2-33 PM15:35/クロス・ロード③

「ここ飲食店だろぉ? 従業員がマスクして飲食物を運んでくるとかさぁ、お客様への心象が悪くなるって考えられないのかねぇ?」

 声は、エヴァたちに対して向けられたものではなかった。テラスに用意された三つの席のうちの一つ。カップルたちが座る席の、更に一つ隣の席で、椅子にふんぞり返っている中年と思しき男性が、コーヒーを運んできた従業員へ文句を吐き連ねていた。責められているのは、さきほどエヴァ達のテーブルに料理を運んできた、マスクをつけたあの若い女性店員だ。

「君、喫茶店で働くってことがどういう事か分かってる? お客様を癒してこその喫茶店でしょ? 気遣いがなってないんだよ。自分がどういう振る舞いをしたらいいか、分かってるの? いや、分かってないよね。分かってないから、平然とマスクなんかつけて接客できるんだよね?」

 白髪交じりのその男は、闇雲に怒りをぶつけるような口調ではなかったが、その反面、一切の妥協を許さない冷たさと、蛇のようなしつこさがあった。一度食らい付いたら決して離さない執念深さとでも言おうか。たかだか店員の容姿一つで、そこまで怒れるのが、エヴァにはとても不思議に映った。

 めんどうな客を前にして、店員は平身低頭で「すみません」や「申し訳ございません」といった、お決まりのフレーズを繰り返している。表情は分からないが、瞳には明らかに狼狽と痛心の色が滲んでいた。

 凍り付く雰囲気に、居たたまれない気分になったのだろう。それまで和気藹々と話し合っていたカップルが急に顔色を変えて、会計レシートを手に、そそくさとその場から立ち去った。おかげで、エヴァたちの位置から見て、はっきりとクレーマー中年の特徴が見て取れた。

 ベージュ色のダウンジャケットに、ジーパンにスニーカーという恰好だ。プラスチック・ケースに収納されたプレートを、これみよがしに首から下げている。それが、男の身分を端的に表していた。

「どうしてくれんの。このガタ落ちしちゃったテンション、どう回復してくれんのよ」

「申し訳ございません」

「申し訳ございませんって、そんな上っ面の謝罪じゃ納得できない言ってるの。店長を出せとは言わないよ。僕はね、君が何を思ってマスクをつけているのか追及しているんだよ。サービスを奉仕する者として、そんな恰好でいいと思ってるの? まさか風邪じゃないだろうね?」

 ここがテラス席であるせいか、店内の視線が集まってくることはない。衆目に晒されていないというその状況が、かえって男の気を大きくさせているようだった。何を言っても許される立場にあると、錯覚しているのだろう。こっちは金を払ってやっているんだから、という小さな特権意識も働いているのかもしれない。自分は相応のサービスを受ける権利を振りかざして当然であり、その権利の前では、ささいなミスですら重罪になってしかるべきだという考えを、容赦なく店員へぶつけ続けている。

 その手の人間は最下層にもいることを、エヴァは知っている。このクレーマー中年は、中層に住む人々の最大公約数ではない。人間や鬼血人ヴァンパイアなら誰しもが抱えている残酷性が、かたちを変えて露出しているだけなのだ。

 だがエヴァにとっていま重要なのは、クレーマー中年が首から下げているプレートであり、そこに記されているチャンネル名だ。それを確認した瞬間、これは運が向いてきたぞと、心が浮足立った。

 インカラ・チャンネル。プレートに印字されたそれが、個人報道官コア・メディアに特有の名称であることはすぐに分かった。政治組織や宗教団体との癒着を断固として拒否し、圧力に屈しがちな大手マスコミを唾棄し、個人個人でネットに配信基盤を持つパーソナルな報道媒体。それが発信するニュースは、集団的組織でないがゆえに、配信者の主観や思想がそのまま反映される傾向にある。

