2-31 PM15:00/クロス・ロード①

「命を狙われている状況下で、そのファッションを選択した理由を知りたいところですね」

 詰るのでも咎めるのでもなく、ただ純粋に疑問をぶつけただけといった口調のニコラに対して、試着室から出てきたエヴァは、むすっとした顔で応えた。

「アタシのオシャレに文句つけようってのか」

「別にそうじゃないですけど。ただ、随分目立つなぁって」

 ニコラの指摘はその通りで、蛍光ピンク一色のウサ耳付きパーカーにはじまり、花柄模様のホットパンツをハート型のバックルが鎮座するレッドベルトで留め、虹色ストライプ模様のハイソックスで美脚を引き締めている様は、男性の下心を誘発するにはうってつけの服装と言えた。

「そんなにキャピキャピした服装をするなら、靴も同系のコーデでまとめればいいのに」

 エヴァの足下へ怪訝そうな視線を送る。地味系のスニーカー。およそ完璧なガーリー・コーデにならない唯一の原因。そのたった一点に、エヴァの妙な拘りがあった。

「機能性重視だ。ハイヒールやパンプスなんぞ履いて戦闘に巻き込まれたら、たまったもんじゃねぇからな」

「靴のデザイン一つで全体のバランスが崩れてる気がします」

「いいんだよ。男を釣るためのファッションだから。いかにもバカっぽそうだろ? 尻軽そうに見えるだろ? こいつは付け込む隙があるなって、相手に思わせるのがコツだ。だいたい、男なんて女の胸かケツしか見てねぇんだから」

「そういうものですかね?」

「でも、大変お似合いですよ」

 脇に控えていた小柄な女性店員が微笑んで口にした。ほとんど完璧に近い営業スマイルを浮かべて。

「だよなぁ?」

「ええ、本当に似合っていると思います」

 どこか機械的に褒め殺しの言葉を並べる店員。従業員ならば当然の振る舞いであると誰もが思うだろう。実際は、エヴァお得意の血眼フレンジィに絡め取られたが故の友好的態度なのだが、その事実に気付ける者など皆無に近いくらい、自然体に見える。

「じゃあこの服一式、そっちで処分してくれよ」

 逃走と闘争の末に、煤と血に汚れた上着とインナー、さらにはホットパンツにスニーカーをぐちゃぐちゃに丸めて店員へ手渡す。まだ着れないこともないが、さすがにみすぼらしいのは御免だ。

「はい、かしこまりました」

 このアパレルショップに、客の服を下取りするサービスなどない。それなのに店員は笑顔を浮かべたまま、すんなりと服を受け取った。

 エヴァはニコラを引き連れて、支払いもせずに店を出て行った。止める者は誰一人としていなかった。他の客たちも含めてだ。監視カメラでさえエヴァの能力下に支配され、一連の流れを正確には記録できていない。店を出る際にゲート式の万引き防止装置が警報を鳴らしたが、誤作動によるものと思い込んだ・・・・・店員の手で、それも呆気なく解除されてしまった。

 ある程度時間が経過した頃には、エヴァの魅了チャームから解放される。その時、服を受け取った店員は不思議に感じる事だろう。どうして自分は、こんな奇態なシロモノを手にしているのかと。在庫管理の担当者も、当然首を傾げるはずだ。帳簿に記された売上と在庫数が一致しないと。

 人ならざる怪物は都市生活を送る上で、これまで何度も魅了チャーム血眼フレンジィに助けられてきた。銀行に入って金を引き出すのに他人名義のクレジットカードを使っても、まったく怪しまれない。ホテルにだって泊まり放題である。やろうとは思わないが、人様の生活に寄生することだって容易い。

 もっともエヴァは、気が向いた時には金を支払うように心がけていた。良心の呵責に喘いでのことではない。たまには金を払ってやってもいい。そんな気分になる時があるだけの話だ。実際にアパレルショップを出た直後、すぐ近くにある眼鏡屋へ赴き、そこでグリーンのコンタクトレンズを購入した際には、きちんと現金を払ってみせた。

