1-28 God Bless You
「話は済んだかい? お二人さん」
館の影から、声と共にぬるりと現れる人の姿。人蟲・キュリオスの肉体は、まだ完全な回復には至っていない。壁に体を預けるような恰好で、少しだけにやついた笑みを浮かべるので精一杯のようだった。
「いつになく男らしかったよ、セルフィ」
「うるさい……って、おい、ちょっと待て」
ルル・ベルを引き起こしながら、照れ隠しするようにぶっきらぼうな口調でいたラスティが、立ち姿のキュリオスを見て、鳩が豆鉄砲を食らったような顔を浮かべた。
「お前……歩けたのか?」
「あぁ、言って無かったけ? あたしは別に身体障碍者でもなんでもないよ」
「じゃあ、なんで車椅子を?」
新たに知ったキュリオスの一面に驚きつつ、ルル・ベルがそう訊くと、キュリオスは狡猾な商売人のように、口元をゆがめた。
「金持ち相手の商売だと、ああいう手がカウンターとして有効なのさ。同情に憐憫。色々あるけれど、あたしが車椅子に乗った姿を見て、精神的な優位性を抱く顧客は沢山いる。相手にわざと優越感を持たせて隙を生みだしてやる。そこにうまく滑り込んで話を丸め込むのがあたしのやり方でね」
「陰気な商売だな」
「したたかな女だと言ってくれよ」
呆れるようにラスティが口にしても、キュリオスはどうってことないように、余裕の笑みを崩さない。卑屈な策に見えて、その実、優れた対話能力がないとできないことであると、自負しているためだ。
それでも、この場で話すべきは自分の事なんかじゃないと思ったのだろう。キュリオスはオッドアイの目線をラスティからキュリオスへ向けると、自分の肩を抱くように腕を組んで言った。
「ラスティのキザ台詞に乗る訳じゃないけどね、お嬢さん。自分に価値がないなんて、そんなことを考えるのはおよしよ」
慰めるようなその声に、ルル・ベルはどう反応してよいか考えあぐねた。自身の存在に価値がないなんて、そんな馬鹿げた哀れみに身を投げ出そうとは思わない。だが、キュリオスが送った言葉の前段に『生きる』という単語をつけなかったあたり、彼女がルル・ベルの前途を多少なりとも悲観的に捉えているのは確かだった。
それを、彼もまた感じ取ったからこそ、
「キュリオス。しばらく彼女を預かっていてくれないか?」
その慈愛が込められた一つ目の提案をラスティが口にしたのは、ごく自然なことだった。
ルル・ベルはびっくりしたように彼を見上げた。一方のキュリオスはというと、背中で壁の冷たさを感じ取りながら、男の言葉の真意を測るように目を細めた。
「身寄りを失くした以上、そこらへんに放っておくわけにもいかない」
「別に構わないけどね。お嬢さんが嫌でなければの話だけど」
「わ、わたしは別に、いえ、あの、とても助かります」
「そうかい。それで……ラスティ、あんたはどうする?」
切り立った岸壁にぶつかり砕ける波の音を背中で耳にしながら、ラスティは、己に向けられたその問い掛けに、言葉ではなく目で答えた。
キュリオスのオッドアイ――狼のような
二人は、お互いをじっと見つめ合った。そうして無数の、音なき言葉による会話を瞳の奥で交わしていた。引き留めようとする意志と、構わず前へ進もうとする意志との、静謐な火花を散らしたぶつかり合い。
ひりひりと空気が乾燥していくようだった。張り詰める緊張の糸は、側に立つルル・ベルにまで絡みついていた。自らを取り巻く環境が、いまもうこの瞬間に動き出そうとしている。
刹那の予感。その起点となってしまっているのは、自分だ。そう感じれば感じるほど、ルル・ベルの胸の内は、張り裂けんばかりの申し訳なさに溢れていった。
「――はぁ」
綺麗な小鼻がすこし膨れて、息が零れた。
キュリオスが、先に屈した。
「カイメラを……本気で殺るつもりなんだね?」
確認を取るように尋ねる。ラスティは肯首した。雄弁な沈黙だった。
「あんたがそこまで馬鹿だとは、思わなかったよ」
憐情に近い、それはキュリオスにしてみれば挑発の意図が込められた台詞だった。しかし彼女の煽りを食らっても、総身を覆う鋼のように、ラスティの眉はぴくりとも揺らがない。その、大理石から掘り上げられたかのような、逞しくも怜悧な佇まいが、キュリオスの心を激しく搔き乱した。
なぜだ――
なぜ、あの『カイメラ』と戦うと決意していながら、そんな態度を取れるのだ――