 良くも悪くも、プロメテウスにおけるニュースの取り扱いを変えた先端事業。しかし情報の収集と分析に長けた従事者が目の前にいるのなら、それを利用しないエヴァではないのだ。情報を引き出す相手が怒りに駆られていようが、そんなものは些細なことだ。どれほど強い感情に意識を引っ張られていようと、人外の魔力はいとも簡単に、精神の防護壁をすり抜ける。

「おじさん、ちょっと」

 会話の隙間をうまく縫うかたちで、エヴァがクレーマー中年に声をかけた。

「なに? あんた誰?」

 あからさまに不機嫌な声を出すと、クレーマー中年は訝し気な目つきをエヴァへ寄こした。刹那、エヴァの魔性の瞳がクレーマー中年の目を捉える。見えざる魅了チャームのパワーが、とげとげしいクレーマー中年の意識を、心を、あっという間に絡め取り支配下に置くのに、数秒とかからなかった。

「あんた個人報道官コア・メディアの人だろ? この中層で一番の金持ちが誰か知っていたら教えてくれ」

「え、あ」

 質問を投げかけるやいなや、クレーマー中年の表情から怒りの色が消え去った。顔中の筋肉が弛緩し、虚ろ気な表情になる。理不尽な言葉責めを受けていた女店員は客の変わりように驚きを隠せぬ様子で、客とエヴァとを交互に眺めるしかなかった。

「な、知ってるだろ? たとえば自家用ジェットとかヘリとか、そういうのを持っている金持ちだよ。上層ばかりが金持ちの巣窟なわけじゃない。中層にだってその手の人物はいるはずだ。教えてくれよ」

 一度言葉の網をかけたら、あとは力任せに引っ張るだけだった。クレーマー中年はキョロキョロと瞳を動かしながら無意識下で己の記憶をさかのぼり、、自然な口ぶりで応じた。

「そうだな。ええと、そうだ。中層で一番の金持ちと言ったら」

「言ったら?」

「ギュスターヴ・ナイルだ」

「……その名前が出てくるとはなぁ」

 エヴァは内心でほくそ笑んだ。驚き以上に愉快な気持ちの方が勝っていた。

 ニコラの存在にいち早く気づき、部下を動かして接触を試みてきた人物。手駒のサイボーグたちを搔き集め、ニコラ奪還の計画を立案したと思しき富豪。

 これも何かの因果か。いや、あるいは必然であるのかもしれない。ニコラを巡る闘争の渦が、収束に向けて回転速度を更に増しているような感覚があった。だったらここは一度顔を合わせて、早々に決着をつけるべきだった。

 安全地帯に潜んで事の行く末をとっくり観察しているような輩には、力づくで現実の厳しさと惨さを思い知らせる必要がある。自分が誰を相手に喧嘩を売っているかを、痛みというかたちで理解させてやらねばならない。

 邪魔者の排除という明確な目的意識が芽生えて、エヴァの内に秘められた暴力性が、ぐらぐらと煮えたぎり始める。

「ギュスターヴだったら、自家用ヘリを持っているってことで、間違いないんだな」

「間違いない。前に一度、取材のために自宅へ行った事がある。高級車が何台もガレージに並んでた」

「車の話は聞いていない。アタシの質問にだけ正確に答えろ。分からないなら分からないと答えていい。もう一度聞くぞ。ギュスターヴは、自家用ヘリを持っているのか?」

「あ、ああ。敷地内にでかい倉庫があって、そこに三機ばかし自家用ヘリを置いていると口にしていた。いざという時のために、都市から逃げられるようにと」

 予想が的中。金持ちたちの心理は簡易的だ。思った通りの展開に、エヴァの気分がますます上向いてくる。

「ギュスターヴの自宅は、ここから近いのか?」

「十キロぐらいだ。河を……イースト・ミドル・リバーにかかっている大橋を渡って、前方左手に道なりに行くと、小高い丘がある。広大な庭園が嫌でも目に付くはずだ。そこがギュスターヴの居城だ」