「それにしても、さすがに中層は発展していますねぇ。ほら、あんなにでっかいビル、最下層にはありませんでしたよ。道も綺麗に舗装されていますし、一味違うんですね」

 再び通りに出ると、ニコラは好奇心の輝きを薄茶色の瞳に浮かべて、中流階級の街並を丹念に記憶しようと夢中になっている。まるで子供同然の、素朴な反応だった。

 しかし、隣を歩くエヴァの反応は真逆だ。今日がたまたま歩行者天国の日というのもあって、歩道だけでなく道路にも人が溢れており、これが彼女には堪えた。黒や白や灰色や茶色のコートに身を包んだ大量の人の波に揉まれて、軽く酔う様な感覚に晒される。どうにも気が滅入る。

 どこかにひと休みできる場所はないかと周囲を物色する。大通りに建ち並ぶブランド店舗や、ウインドウ・ショッピングに自撮りを愉しむ大量の人だかりを視線で縫っていると、一軒の喫茶店が反対側の通りにあるのに気付いた。

「あそこで一休みするか」

 ニコラの同意を聞く前に彼女の小さな手を取り、人込みをうまく掻き分けて歩く。その壮烈なファッションのせいか、道行く人のほとんどがエヴァを奇異な目で振り返ったが、すぐに手元のソーシャル・デバイスに視線を落とし、自分達の世界へ戻っていった。すれ違った者全員がそんな調子だった。

 鬼血人ヴァンパイアが都市に現れたという一報を受けて、大手マスコミが政治的圧力を受けて報道を自粛したとしても、現場に居合わせた個人報道官コア・メディア達はその限りではない。彼らがネットの個人動画チャンネルに流した現場映像を、多くのユーザーたちが目撃しているはずだ。それなのに、身の安全を守ろうと自宅で静かに待機することもなく、平然と街を練り歩く人がこれほどいるとは。意外を通り越して呆れてしまう。

「これが平和ボケって奴なのかね」

 喫茶店のテラス席へ通されたエヴァは、通りを埋め尽くす人の波を見やりながら、椅子に座って長い息を吐くように言った。対面に腰かけたニコラが、それに異を唱えた。

「どちらかというと、正常性バイアスという言葉が正しいかもしれません」

「なんだそれ」

「悲惨な出来事が起こる予兆を感じ取っても、自分には関係ないと割り切る能力。人間が社会を形成し、健全に運営していく中で獲得した知恵の一つですよ」

「要するに、危機感が足りねえってことじゃないか」

「突発的な出来事にいちいち過剰反応していたら、心も体も持ちませんからね。だからエヴァさんも、一休みしようだなんて言ったんじゃないですか?」

「人間なんかと一緒にすんな」

「でも、休みたいって気持ちは本当でしょう?」

「あくまで一休みだ。そんなに長居はしねぇからな」

「そんなに気になりますか? 追手の人たちが」

「いつどこから狙ってくるか分からねぇだろ。まぁでも、仮にここで襲われても、なんとかやり過ごせるだろうよ。見ろよこの人の数。きっといい目くらましになってくれるぜ」

 木を隠すなら森の中だ。身を隠すのにこれほどうってつけなシチュエーションもない。ギュスターヴ・ナイルの手の者がニコラを奪おうとするものなら、群衆に紛れてさっさと逃走してしまえばいい。

「そうはいっても、そんな格好じゃすぐに見つかってしまうのでは?」

「変な飾りを頭に付けている奴が言えたことじゃないと思うけどな。そういえば、けっこうお前の存在に気づいている奴もいるみたいだぞ」

 特にこの喫茶店の場合、居座る客から働き回る店員に至るまで、そのほとんど全員がニコラの存在に気付いている。エヴァは彼らの何気ない目線の動きからそう判断したのだったが、事実その通りだった。

「暮らしに多少の余裕がある方が、奇跡を信じやすいのかもしれませんね」

「普通、逆じゃないか? 貧乏でどうしようもない状況だからこそ、一発逆転を夢見て奇跡を無心したがるんじゃ」

「必ずしもそうとは言い切れませんよ。ミミズが太陽の存在を知り得ないように、人間もどん底過ぎると明るさを見失うものですから」

「そういうものか」

 知ったようなニコラの台詞をさらりと流して、エヴァは階層間エレベーターでの一件を思い出していた。

 ギュスターヴが放ったと思しきサイボーグ集団も気になるが、それより問題なのはベルハザードだ。おそらくまだ遠くにいるのだろうが、彼の行動力がどれほどのものか熟知しているエヴァは、自分達が羽休みに使える時間が、そう多くはないだろうと予感している。

