2-32 PM15:20/クロス・ロード②

「それでエヴァさん、これからどうしますか」

「ん? んー……そうだなぁ」

 実のところ、休憩というのは建前に過ぎない。本題はニコラが指摘した通りのことだ。

 すなわち、ここからどうやって上層、および最上層へ駆け上がるか。

 先の階層間エレベーター〈十二番〉で発生した事件の余波が都市中へ波及した結果、全階層におけるエレベーターの一般使用は制限され、周辺の警備も物々しさを増している。街頭モニターのニュースで、そう報道されたばかりだ。

 いくら優れた『眼』があるからとはいえ、向こう見ずに力づくで突破しようものならば、自らの首を絞めかねない。人を凌駕する鬼血人ヴァンパイアとはいえ、確かな勝ち筋を掴めない以上、迂闊に動き回るのは危険であるとエヴァは判断した。

 慎重さに裏打ちされた確実性と、大胆不敵な発想に満ちた手法。二つの異なる要素を組み合わせた有用な手段を、急いで探し出す必要があった。だが他にどんな手立てがあるのか、考えれば考えるほどドツボに嵌って、さっぱりと思い付けない。

 ここはプロメテウス。世界でも有数の階層都市だ。そもそも最下層住まいのエヴァが中層の大地を踏みしていることが異常なのである。だがそれは人間世界の常識であり、人外たるエヴァ自身にとってはどうでもいい話だった。

 問題は、上へ上へと上昇し続ける都市の構造そのものにあった。最下層、中層、上層、最上層と、順を追って積み上がる文字通りの縦社会。そのパッケージ化された枠組みに囚われているという事実の認識が、エヴァの思考の幅を制限していた。

 縋るように溜息を零す。だがそんなことをしても、いいアイデアが空から降ってくるようなことはない。

「なんかヤバイことになってるっぽいね」

 すぐ後ろから他愛のない声が聞こえた。自分に向けられたものではないとエヴァは知りながら、軽く後ろを振り返って確認する。テラスに用意された三つの席のうちの一つ。隣の席。そこに居座るカップルの片割れである女性が、パートナーである男性へ心配げに喋りかけていた。

「大丈夫でしょ。みんな普通に出歩いてるし。すぐに落ち着くよ」

「エレベーター使えないんでしょ? なんか破壊されちゃったらしいじゃん。大丈夫かな」

「何が?」

「何がって、心配じゃないの? もしここを支えているエレベーターが壊れたら、あたしたち地面に真っ逆さまだよ?」

「なんだそんなことか。問題ないよ。だってここを支えているのはエレベーターじゃなくて、支柱だよ? そっちは特に問題ないんだってさ。壊れたのはエレベーターだけ」

「なんだ。じゃあ大丈夫だね」

「それにしても鬼血人ヴァンパイアが出たって噂、本当かなぁ」

「嘘に決まってるよ。ほら、前に弟が警備会社に勤めてるって話したでしょ? 今日も働きに出てるけど、普段と業務内容変わってないって、さっき連絡あったし。そんなヤバイのが出てきたら、もっとパニックになってるよ。上の人たちもてんやわんやでしょ」

「じゃあ、ただのテロリストなのかな。にしても笑っちゃうよな。あの動画見たけど、なんで壁昇ってたんだろ」

「ボルダリング?」

「テロリストが? まさか。あぁそうだ。ボルダリングって言ったらさ、次の日曜日空いてる? 実は会社の先輩から……」

 どこにでもあるような、取り留めのない会話。だが自然と盗み聞きするかたちになったエヴァには、彼らの会話の中に何か引っかかるものを感じた。聞き逃してはならない重要なキーワードが、そこに挿入されているのではないか。

 金脈へ至るかすかな道筋を偶然にも発見したことに対する興奮と、己の直感が本当に正しいのかどうかという不安がごった煮になる中、エヴァはふと視線を上へ向けた。それもまた、なにげない仕草の一つだった。

 大通りに建ち並ぶ商業施設は、カラーこそ異なれど、どこも似たようなデザインのロゴマークを壁のあちこちに掲げていた。寄らば大樹の影。企業連合体に所属することで、ある程度の見通しが立つ利益繁栄を確保しようとする者達の象徴で、この通りは満たされていた。

 しかしエヴァの目に留まったのは、それらの画一化されたアイコンの群れではなかった。

 瞳に映り込むのは、茜色のグラデーションが吹きつけられた空。もちろん、ここから見えるのは本物の空ではない。上層を支える岩盤の底が映し出す、精巧且つリアルタイムに変動するプロジェクション・マッピング仕込みの疑似風景。じっと眺めていれば、やがては本物との差異に自然と気が付くだろうが、瞬間的に目にした限りはその通りではない。

 空の息吹。空間の匂い。まるで、どこまでも飛んでいけそうな。

 意識の奥底で何かが繋がりかけている。その何かを明らかにするうえで、もう一つ、決定的な印象が必要だと直感した。

「うぅ、このケーキ、ちょっとソースの味が濃すぎるかも……胃もたれしそう……」

 自分で注文しておきながら文句を呟くニコラ。フォークとナイフを手に彼女が恨めしそうに睨みつける皿の上の物体へ……中層に当たるスポンジ部分だけが残った食べ残しのケーキへ、エヴァの視線が引き寄せられる。

