを。

 このままエヴァの頸を落として、本当にそれで癒されるのか。

 心の中心にぼっかりと刻まれた風洞。そこから漏れだす悲痛な音色を、掻き消すことが出来るのか。

 出来る、と一息に言い切れない自分が、ひどくもどかしくて、腹立たしかった。

「うぅ……ん……」

 吹きすさぶ風の中、突然にうめき声が聞こえた。はっとして、ベルハザードは手斧を構えた腕を下ろし、信じられないといった表情でひとりごちる。

「ありえない」

 だが事実、エヴァの慎ましい胸部は緩やかに上下している。

 小さく開かれた唇から漏れる吐息。呼吸。すなわち生存の証。

 ベルハザードは、自分が悪い夢を見ている気分に陥った。いくら日向を歩く者デイライト・ウォーカーと言っても、同じ母の血から生まれた存在だ。血を殺す輝灼弾が効かないはずはない。現に、彼女は苦しみ悶えていたはずだ。それなのに、なぜ生きている?

「(エヴァ、お前は一体……何者なんだ)」

 何もかもを知ったつもりでいた。だがエヴァは、恐らく彼女自身でさえ気づいていない『何か』を宿している。それも、ひどく謎めいて、理解を越えた凄絶な力の片鱗を。

 市警のパトカーがサイレンを鳴らしながら、大通りから裏路地へ近づいてくる。あれだけ騒いでいたのだ。ここのビルの持ち主か誰かが、通報したのだろう。

 ベルハザードは、血に濡れるはずだった手斧を一切汚すことなく腰のチェーンに括りつけると、意識を失くしたままのエヴァを左肩に担ぎ上げると、ひとまず落ち着ける場所を探すために、雑居ビルの屋上から地面へ飛び降り、駆け出した。

『ベルハザード。どうかエヴァンジェリンの力になってください。あの子が己の醜さを自覚し、それを受け入れた時、わたしたち鬼血人ヴァンパイアは、真に種としての完成を迎える。そう信じずにはいられないのです』

 いつの日だったか、太母は慈愛の眼差しを湛えて、未熟な己に願いを託した。

 太母が殺され、すべてはまやかしであり、儚い夢だったのだと思い込むようになった。

 だが、それが間違いだとしたら。

 ざわつき始めた心を必死に抑えて、ベルハザードは鉄皮面で走り続けた。

 この道の先に何があるのか、まったく見当がつかない。

 ただ、想像を超える何かが待ち受けていることだけは、嫌なほど感じられた。

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