 鬼血人ヴァンパイアには同胞の居場所を体臭で感知できるという特徴があり、特にエヴァは他とは違って極めて変わった匂いをしているから、ある程度の距離まで近づいてきたら、たちまち居所を掴まされてしまう。

 そして彼のことだ。エヴァを発見した途端、人目など全く気にせず、あたりを血と臓物の海に変えてまでも強襲してくるはずだろう。

「(いい迷惑だ。冗談じゃない。勘違いでアタシを憎みやがって)」

 だが、彼が抱えている煮えたぎるような恨みの念の矛先が自身に向けられている事実は、何とかして呑み込まざるを得ない。

 エレベーターの一件後、ベルハザードはどうなったのか。具体的な動向は掴めずにいるエヴァであるが、おそらく自分と同じような手段を経て中層までやってきているのだろうと、確信にも近い推測を彼女は立てた。というのも、このイースト・ラウンド・ストリートに逃げ込んでくる少し前に、手持ちの端末で怪訝なニュースを発見したせいだ。中層西部の都市外縁付近にある、第一緊急離着陸場を備えた高層ビルが、テロの被害に遭ったという報道。空撮された現場写真と簡単な状況のみをレポートした内容だけがネットに上がっていた。

 ただの偶発的な事件だとはエヴァには思えなかった。

 特にこれといった理由はない。強いて言うなれば野性の勘という奴だ。しかし尋常でない緊張感に苛まれている今、都市で勃発しているありとあらゆる出来事が自身とニコラへ結びついているのではという、半ば被害妄想めいた疑念を抱いてしまうのは、仕方のない話しだ。

「さてさて、何を注文しようかなー」

 エヴァの心中などお構いなしに、ニコラはテーブルに投影スクリーンされたメニュー表を、うきうきと指先でスライドさせていった。

 真綿の絨毯に沈む重石のような憂鬱感を辛うじて回避できているのは、この純朴ながらも人を食ったような物言いをしつつ、それでいて何かを悟っているような素振りを見せる真っ赤なコートの少女が傍にいるおかげだった。そういう点では、この妙ちくりんな奇跡の体現者には感謝せねばならないだろう。

「よし決めた。エヴァさんは何にします?」

「コーヒー」

「飲むんですか? 血以外の飲み物」

「まずいけど、注文しないと変な目で見られるだろ」

「ホットですか? アイス? 今は寒いですからホットにします?」

「どっちでもいい」

「ブレンドと水出しがありますけど」

「どっちでもいい」

「ミルクは? 砂糖は?」

「なんでもいいから、さっさと注文してくれ」

 頬杖をついて憮然と応じるエヴァだったが、その目が、ニコラの注文した代物に釘付けになった。

「お前、それ何よ。なに頼んだんだよ」

「シードルと、タワーホールケーキですね」

「あぁ、林檎酒か。お前、酒なんて飲むのか」

「シードルがお酒? エヴァさんちょっと常識が足りてませんよ。あんなのお酒のうちに入りません。実際、潤沢な水源を持っている都市ならともかく、プロメテウスみたいにそうじゃない都市だと、低濃度のアルコールは子供でも飲める立派な飲料水なんです……って、他の都市に滞在している時に耳にしました」

「ご高説をどうも。で、もう一つの方はなんだ。タワー?」

「タワーホールケーキ。この店一番のおススメらしくて、ほら、他の人たちも頼んでいるアレじゃないですかね」

 そう言ってニコラが、ガラスの向こう側に見える店内を指差した。店は多くの若者で賑わっていて、ほとんどのテーブルに、そのタワーホールケーキとやらが鎮座している。真っ白なホワイトチョコレートで塗りたくられた四段のスポンジケーキ。恋人同士で、あるいは友人同士で、少しずつスプーンやフォークで崩して食べる者もいれば、手持ちの携帯端末で写真を撮るのを楽しんでいる者もいる。

「メニュー表によると、プロメテウスの都市構造をそのまま模したケーキみたいです」

 案内看板を読み上げるような調子のニコラ。いつもなら特に何とも思わないのだが、なぜかエヴァには、その単調な説明が脳裡の片隅に引っかかった。

 口を開けてケーキの欠片を胃に運んでいく客の面々。エヴァは、人目を憚らずに笑みを浮かべる客と、どんどん低く小さくなっていくケーキとを交互に眺めた。そのうちに、引っ掛かりの重みがますます大きくなっていくのを感じた。

