2-34 PM15:50/凍てつく熱

 その七階建て雑居ビルは、イースト・ラウンド・ストリートの大通りから入り組んだ裏路地へ進んだ先にあった。ビル屋上に設置された落下防止用の柵を力づくでひん曲げて作ったくぼみに右足をかけ、リガンド・ローレンツは機が熟すのを、ひとり静かに待っていた。

 いや、彼だけではない。アジトで作戦の電子的補助に徹しているオーウェルを除いて、パンクとアンジーもまた、リーダーたるヴォイドの指示の下、それぞれの持ち場につき、草葉の陰で獲物の出現を待つ狼のように、じっと息を潜めている。

「(それにしても、ここまでうまくいくとは予想外だ)」

 ギュスターヴ・ナイルからの支給品は、思いのほか役に立っていた。標的とする少女の側にくっついて回っている鬼血人ヴァンパイアの体臭を、鼻腔テープ式のガスセンサーで追跡トレースするという手法。上手くいくのかどうか不安だったが、センサーはリガンドが思っていたよりもずっと高性能で、現にこうして、標的の動きをしっかり捕捉できている。

 この角度からは他の建造物に遮られて、標的の姿を直接視界に収めることは出来ない。だが、メンバー間で視界を共有できるように義眼と電脳回線をリンクさせている現状、リガンドはヴォイドの目線を通して、奇跡を引き連れる人外の姿をしかと確認していた。

〈こちらヴォイド。標的はタクシーに乗った。イースト・ミドル・リバーへ向かうようだ〉

 脳裡に響くヴォイドの声。奇しくも、雇い主であるギュスターヴ邸方面に続く道だ。リガンドは内心でほくそ笑んだ。とんだ偶然もあったものだと。

〈こちらC地点。リガンドです。移動したほうがよろしいでしょうか〉

〈いや……渋滞に嵌らせる。首尾はどうだ? アンジー〉

〈こちらB地点。アンジーとパンク。香りの散布は一通り済んだわ。バスもタクシーも関係ない。運転手たちはすべからく私の支配下にある。法廷速度以下で走らせるってことで、いいわね?〉

〈ああ。奴らの乗ったタクシーがリガンドの視界に収まるよう、うまく誘導してくれ〉

〈ちゃんと交通ルールは守らせてやらねぇとなぁ〉

 パンクの愉快そうな笑い声が耳に響く。その声を聴くのが、リガンドは楽しかった。はっきりと口に出したわけではないが、どうにも彼とは馬が合うのだ。

〈そういうわけだ、リガンド。予定通りといこう。お前の雷撃紳士としての力を見せつけてやれ。俺はこのままA地点へ向かう〉

了解したコピー・ザット

 ひとり頷いてから、足下に転がるそれへ視線をやる。ここに来る途中、アジトから引っ張り出してきた鉄柱だ。長さは約三メートル、直径五十センチ。重さにして十キロはある。

 リガンドは腰を屈めると、おもむろに鉄柱へ手を触れた。途端、青白いスパークが導電性の白い手袋から迸る。電磁の力で軽々と浮いた鉄柱をうまいこと首の後ろへ回し、両腕を鉄柱の端にかけて支えると、今度は姿勢の微調整に取り掛かる。腕の角度、腰の角度、足の角度。もっとも適切な入射角を計算し、時を待つ。

 ようは、人型のレールガンになること。それが奇襲を司るリガンドに与えられた役割であった。両腕に埋め込まれた常温超電導体が形成する、超電導回路の本領発揮である。強力なコイルと化した両腕の力を最大出力で開放すれば、ただの鉄の塊をロケット砲の如き速で飛ばすことなど、造作もない。雷撃紳士と呼ばれるリガンドだからこそ出来る芸当だ。

 大通りからそれなりに離れているせいか、人々の喧噪はひどく遠い。吹き付ける冷たい秋風や鳥のさえずりだけが、気まぐれな音としてある。その一方で、屋上に据えられたエアコンの室外機だけが、首を絞められた獣が絞り出す吼え声のような駆動音を、途切れることなく連続的に放ち続けている。

 雷撃紳士――ふと、そう言われるようになった由縁を思い出そうとしたが、これといったきっかけについては判然としなかった。少なくとも、身内の誰かが広めたとは考えにくい。大方、仕事ぶりや立ち振る舞いを耳にした業界人が、勝手に名付けたネーミングに違いなかった。