 まるでミニチュアサイズの、雪化粧された丘だ。砂糖とバターと薄力粉で練り込まれた、食べられる丘。最上層も、上層も、そこにはない。すでにニコラの胃袋へ収まっている。

 皿の空を遮るものは、なにもない。

 じっとスポンジケーキを見つめているうちに、頭蓋の奥で、神経が小さく爆発するような重い衝撃があった。この短時間で獲得してきた情報の断片が、有機的な繋がりを見せ始めている。

――あたしたち地面に真っ逆さまだよ。

――上の人たちもてんやわんや。

 人々の他愛ない会話に挿入されたワードが、反転と更新を繰り返し、脳内でリフレインする。その反響が強まるにつれ、エヴァは一つのビジョンを無意識的に引っ張りだしていた。それは過去に体験したビジョンだった。およそ数時間前のこと。エレベーターを舞台にした攻防。怒りと焦りに燃える中、眼前に飛び出してきた飛翔物体。

「ヘリだ」

 答えが呟きとなって洩れた。それこそがエヴァの導き出した結論だ。彼女の中で、慎重さに裏打ちされた確実性と、大胆不敵な発想が実を結んだ証拠だった。

「おい、思いついたぞ」

 巣穴から様子を伺う小動物のように肩を丸めて、エヴァは声を潜めてニコラへ言った。

「ヘリを使うぞ」

「またですか? 別にいいですけど、どこかの警備会社に忍び込むんですか?」

「そうじゃない。金持ちだ。富豪の家だ。そこを狙う……奪うのは自家用のヘリだ。奴らは絶対にそれを持ってる。いや、持っていなきゃおかしい」

「自分で操縦するんですか? あれって結構難しいらしいですよ。素人が手を出すと火傷するんじゃないですかね?」

「心配すんな、経験なら一応あるさ。なにせ《斜陽の冠》は飛行船を始め、その手の航空機を自前で用意して都市に乗り込んでたんだぜ? まぁアタシはずっと太母のそばに付きっきりだったけど……それでも何度か触らせてもらったこともあるし」

「ふーん……なら良いですけど、でもそんな都合よく用意されていたりしますかね?」

「こればっかりは確信があるんだ」

 日々のニュースから人間の社会習性を拾ってきたエヴァは、富裕層という肩書きで名指しされる者達を、不安症の塊のような存在だと認識していた。

 なぜ彼らは企業に勤め、時に不正の道に手を出してまで、金を稼ぐことに躍起になるのか。鬼血人ヴァンパイアの社会には存在しえない資本主義が露わにした、人間の弱さがそれだと思えた。

『安心』を買うため。

 決して物質化することなく、目視による存在の確認が不透明ながら、時に政治的取引の材料として扱われてきたその『癒しの概念』を、わずかでも確保するために彼らは日々労働に勤しむのだし、旨すぎる儲け話に目がくらむのだ。

 中層やそれ以上の階層に住む人々は、日常生活を送る中で、最下層の存在を意識の枠組みから外している。冷たい石の下で蠢く虫たちの営みを知ろうとしない行為。それは間違いなく、日常を支える社会の根底から目を背ける行為だ。なぜそうなってしまうのか。社会の陰とされる領域に、常に何かしらの不安や懼れが付きまとい、それがいつどのタイミングで自分達に牙を剥いて『安心』を奪い去るかが、不明瞭に尽きるからだ。

 もしも、都市の物理的構造に致命的な欠陥があることが判明し、中層を支える支柱が一時に破壊されるといった火急の事態が起こる可能性があるとしたら、どうだろう。金持ちたちは、ありえない話だとせせら笑うだろうか。きっとそうではないはずだ。なぜなら、完璧な安全・安心が約束された社会などありえないと本能的に理解しているからこそ、確度の高い安心を欲するのが人という生き物の性であるからだ。

 万に一つでも安心を脅かし、不安を助長させるものが顔を覗かせて来ようものなら、すべからく排除しなければならないと動くか、あるいはまた別の手段を講じるはずだ。

 すなわち、都市からの脱出手段・・・・・・・・である。

 それを実現するための専用の移動手段を、懐の暖かさに物を言わせて、手元に用意していない方がおかしい。金の力で安心安全の保証という概念を『より分かりやすいかたち』へ変換するのは、都市の富裕層にしてみれば、当たり前のリスク・マネジメントの一環であるに違いない。そうエヴァは考えた。

「都市の法律によると、私設軍隊の装備品は警備会社のそれよりも幾分か格下げしなきゃならない。人的補充も、いちいち申請書を書いて承認を待たなきゃダメだし、年間の補充人員は決められている。だから押し入った際の危険性は、警備会社や治安維持部隊の支部よりも、富豪の個人邸宅のほうがずっと低い。プロメテウスは集団が牛耳る社会で、個人が余計に力を持つことを嫌がるんだ」

「当てがあるんですか?」

 スポンジケーキをフォークで弄るニコラの問いかけに対して、エヴァは自信ありげな笑みを浮かべると、瞼の辺りを指差した。

「それをこれから探すんだよ。アタシの『眼』の力を忘れたか? こいつがあれば情報収集なんてお手の物だ」

「すごく困るんだよねぇ。君みたいな人がこういうところにいるとさぁ」

 言った直後、後ろから男の嫌味ったらしい大声が聞こえた。思わずエヴァはそちらを振り返った。ニコラも何事かと首を伸ばして、エヴァの肩越しに声の主の姿を見止めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る