 そしてある瞬間、エヴァの意識の中で、その引っ掛かりの先にあるものが、すなわち根本となる巨大な違和感の正体が自然とほどけていった。もう結構な年数、都市の最下層で透明な鼠のように這いまわり、多少なりとも人間の生態について無意識に観察を続けてきたがゆえの、それは残酷な気づきだった。

 ここが最下層に支えられた特別な場所であるのにも関わらず、都市を模したケーキを平然と注文できる鈍感な神経。いざテーブルに運ばれてきても、ほんの少しだって負い目を感じるような素振りを、彼らは見せない。ケーキに手をつけることにも、まったく躊躇がない。世界に向ける目を捨て、自己を取り巻く生活に関する事柄にしか興味を向けていない。

 ひとえに、プロメテウスの支配的にして歪な都市構造のせいである。

 中層の住人達は、普段からあんな調子なのだろうか。

 何かが決定的に間違っていると感じた。

 自分達のすぐ足下に、暮らしを支えている別の世界がある。にも関わらず、恵まれない人々を踏み台にするのを良しとする世論。誰かの犠牲の上に成り立つ生活を受け入れる無頓着さ。まるで、攪拌されてない瓶の中身のようだ。濁った液を放っておいて、だんだんと白い沈殿物が底に溜まり、少しずつ透き通った上澄みが出来る。皆が我先にと、その上澄み液を呑む事だけに夢中になって、煮凝りのように固まった白い残渣さには目もくれない。

 中層にいる人々は、無自覚のうちに同じ人間を搾取している。下の世界で喘いでいる同胞たちが手に入れらないものを、平然と手にして、飽きたら捨てる。そんな自由を謳歌している。その自由が、犠牲の上澄みの結晶であることに気づけない人々で、中層は一杯なのだろうと、エヴァはうんざりとした面持ちになった。

 すべては、人々の深層心理に無意識的な差別理念を植え付ける都市構造の為せる業と、望むべくもないシステムへ半ば強制的に、しかし穏やかに自然と組み込まれていってしまう、人間生来が持つ怠慢めいた驕りの象徴である。

 同胞の犠牲を前提とした社会。

 エヴァにしてみれば、鬼血人ヴァンパイアコロニーのムラ的な閉鎖性に満ちた社会も息苦しかったが、プロメテウスの中層を満たす緩慢とした欺瞞に満ちた空気感も、ひどく気に食わなかった。それはコロニーにいた頃には絶対に体験することのなかった空気感だった。

 エヴァがかつて身を置いていた社会は、全体主義のそれである。同胞たちは太母をコロニーの中心に据えて崇め奉り、常に自分達の社会が健全であるよう必死に日々の仕事に務めていた。ベルハザードはもちろん、異端者扱いされていたエヴァ当人でさえそうだった。大勢の仲間から白い目を向けられようが、太母へ忠誠を尽くそうと、自己を集団に溶かそうと、行き場のない焦りと恐怖で一杯だった。

 ここにはそれがない。そのぶんマシかと思われたが、代わりに別種の、気味の悪さに近い恐怖が蔓延していた。錯覚という名のヴェールで、認識が余すところなく覆われているという恐怖だ。

 プロメテウスの一般住人たちの手に、社会整備の基準を生み出す機会は握られておらず、それらは企業や委員会の連中に一方的に奪われている。だが生活の基盤をコントロールされているという現実を大衆はすんなりと受け入れ、特にこれといった抵抗も見せないでいる。それどころか、無意識に飼われるのを良しとしているようだった。

 もしかしたら自分は人込みに酔ったのではなく、この空気感にやられたのかもしれない……そんな風に意識してしまったが最後、いままで単なる餌としてしか見ていなかった家畜たちの、出来れば見たくなかった一面が、店の中に手遅れなほど充満しているように思えてならなくなる。

 思考の相が違うとはいえ、嬉し顔でケーキを食べている奴らが、不健康極まりないように映る。平穏に弛緩している目と口元。それが、なにより不気味で奇妙に映った。

 そのうちに、マスクをつけた女店員が、盆の上に注文した品々をひとまとめに載せて運んできた。ご丁寧なことに、注文者のニコラに対して、ケーキの特徴をいちいち丁寧に説明する始末だ。体調が優れないのか、声にときおり咳が混じり、そのたびに小さく「すみません」と謝る店員の姿勢が、エヴァにはうっとおしくて仕方なかった。