 ハンター稼業の世界において異名で呼ばれるようになるということは、ある種の箔をつけたようなもので、そんなに目くじらを立てるようなことのほどでもない。だがリガンドは、己を規格化するその四文字を耳にするたびに違和感を覚えた。正確には『紳士』という部分が引っ掛かった。そのワードを人から言われるたびに、あらゆる感情の立ち入る余地のない、空虚感にも似た、透明で大きな恐ろしい手に、背中を突き飛ばされるような感覚に陥るのだ。

 嫌なら嫌だと、そうはっきり口にすればいいだけの話だが、リガンドにはそれもできなかった。とはいえ、自己主張の欠落とはまた違う。意見を求められればはっきりと考えを口にするし、時には議論に参加することもある。そういった表面上のコミュニケーションにおける問題ではなかった。

 リガンドは、紳士的な装いという強固な殻を心の外側に作り出してしまったせいで、根っ子の部分にある熱情や想いの丈というのを、どうやって吐き出せばいいか、分からなくなっていた。彼に出来ることは、そういう運命の下に生まれてきたのだと、失敗続きの己の人生を無理やりにでも肯定する事だった。そうでなければ、とっくにこれまでの人生という名の旅路のどこかで、心が渇きに苛まれて、倒れてしまっているはずだった。

 感情を曝け出すのを恐れた末に、自らを偽ろうと紳士的な振る舞いを獲得したのでは決してなかった。それは彼が幼い頃から他人に求められた所作であり、常に磨き上げるように周囲から強いられてきた構えだった。両親が『こうあってほしい』という人生を、律義に歩むための。

 リガンド・ローレンツの一族は代々裕福な家系として連邦では知られており、祖父母をはじめとして、親戚の多くが政府の官僚機構に勤めていた。リガンドの母親は大手民間銀行の頭取の娘で、父親は連邦の陸軍少将という立場にあった。広々とした屋敷があり、貴重な淡水魚を放し飼いするための人工池があり、家族のために一生を捧げて働き回る召使いが何人もいた。

 ハイ・ステータスと断じて良い環境下で、リガンドは一族の長男としての生を受けた。彼の他には年が二、三離れた弟たちが二人いて、幼い頃からリガンドよりも優秀だった。グローバルな教育を推進する私立学校のテストで常に満点を取ってきたり、スポーツ大会で良い成績を残すこと以上に、両親の傀儡としてうまく機能していた。母から言いつけられたありとあらゆる作法を完璧にマスターし、厳格な父の指導の下で武道を嗜んだ。富と余裕に満ちた家庭で寵愛されるのは、主にこの弟二人だった。

 リガンドは、その寵愛の枠に入っていなかった。

 家を時折訪れる高級官僚たちに気に入られるためにおべっかを使うように両親から強要されるのも、社交パーティで他人の目を気にして上辺だけの礼儀に尽くすことも、ひどく辛かった。自由気ままに振る舞っていきたいと幼心に欲し、習い事の類を嫌った。

 特に武道なんてのはもっての他だった。元来、気の優しい性格がたたって、なぜ人を傷つける術を学ばなければならないのか、そのことに随分と悩んだ。大陸国家との戦争は終わりが見えず、混迷を極めている状況であるから、まず何よりも軍事的な知識と経験が最優先される時世にあると知識階級の教師陣から教えられても、そこで感じたのは、慣れ親しんだ土地や、敬愛すべき家族が、見知らぬ人々に蹂躙されてしまうかもしれない未来に対する恐怖だけだった。

 そんな彼を、母は軟弱者と責め、父は臆病者と詰った。男は世界に対して強気でなければならず、常に世界を舞台として勝ち抜いていけるだけの知恵と経験と勇気を幼い頃から積んでいくのが、一族の長兄に与えられた宿命であると説いた。

 覇権主義とも言えるその思想こそが、両親の共通解だった。だがその共通解は、リガンド当人にとっての最適解ではなかった。それでも、両親の教えに従うのが自分にとっての最適解になり得るかもしれないと信じることにした。臆病なままでいては、両親から飽きられ、捨てられるのではないかという最悪の結末が、脳裡を過ったせいだ。