「繰り返し聞くけど、本当にヘリはあるんだな」

「あるよ。そのために、敷地の一部がヘリポートになっているぐらいだ。それも見せてもらったが、ありゃあ大したもんだ」

「なるほど。記憶違いってことはなさそうだな」

 吐くだけ吐かせて満足すると、エヴァは椅子から立ち上がった。

「よし、行くぞニコラ」

「えー、まだケーキ残ってるのに……」

「胃もたれするんだろそれ。無理に食う必要なんかないだろ」

「うーん。でも、注文しといて残すというのはちょっと、客としての矜持に欠けるというか……もったいない精神が働くというか……」

「いいから行くぞ」

 食い荒らされた都市型ケーキの残骸をテーブルの上に残し、魅了チャームが解けずにぼんやりとしたままでいるクレーマー中年と、事態が把握できずに狼狽しきりの女店員には目もくれず、エヴァはニコラの手を取ると会計をさっさと済ませた。そうして、人で溢れかえる大通りへ足を向けた。

「ひとまず、歩行者天国を抜けてタクシー乗り場までいくか」

 気軽な口調。しかし油断は見せずに、感覚を研ぎ澄ませながら歩く。ベルハザードの気配はまだ感じない。周囲に視線をさりげなく巡らすが、怪しげな動きをする者は、これと言って見当たらない。

 どこもかしこも、人間、人間、人間の皮脂と肉の匂いで満ちている。その中に一人混じる、黒き冠のエヴァンジェリンという名の人外。喧噪と群衆のただ中にあって、彼女の存在それ自身が、空白のスポットになったかのような。

「エヴァさん、念のために聞きたいことがあるんですが」

「なんだ」

「あなたの願い。理解者が欲しいということですが、具体的にはどういう存在を所望しているんです?」

「具体的?」

 隣を歩く、ちんまりとした奇跡の体現者を見下ろすエヴァと、望みを叶えようと躍起になる人外を興味深そうに見上げるニコラ。両者の視線が交差する。少しの間があって、エヴァは口を開いた。

「子供だな」

 口に出しながら脳裡に浮かぶのは、やはり今朝見かけた光景だった。最下層のファミレス。仲睦まじそうに貧相な食事にありつく、母と娘の姿。無垢の象徴。それが、求めている答えなのだと言い切れる自信がある。

「アタシ、自分の子供が欲しいんだ。多分……そうだと思う」

「なるほどー。子供ですか。それは確かに、理解者としてはぴったりじゃないですか」

「そうだよな」

 大事に暖めてきた願いをはっきり言葉にしたことで、どこか気恥ずかしい気分を味わう。けれども、それとはまた違った感覚が――焦り、不安、後悔と喩えるべき心のゆらぎが、体の隅々へ広がっていくようだった。

 心のピントが合っていない。そんな感覚に近い。

「どうしたんです? 難しい顔つきになって」

「いや……」

 なんでもない、とは気軽に言えなかった。思い違いだと一蹴するのもためらわれた。

 これは精神と感情の問題である。そう定義したとして、しかし他ならぬエヴァ自身が分かっていなかった。叶えたい願いを口に出すと、なぜ後ろめたさを覚えるのか。その原因が掴めずにいた。

 タクシー乗り場でタクシーを拾い、イースト・ミドル・リバーへ向かう車中でも、エヴァは思考の蟻地獄から抜け出せずにいた。普段なら一直線に鋭く尖っているはずの自身の精神の矛先が、いびつな形状を取り始めている。そんなビジョンから離れることができなかった。

 記憶の中で閃光を放つ言葉があった。叶えたい願いを履き違えないでほしい――奇跡の体現者たるニコラの忠告だ。それが突然のにわか雨のように、心の真ん中に降り注いできた。

 反射的に体を震わせて、頭を振る。ニコラの言葉に溺れかけそうになりながらも、自分の理念を保つことにエヴァは努めた。決して勘違いなどではない。間違いなく本心から望みを口にした結果がこれなのだと、強く強く自身に言い聞かせた。