非常識な蛮勇に狂った男。そんな風に嘲笑できれば、どれほど精神的に楽だったろうか。それが出来ないからこそ、フラッシュバックしてしまう。その昔に嫌と言うほど舐めてしまった、たった一つの辛酸――悪夢のレッテルを貼り、記憶の引き出しの奥底に隠していた過去の断片――偶然が重なって『カイメラ』と遭遇し、ろくに立ち向かうこともせず、ほうぼうの体で逃げ帰った恥辱に染まった過去が、キュリオスの中で、たしかな輪郭を宿して蘇った。
「あんたは何も分かっちゃいない」
自然と、荒れた声が出た。
「力量を……力量を見極めなよラスティ。勝てる相手とだけ、戦っていればいいじゃないか。あたしは、ずっとそうしてきた。だから、周りはあたしのことを『最強の呪学療法士』なんて言いやがるのさ。いいかい? この都市で生きるのに必要なのは、『壁』を見定める観察眼さ。道に立ちはだかる壁が崩せる壁か、崩せない壁か。崩せる壁だったら、跡形もなく粉砕してやればいい。そうじゃなかったら、迂回して、別の道を探せばいい。そうやって要領よくやっていけばいいじゃないか。なんでそれが出来ないんだい!」
「道はもう、一つしかない」
長々と講釈を垂れるキュリオスに返す言葉は短く、それでいて明瞭さを帯びていた。
「俺は、ハンターだ」
「……知ってるよそんなの」
「だから、やらなくちゃならない。ルル・ベルを助けられるのは、俺しかいない」
「ラスティさん……」
アイス・ブルーの瞳を見上げるルル・ベル。ありがとう、とは口が裂けても言えなかった。自らが背負っている罪を、本人に代わって洗い流してやろうとするラスティの気概。それに無条件に身を委ねるなど、どうして出来ようか。
だからこそ、
「大丈夫だよ、ラスティさん。わたしも一緒に、戦うから」
胸を張って、隣に並び立つことこそが、少女の願い。
「魔杖はないけど、まだ使える
「そうか」
視線を向けずにそれだけ告げる。
そんな二人のやり取りを眺めていたキュリオスだったが、やがて、渋々と頬を掻くと、お手上げだとばかりに諸手を挙げた。
「好きにしなよ、もう……ほら、早くこっちに来な」
「……なんだ?」
「なんだ? じゃないだろ。カイメラとやり合うのはいいとして、だ。あんた、どうやって奴さんを探すつもりなんだい? というか、ほとんど丸腰で戦う気かい?」
「……あー……」
「やっぱり」
そんなことだろうと思っていたと口にする代わりに、お人好しの呪術師は二人を連れて館へ戻ると、リビングの北向きのドアを開け、板張りの廊下を渡った。
体調が優れないだろうに、そんな素振りを見せて同情を誘うのが嫌だと、その足音が主張していた。
廊下の突き当りには地下室への入口があった。壁にかけられた燭台を手に取る。石造りの階段を一段ずつ降りていくと、待ち構えていたのは、ラスティも初めてみるキュリオスの秘密の一端だった。
「……これは」
圧巻のあまりに声も出なかった。そこは正しく『武器庫』と呼んで相応しい空間だった。壁に整然と並べられ、あるいは石床に置かれた木箱の中身に眠っているのは、当然のことながらただの火器刀剣の類ではない。キュリオスの言葉一つで次々に宙に浮かびはじめたらそれらは、呪詛が仕込まれた特注の現代兵装ばかり。
「好きなのを持っていきな。使い方はあたしが説明するから」
そう言われてまずラスティの目に留まったのは、淡い青と黒の中間色に発光する、流線的なフォルムの左義腕だった。流線的という印象を持ったのは、腕の側面部を覆うようにして、一片の鳥の翼のようなオプションが手首の付け根に装着されているせいだった。
「キンバレー・シリーズの九十二年式上腕義手。人工知能搭載の半有機式高感知型筋電タイプ。あんたが使っていたのと同一規格の代物さ。もちろん、
「……偶然か?」
「さぁね。あたしもなんでコイツを造っていたのか、よく分からん」
うそぶきながら、なぜかキュリオスは得意げに笑みを浮かべた。ラスティが右手だけで左肩から先の破損した義腕を取り外す様を見ながら、彼女は地下室の天井から垂れ下がるケーブルに直付けされたスプレーガンを手繰り寄せた。
「そこの椅子に座りな」
そう命じながら、呪学療法士らしい慣れた手つきで特注製義腕のソケット部にスプレーガンを噴射した。活性剤を送り込まれたことで、義腕内部の初期疑似神経回路が起動。椅子に座ったラスティの左肩へ、慎重な手つきでそれをセットする。異なる極の磁石同士がくっつき合うように、義腕はぴったりとラスティの左肩断面部に接着された。