 母と父からの手を緩めない扱きの毎日に、リガンドは懸命に食らいついた。平日も休日も関係なかった。遊びに割く時間を自分から削っていった。必死に勉強し、必死に作法を学び、必死に武術に取り組んだ。作法を少し間違えただけで母から罵声を浴びせられようとも、軍隊格闘術の組手指導で父からの容赦ない拳が飛んでこようとも、決して泣き言を口にすることはしなかった。

 そんなのできて当然のことだ。調子に乗るな――父が週に三回はリガンドへ浴びせた口癖。褒めるでもなく、労うでもなく、両親のスパルタ教育はますますエスカレートしていった。全て息子のためなのだと、父も母も本気で思い――それを言葉というかたちでは表さなかったが――彼らなりの愛情表現をリガンドに与えていた。

 要領良く着々と未来へ進んでいく弟たちを横目で見ながら、両親の期待に応えられない自分を情けなく惨めに思い、リガンドは唇を噛み締め続けた。太陽が東から昇り西に沈むまでの間、ずっと自身を責め続けた。弟たちのように両親から認められ、愛される存在になりたい。その一心で彼なりに努力を積み続けた。

 だが十五歳の誕生日を迎えても、慈愛と優しさに満ちた言葉がリガンドへプレゼントされることはなかった。代わりに、父が校長を務める陸軍士官学校の寮へ放り込まれた。父はリガンドを立派な一人前の男にするために、高貴な一族の人間だからと言って、学内生活で手心を加えるようなことはしなかった。

 この頃になってくると、血の滲むような努力の甲斐もあってか、高級官僚や職業軍人を身内に持つ者として、ほとんど完璧な作法を身に付けるに至った。その物腰柔らかな姿勢に裏打ちされたコミュニケーション能力は当然、学校では評価対象の一つだったが、それより重視されたのは、もっぱら一般的な学力と演習成績の二点であり、リガンドはその面に関しては優秀でも落ちこぼれゴートでもない、ごくごく普通のレベルに留まっていた。

 その事実に、両親は満足しなかった。定期考査の結果が返ってくると、母親は怒りを通り越した沈痛そのものといった表情で嘆いた。

――どうして一番になってくれないの。弟たちはあんなに優秀なのに、肝心の長男であるあなたがしっかりしなくて、どうするの。

 リガンドは何も言えなかった。さぼっている訳ではない。彼なりに一生懸命に取り組み、十分に頑張っていると自負できる結果だった。それでも両親の理想は高く、現実とのギャップにひどく狼狽しているのがリガンドには把握できて、だからより一層惨めな気持ちになった。

 最も堅実で誠実な未来のエリートを養成するという学校の気風が、縛られることを嫌い、自由気ままに生きていたいという元来の性格に、どうしても会わなかった。級友との仲が表向き良好であっても、そこまで親しい付き合いをする者は、リガンドには一人もいなかった。彼が夢中になるものと言えば、学校敷地内にある数少ないレクリエーション施設で覚えた、ビリヤードだけだった。

 リガンドはビリヤードを愛している。緊張とストレスとでかちこちになった心が、ぬるま湯に浸されたように緩やかにほどけるのは、グリーンのラシャが敷かれた長方形型の台と向き合っている時だけだった。キューを手にして、台に対して前傾姿勢をとり、上下左右と無数にある玉の撞点を撞く。どの撞点をどれくらいの強さで弾くと、どんな軌道を玉が描くか。それを実践して結果を観察するだけでも楽しかった。

 誰にも指図されることなく、誰にも批難されることなく、己の意思決定で全てが決まる静謐な戦場。ポケットに玉を落とし、人目につかないように控えめなガッツポーズを取る瞬間、リガンドはいつも『これしかない』と痛感した。これが自分の生きるべき道なのだと。いつか戦争が終わって、平和な世の中になったら、両親をなんとか説得してビリヤードの世界へ飛び込んでやろうと決めていた。

 戦争は泥沼の状態が長く続いた。学校を並の成績で卒業すると、級友たちと同じく、リガンドは硝煙と血肉が舞う最前線の戦場へと送られた。配属された部隊で彼に与えられた役割は、斥候兵スカウト。最前線部隊の中でも、特に危険な役職だった。