 履き違えてなどいない。希求するのは、あの親子のような関係性だ。濁流に呑まれても互いの手を必死に取り合って支え合うような、強固な慈愛と信頼に根差した繋がりだ。それを構築する上で、自身の在り方に理解を示し、愛情を注ぎ合うような地点に立ってくれる何者かが側にいれば。

 自分は、ありのままの自分を越えて、正しい自分で居られるのではないか。

 己の願望をそれなりに整理し終えたのと、タクシーがイースト・ミドル・リバーにかかる大橋の手前で渋滞に掴まったのは、ほとんど同時だった。

 そして、フロントガラスの向こうから飛来してくる何かを、エヴァの目が捉えた。

 それは凄まじい速度を維持したまま、ぐんぐんと二人の乗るタクシー目がけて押し迫ってきた。遠投された鋼鉄の槍めいて迫るそれが、円柱型をした金属物質であると判断がついた時には、すでにフロントガラスは割れて砕け散り、運転手の喉元辺りをハンドルごと一撃で削り取った後だった。衝撃力を殺しきれず、車体が勢いよく後方へ跳ね上がる。垂直ぎりぎりにまで立ち上がったところで、供給口の蓋が外れて過脊燃料ギャソリンが漏洩。後輪タイヤごと路面を蛍光色に濡らしていく。そうしている間にかかる圧が消え去り、車体は重力に引かれるかたちで、前輪を路面に叩きつけた。その際の振動と衝撃でタイヤを繋ぐシャフトがたわみ、フレームが曲がり、歪みに耐え切れずにリアガラスに亀裂が入った。

 直後に内部の配電基盤に異常が見られた。凄まじい外圧を受けた結果、車体電源部をスパークが駆け抜けた。漏洩した過脊燃料ギャソリンへ、火花が降りかかった。

 あっという間に辺り一面が炎に包まれた。瞬きをする暇もなかった。周辺の車という車から、けたたましくクラクションが鳴り響く。突然の惨劇を目の当たりにして、通行人たちは怒号と悲鳴を撒き散らすので精一杯の様子だ。

 車体が轟々と火に撒かれてから十秒と経たないうちに、今度は大気が震えた。エヴァとニコラを乗せていたタクシーが、ついに爆発したのだ。

 渋滞に嵌っていた運転手たちは皆、我先にと車道を駆けてリバーサイドへと逃げ去っていく。その有象無象の背中目がけて、無数の火の粉と大小から成る車体の破片が、小隕石のようにところ構わず飛び散った。道路に焦げ跡を刻み、ショップのウインドウを突き破り、ぎゃあ、と声がして、何人かが火だるまになって辺りを転がり回った。

 轟々と燃え盛る一台のタクシー。

 それを離れたところから眺めていた男は、電脳回線で周辺に待機している仲間たちへ声をかけた。

〈こちらA地点。状況を確認。リガンドの奇襲は成功だ。これより少女の状態を確認でき次第、捕獲作戦へ移行する〉

〈こっちはいつでも動けるぜ……でもよぉ、これでもし死んでたらどうするよ〉

〈大丈夫。ギュスターヴ邸にあった情報では、奇跡を司ることで少女は不死性を獲得しているって話したでしょ? 僕がしっかり裏を取ったから大丈夫だよ〉

〈気を付けてね。鬼血人ヴァンパイアの回復力を舐めちゃいけないよ〉

〈無論、警戒は怠らない。心配するな、アンジー〉

 キンセンカの花柄模様が散りばめられた白のワイシャツの上にテーラード・ジャケットを着込み、履き慣れた黒のスキニーパンツで身を包んだその男は、逃げていく人々を押しのけて炎上中のタクシーへゆっくりと近づいていく。

「…………」

 これで、全てが明らかになる。

 ヴォイド・クロームは意を決すると、指ぬきグローブに包まれた、機械化済みの十指を銀色に閃かせた。

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