普通ならばこうはいかない。しかるべき医療機関でしかるべき手段の下に施術されるのが一般的であるが、それさえも省略できてしまうのが、キュリオスの操る呪術の優れた点だった。
義腕から強めの青黒い明滅が繰り返され、電子音声で行動パターンを把握するための軽動作指示が出る。言われるがまま、ラスティは脳の回路を通じて、新たに獲得した腕に、秒コンマ以下の恐るべき速度で命令を流した。
握る動作。開く動作。手の平を内側へ曲げる動作。手の甲を外側へ向ける動作。各関節部の衝撃吸収材に問題がないことを感覚している、その数秒間のうちに、腕内部の疑似神経が人工知能の補助を受け、網のように成長していく。
と同時に、いつもの義手交換時には抱くことのない、何らかの力の片鱗が己の一部として同化した感覚をラスティは覚えた。打ち倒すための力だと、直感で理解した。
「それから、これも持っておいき」
棚に納められた箱の一つに無造作に手を突っ込んでから、キュリオスが何かを投げて寄こす。すっかり馴染んだ左の義手でそれを受け取ると、怪訝そうに眉をひそめた。
麻雀牌だった。朱色の字で『中』と書かれたそれには、ネックレスよろしく、糸が通されている。
「カイメラというのはギャンブラーか何かなのか?」
キュリオスの意図が読めず、困惑気味の声を出すラスティ。
「
「わかった」
ラスティが椅子から立ち上がり、首にその麻雀牌ネックレスをかける様を、キュリオスは真剣なまなざしで見つめていた。いや――正確には彼がすでに首から下げている、あの女神像が意匠された十字型のネックレスを――さらに正確に言えば、そこに刻まれている『God Bless You』の刻印を――意味ありげな目で見つめていた。
それから、ラスティは一通り必要な武器弾薬を取りそろえた。使い方は教えられなくても理解できた。これまでの、ハンターとしての経験のおかげだった。この時ばかりは今の職業に就いていて良かったと、心の底からそう思えた。
「でだ。どうやってカイメラのところへ行くかだけど……その鍵はお嬢さん、あんたにある」
「わたしにですか?」
ここまでずっと蚊帳の外に置かれていたせいで、ルル・ベルは思わず上ずった声を出して、己を指差した。
「そうだ。あんたの記憶の中にある『カイメラ』の印象を意識下で感じ取り、それを目標地点に定めて『跳ぶ』んだ。遭遇してからまだ数時間しか経過していないなら、こいつが一番手っ取り早いし確実だ」
「跳ぶ?」
「専門用語では『量子跳躍』。あたしは『
「呪術か。だが俺も彼女も、その心得はないぞ」
「あんたの『左手』があるじゃないか――つまり、お嬢さん」
「はい?」
名を呼ばれたことで、ルル・ベルは反射的にキュリオスのオッドアイを見つめた。
それが、彼女の目撃した、今晩最後の光景だった。
「あんたは、ここでお留守番だ」
暗闇――ぷっつりと途切れる意識。眠りに落ちたように、少女の肉体がゆらりと安定を失う。だが崩れ倒れることはなかった。彼女がこうなるであろうことを予期していたラスティの咄嗟のフォロー。彼は逞しい右手だけでルル・ベルの細い体を支えると、さっきまで自分が腰かけていた椅子に彼女を座らせた。まるで、人形を丁寧に扱うような仕草で。
邪眼系の催眠呪術。視界を介した意識混濁法。キュリオスがやったのは、まさにそれだ。術の精度が低いながらも放った。ルル・ベルが純然たる機械人形ではないからこそ、その呪的効果は通じた。
「これで、良かったんだろ?」
「ああ」
初めから意図は見抜かれていて、だからラスティは突然の呪術行使にも慌てずに相槌を打てた。
ハンターとして、依頼人を危地へ誘うなどあってはならない。ましてやルル・ベルを、どうして怪物の巣窟へ連れて行けるだろう。彼女の意思を十分に汲み取ってはいた。だからこそ、下さざるを得ない決断だった。
「眠った状態なら、無意識が表層にまで上がってきているからすんなりいくよ。あんたの左手はただの義手じゃない。そいつには
キュリオスの声は落ち着いている。だが肩は大きく上下し、額にはうっすらと冷や汗をかいていた。呪術行使に必須となる腸管神経系が、まだ全快には至っていないことの証拠だった。肉体にかかるストレスは相当なものだ。今すぐにでもベッドで横になりたい気分だった。