 純然たる恐怖しかなかった。大陸近海の諸島を制圧してこしらえた前線基地へ送られ、潜水艇の中で上官の作戦司令と檄を耳にしている時も、膝の震えが止まらなかった。連邦最新鋭の環境型迷彩スーツで身を包んでも、自動照準機能が搭載されたアサルトライフルの、黒く冷たく、一切の妥協を許さないような硬さに縋ろうとしても、心はざわつきを止めてはくれなかった。まったく寄る辺の無い世界に放り込まれてしまった現状に対して、早く全てが終わってしまえばいいのにと自棄になり、ところかまわずに唾を吐きかけたくなった。

 そのひどく臆病な心構えに対する罰だったのだろうか。戦場という異様な殺戮空間に立つ上で、それはひどく致命的なことだった。塹壕の中で死の恐怖に怯えながら、なけなしの勇気を振り絞って敵の陣地へ向けて飛び出していった時、彼の運命は決まっってしまったのだ。

 頭上から次々に轟く落下音=無人航空機による爆撃/飛び散る肉片/血と硝煙の匂い/黒々とした爆炎に視界が閉ざされる。

 意識を失う直前、地層のように折り重なっていく友軍の屍体が辛うじて目に映り、混乱に満ちた怒号と、空を稲妻のように切り裂くエンジンの爆音で、リガンドの鼓膜は埋め尽くされていった。

 気絶から目覚めた時、リガンドは前線から離れた野戦病院の薬臭いベッドの上に横たわっていた。体のあちこちにチューブが繋がれていて、鎮静剤を大量に投与された影響からか、起きて暫くは後頭部がひどく重かった。薬の効力が少しずつ減衰し、次第に周囲の様子が分かり始めた時、凄まじくショッキングな現実が、容赦なく彼に襲い掛かった。

 両腕の欠損――爆撃の余波を受けた結果、肩から下が欠落してしまっていた。その変わり果てた己の姿を医者が持ってきた鏡で確認した時、人目を憚らず彼は泣き叫んだ。

 もう二度とキューを持てない――悲哀に蝕まれて、泣いて泣いて泣き叫んだ。体の奥にある激しい感情を全て絞り出した。そして最後に残ったのは、純然とした、静かな怒りだった。

 生まれてからここに至るまでの十八年間、ずっと両親の言われた通りに生きてきた。彼らの敷いたレールを、ただひたすら歩いてきた。そこに彼自身の意思が介在する余地はなかった。それで仕方ないと我慢してきた。両親に愛され、気に入られるためには、物分かりの良い操り人形になるしかないと、己を無理やり納得させてきた。その果てに手元に残ったのは、上っ面な礼儀作法の数々と、周囲からの評価を気にし過ぎるあまり、ぎこちなく歪んだ心のかたち。そして、欠損した肉体。

 同じく前線に出撃していた二人の弟は、どちらもあの爆撃によって死亡したらしいことを、リガンドは伝令兵からの通達で知った。その事実に対して、哀しみ以上のやるせなさを覚えた。と同時に、急にあらゆることが馬鹿馬鹿しくなり、気の抜けるような笑いが漏れた。

 どこかで、人生の保証を求めていたのかもしれない。両親に褒められるような人生を送っていれば、たとえ戦場に送り出されても、きっと運よく生き残れるかもしれない。そんなオカルトめいた、何の確証もない希望に縋ろうとしていた自分が、急に恥ずかしくなってきた。

 弟たちの死が、現実の在り方を強く物語っていた。どんなに頑張って学校で良い成績を収めて、両親からの愛を一身に受けようとも、結局、死ぬときは死ぬのだ。善を成そうが悪を成そうが、死の前では全くなんの意味もない。人生の手綱を誰かに握ってもらうことで安心感を得ようという、そもそもの考えが誤っていたのかもしれない。

 野戦病院で治療を受け始めて七日目の朝。所属する部隊の上官が、ぞろぞろと軍医を引き連れて自分の前に現れたとき、リガンドはなんとなく察した。というのも、部隊でちょっとした噂になっていたからだ。戦力維持のため、四肢に甚大な損傷を負った兵士たちから順番に、サイボーグ手術の被検体に選ばれるという話。それは事実で、そしてリガンドが選ばれた。