 だがニコラは違ったようで、店員の一語一語に対して「なるほどなるほど」と、首を逐一縦に振って大袈裟な相槌を打ち続けた。店員が説明を終えてその場を離れた途端、ニコラはなんの躊躇もなく、ケーキにかぶりついた。

「なぁ、それ食ったらさぁ」

 ケーキの頂点部に可愛らしく鎮座したチェリーをつまんで口に含んだニコラに向かって、どこか締まりのない口調でエヴァは訊いた。

「その部分食ったら、最上層に到達したってことにしちゃくれないかね」

「んぐ。何言っているんですか?」

 スポンジを口にしたニコラが、ほっぺについたクリームもそのままに、意図を図りかねるという風に小首を傾げる。

「言葉通りの意味だよ」

「なるわけないじゃないですか」

「やっぱそーだよな。忘れてくれ」

 馬鹿なことを言っている自覚はあるんだと言いたげに、溜息を一つ吐く。

「そんな簡単な話じゃないか……なぁ、なんだって最上層に行きたがるんだ?」

「見たいものがあるんですよ。あれ、話していませんでしたっけ?」

「見たいもの?」

「私の望むかたちで見れるかどうかは分からないんですけど、とにかく最上層に行けば、そのチャンスはあると思って」

 ケーキの頂上部分を驚異的スピードで食べ終わり、続く二段目へスプーンを伸ばしながらニコラが言った。観たい映画があるから映画館へ行きたい。そんな、軽い調子の声だった。

「その見たいものが見れなかった場合、どうなるんだ?」

 少し不安げな表情でエヴァが尋ねる。ニコラはシードルで満たされたグラスを口元へ傾けつつ、エヴァが望んでいる通りの答えを口にした。

「ご心配なく。見れようが見れまいが、私が最初に掲示した条件を達成した時点で、あなたはあなたの願いを叶える権利を獲得します。焦らずとも、ちゃんと叶えますから……お、このシードル、なかなか美味しいです。一口どうですか?」

「いらねぇ」

 無造作に差し出されたグラス。細かな炭酸発砲が浮かぶ琥珀色の液体から顔を逸らして、エヴァは首を縦に振った。

「本当に血しか飲まないんですねぇ……むむ、それとも回し飲みがお嫌いとか?」

「そういう問題じゃなくて、そもそも酒が飲めねぇんだよ。ありゃあやっかいな毒だ。飲むと頭の中がどんよりしちまう」

「体質的に受け付けないって話ですか」

「アタシだけじゃなくて、まともな・・・・鬼血人ヴァンパイアならみんなそうだ。毒物ならうっかり摂取しても簡単に体外へ排出できるが、どうもアルコールってのは厄介でな。体の中をさ、細長い虫が常に這いまわるような……そんな感じになる。気味悪いったらありゃしない……まぁ、中には例外もいるんだが」

「ははぁ、それがベルさんですか」

 エヴァは目を丸くしてニコラを見つめた。不意に喉元にナイフを突きつけられたような意外性があった。だがそれを口にした当の本人は、したり顔の一つも浮かべず平然としている。

「なんでわかった」

 唾を呑み込み、そう尋ねるのがやっとだった。

「だってエヴァさん、ベルさんの話を切り出す時、必ずくらーい顔になりますから。意外と顔に出る方ですよねエヴァさんって」

 簡単な話だと告げるようにニコラが言った。しばらくの間があって後、エヴァは深々と溜息を吐いて、パーカーを捲り上げ、後ろ髪へ手を回した。

「正解だ。ベルだけは、たぶん酒を口にしても平気だと思う。屍腐獣ボルボスを食っちまったからな。むしろアルコールを常に摂取していないとマズい体質になっちまってんじゃないかな」

屍腐獣ボルボスってなんですか?」

鬼血人ヴァンパイアがどうやって生まれてくるかって話はしただろ?」

「覚えてますよ。太母さんが人間の血を使って産むんですよね。オスとメスに産み分けたり、鬼血人ヴァンパイアの異能力も、その時に与えられると」

「そうだ。でも人間のメスが奇形児を産んだりするように、太母も時に『できそこない』を産んじまう。それが屍腐獣ボルボスだ。生まれたばかりの鬼血人ヴァンパイアは検分士のバイタルチェックを受けるんだが、そこで屍腐獣ボルボスかどうか判別される。生まれてくる確率はめちゃくちゃ低いらしいけどな」