だがそんなことよりも、まだ彼女には、親しい顧客へ伝えなければならない言葉があった。それが、彼が聞き取ることになる最後の言葉であってはならないと、心の底で祈りながら。
「かならず帰ってきな」
これまでで、一番の穏やかな声だった。
ルル・ベルの肩へ触れようとしたラスティの動きが、ぴくりと止まった。
「そうでなきゃ困る……その子が目覚めてあんたがいないと知ったら、どんな癇癪を起すか分かったもんじゃないからね」
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのか。自分でもわからなかった。
だがいまは、恐れに震える心を必死に縛り上げて、自らを鼓舞せねばならない時だった。
ルル・ベルの命を救うために。
「麻雀牌を握って禹歩を行使すれば、ここに戻れる。忘れるんじゃないよ」
「問題ない。かならず、生きて帰る。ルル・ベルを一人にはしない」
「……あんたが」
「なんだ?」
「あんたが、羨ましいよ」
寂しく笑って告げられたその言葉が、ラスティを振り向かせた。
「こんな時に言うべきことじゃないんだろうけど、あんたさ、いまが一番、生きてるって感じているんじゃないかい?」
「……」
「あたしも、できれば今のあんたみたいになりたかった。でも、ダメだねあたしは。勇気がない。いつだってそうさ」
二年に渡る付き合いの中で、彼女が初めて見せるもう一つの顔。それは、前にも行けず後にも引けない、静止した影をラスティの中で想起させた。他愛ない話を肴に酒の相手でもしてくれると嬉しい――キュリオスは事あるごとにそう言ってはラスティを誘ってきた。
所詮は商売ついでの口約束。そう決めて相手にしなかったが、実はそれこそが、本心ではなかったのか。
自分が抱えているのと同じ種類の『孤独』を相手に感じ取って、だからこそ、放っておけなかったのか――ラスティは今になって、この、都市に生まれて六十年以上になる人蟲のことを、初めて理解し始めているような気がした。
「こんな力を無理やり与えられても、何一つ、誰かの運命を良い方向へ変えられることなんてなかった。呪殺して、呪詛を跳ね返しての繰り返しさ。好奇心を糧に前へ進みたいのに、ほら、好奇心は猫をも殺すって言うだろ? ビビっちまってるんだよ。自分の歩くべき道が、もう途切れちまってるってのさ」
「そんなことはない」
ラスティは静かに頭を振った。
「今まで、あんたには随分と世話になった。感謝している……今度」
オッドアイが、いつも以上に輝いて見えた。
「今度、一緒に酒を呑もう。キュリオス」
「……は」
キュリオスが、少し驚いたように息を呑んだ。
それから、喉の奥で笑った。
楽しそうに、どこか哀しそうに。
「そうだね。うん。じゃあ、とびっきりの酒と肴を用意しておくとするよ」
「楽しみにしておく」
「……ねぇ、ラスティ」
「どうした」
「あたしは結局、自分の道を自分の手で切り開けなかった。繰り返すようだけど、勇気がなかったのさ。でも、ラスティ」
あんたは違うんだろ?
「さぁな。まぁでも、こういう状態になるとは、自分でも思っていなかった」
「どういう意味だい?」
――悪夢のビジョンが、すっかり出てこなくなっているって状態だ。
千切れ飛んでいく過去には目もくれず、ラスティは静かにルル・ベルの肩へ左手を置いた。
青黒く光る義手。その指先が拡張していくイメージ。目を瞑り、より強い感覚を求めた。
雑念を消し、意識を先鋭化させて、ルル・ベルの体内へ潜っていく。
どんどんとその奥へ、奥へ――どこまでも深く。
空間を静かに流れる空気の微細な音さえ、意識の埒外へ消え去る。
回転の中心。そこは精神的な真空の世界。完全な無の境地。
ラスティの自我が、自然とルル・ベルの側へ引き寄せられていく。
そうして――無意識の糸が、ラスティの下肢に働きかけた。
金属を断ち切るような耳障りな音がした瞬間――文字通り、瞬きの間をすり抜けるような超速の刹那――ラスティの姿は、完全に消えていた。
――待とう。酒の準備をして。
届くかもわからない祈りのフレーズを脳裡で唱えながら、キュリオスは、虚空を見つめた。
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