 軍医の小難しい説明を耳にしている間、リガンドは陸に打ち上げられた魚のような眼差しで、ぴくりとも眉を動かさなかった。人生に関わるおよそほとんどのことが、すでにどうでも良くなっていた。特に手術を断る理由も思い当たらず、だから、ただ激流に身を任せようと決めた。実験でどんな力が手に入るか。そこに興味はなかった。

 だが、いざ手術で手にした力を実戦で試す段階になって、奇妙なことに、始めて生きようとする活力が湧いてきたのには、さすがに驚嘆してしまった。敵兵とはいえ、人を銃で傷つけることに楽しみを見出すなど、それまでの己の性格を鑑みれば、ありえないことだった。忌み嫌っていたとさえ言ってもいい。だが、悦楽を覚えたのは事実だった。そのことに最初のうちこそ戸惑ったが、与えられた能力の虜となっていくのに、それほど時間はかからなかった。

 電磁気能力。リガンドへ送られた最大のプレゼントがそれだ。欠損した両腕のみならず、金属製の義肢に挿げ替えられた両足にも、同等の力が付与された。術後経過を極めて良好に過ごした彼は配属先を変えられて前線に復帰すると、大電流と強力な磁場を生み出す常温超電導体が埋め込まれた四肢を新たな武器として、戦場で猛威を振るった。彼の、それまでの平凡な実戦成績と比較すると、まるで嘘のよう飛躍っぷりであった。

 リガンドが新たに配属された部隊は狙撃部隊。すなわち狙撃兵スナイパーだった。前線で奮闘する兵士たちを余所に、安全地帯からキル・ポイントを稼ぐことから、味方部隊から最も忌み嫌われる役割ロールだったが、吹っ切れたリガンドにとって、周囲の評判などもうどうでもよかった。

 塹壕から顔を出した敵兵士や、沼地を往く戦車を、両腕に接続させた超電導式狙撃銃で撃ち抜き、人体や戦車の装甲に焼け尽いた弾痕を刻んでいくたびに、静かな、しかし確かな高揚感がリガンドの体内を駆け巡っていった。学生だった昔を思い出した。ひとりビリヤード台に向かってキューを手に玉を撞いていた時を。あの感覚に近かった。敵兵を撃ち殺すということは。

 二百六十二人。それが、公式に発表された彼のキル・ナンバーだった。データに換算され、数値化された屍の数。感触の確かめようもないデジタルな結果。それはリガンドに、何の達成感も与えてはくれなかった。ただ、空虚だけが残った。

 だが、戦場で味わった高揚感だけは、余熱となって彼の中に残り続けた。

 戦後条約が結ばれ、連邦という枠組みが解体されておよそ二十年の時が経過し、ほとんどの人々が、取り戻した平和に胡坐を掻くようになっても、彼の心は微妙な熱に侵され続けた。と同時に、真冬の凍える海のど真ん中へ放り出されたような気分でもあった。それはなにも、人命を奪うだけ奪ったことに対する良心の呵責からくるものではなく、魂だけが、戦場に取り残されてしまったような感覚に終始襲われ続けたがために、魂が幻視したビジョンと言った方が近かった。

 もはやビリヤードに興じるだけでは寒さを取り除くことはできず、だからリガンドは、あの頃の感触をもう一度味わいたくて、本物の熱に近い感触を再び味わいたくて、傭兵稼業についた。

 世界中を巻き込んだ大戦が終結しても、各地に散った火種は未だに燻り続け、特に大陸において形成されつつあった都市国家クラスのコミュニティにおいては、暴力はまだ必要とされていたのだ。

 大陸へ渡ったのは、家族との縁を切るためでもあった。見送りもなく、リガンドは一人で少なめの荷物を抱え、空港のロビーを潜った。両親の期待は最初から弟二人にかかっていて、彼らが亡くなったとあらば、もはや息子はいないも同然だった。今に至るまで、向こうからの連絡は一度もない。もちろんリガンドも、手紙の類を寄こすことはなかった。

 そうして、大陸の都市国家を転々とし、戦場で味わった高揚感を取り戻したいと願い、企業間同士の機密情報を巡る暗闘であったり、都市間の物理的な小競り合いに参加しているなかで――彼はヴォイドと出会った。

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