鬼血人ヴァンパイアの奇形児ですか」

「一度だけ見たことがるが、もう二度と思い出したくない姿をしていたよ。それでも検分士の奴らは、そのまま廃棄するのも勿体ないから、せめて血袋として役立てないか研究していたらしい。でも結局上手くいかなくてな。その研究も凍結されちまった。今もまだ、山奥のどこかに奴らの投棄所がひっそり残ってんじゃないかな」

「その屍腐獣ボルボスを、よりにもよってベルさんは口にしてしまったということですか。でも、なんでそんなことを?」

「……太陽を克服するため……」

「え?」

屍腐獣ボルボスの肉にはそういう力がある。最初はただの噂話だったにすぎないそれを真に受けて、アレに手を出した奴が何人かいたんだ。進んで人柱になりたがるアホがな」

「太陽を克服したエヴァさんを嫌っていながら、そのエヴァさんと同じ力を欲しようとした人がいたんですか」

「嫌うって……お前、なかなかはっきりと言うね」

 やや表情を強ばらせつつ、エヴァは話を続けた。

「嫌悪の感情ってのは複雑に出来てんだよ。自分に無い物を当然のように持っている奴に向ける嫉妬とかも、それに値するものだろ。『アイツだけがなんで』って、そんなところだよ。屍腐獣ボルボスを取り込む動機は。でもな、いくら太陽を克服できるからと言っても、やっぱりあんなのに手を出すのは間違いだって風潮が強まって、もうやめようって決着がついた。というか、太母がそう禁じたんだ」

「なにか問題があったんですか?」

「大ありだ。いいか? 先天的な特異体質を得たアタシは例外としてだな、太陽に晒されてもへっちゃらってことは、もうそいつの肉体は、純粋な鬼血人ヴァンパイアのそれじゃねぇってことなんだ」

 鬼血人ヴァンパイアがなぜ太陽光線に晒されるだけで死滅してしまうのか。それは彼らの歴史ある社会において、長いこと議論されてきた重要問題だった。これだ、という結論は最後まで出なかったが、それでも一つの仮説を導き出すには至った。

 つまり『呪い』である。血の呪いによって生きる鬼血人ヴァンパイアであるが、それゆえに太陽に呪われたのではないか。血によって力を得ながら、血によって縛られているのではないか。

 この仮説に立つならば、鬼血人ヴァンパイアが後天的に太陽を克服する術はただ一つ。その身に『異物』を加え、血の呪いから少しでも逸れることができれば、万に一つの可能性はあるやもしれない。太陽を克服した、究極の生命体へ進化する可能性が。

「仮説は正しかった。でも、完全じゃなかった。デメリットが多すぎたんだ。屍腐獣ボルボスを取り込んだが最後、見た目は醜くなる、なんてのはまだマシな方でね。太母から頂いた眼の力は失われちまう。臓器機能も極端に落ちて、毒素の排出が極めて困難になる。血騰呪術アスペルギルムだって長時間に渡って使用することが不可能になる。おまけにどういうことか、アルコールを定期的に摂取しないと体が崩れる。こんな問題を山ほど抱えてまで太陽に祝福されてぇなんて、馬鹿のすることだ……で、実際に馬鹿はいたわけだ。アタシのすぐ身近に」

 エヴァはシードルの注がれたグラスへ、乾いた笑いを浮かべると共に、どこか不満げな視線を送った。

「本人に直接訊いたわけじゃないから、本当のところは分からねぇ。でも屍腐獣ボルボスを食うなんて馬鹿げた真似をする理由なんて、それくらいしか思いつかないんだよ。その結果、あんなイカれた姿になっちまって……屍腐獣ボルボスを摂取する理由が他にあるなら、教えて欲しいくらいだね」

 どこか投げやりな調子でエヴァは言った。だが言い切ってすぐに、自分が口走った内容に混入されていた苛立ちの感情を省みて、ばつの悪そうな顔でニコラに謝った。

「すまん。お前に言ったところでどうしようもないよな。忘れてくれ。アタシも忘れる。もう昔のアイツじゃないんだし、考えたところで無駄だ」

 どうしてか苦笑が浮かぶ。自分でも掴みどころの分からない情動。ただ、はっきりしたことがある。ベルハザードの話題が口の端に上ると、どうにも冷静さを欠いてしまうらしい。そんな風になってしまった自分と相手との関係性に、一抹の寂しさに似た想いが芽生えた。

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