1-27 この都市の片隅で

「あのクソジジイ、やっぱり相変わらずの人でなしだったか」

 ラスティにおんぶされるかたちで館へ引き返さざるを得なかった結果に、歯噛みするキュリオス。いまだに腸管神経の微生物たちは不活性と言う名の沈黙に沈んでいるが、寝室のベッドに横になった彼女の顔は気色ばんでいた。

「あたしとしたことが迂闊だった。まさか本家本元が出張ってくるなんてね」

「体の方は大丈夫か?」

 表情は相変わらずの鉄皮面でありながら、ラスティの声には少しばかりの申し訳なさが滲んでいた。

「あたしなんかより、先に気を遣うべき相手がいるだろ」

 キュリオスの叱咤が意味するものを、ラスティはすぐに感じ取った。

「ルル・ベルなら広間にいる」

「そばにいてやりなよ」

 あんたにしかできないことだと、言外にそう告げていた。

「……分かった」

 言われた通りに寝室を出る。そのまま長い廊下を渡って広間へ。

 しかし、ついさっきまで椅子に座っていたはずのルル・ベルの姿はなかった。

 念のため施術室にも顔を出してみるが、そこにすらいなかった。

 妙な胸騒ぎ。

 玄関のドアを開け、館のそばに駐車してあったオイル・カーへ小走りに向かう。

 いない。

 念のために車の中をくまなく覗いてみるが、人影ひとつ見当たらない。

 急いで反対側へ向かう。

 いない。

 館の裏手へ――いた。

 不意に強く吹きつけてくる夜風。なびく紫灰色パープル・アッシュの長髪。ルル・ベルはせり出した岸壁の上に立ち、墨汁めいた色合いの海を見つめていた。どんな表情をしているのか。ラスティの位置からでは伺い知れなかった。

 近づこうと一歩踏み出した時、ルル・ベルが神へ供物を捧げる巫女のように、両腕を天へ向けて高く掲げた。その手に握られていたのは、どこまでも黒い光沢に染め上げられた魔力変性増幅杖キャラメリゼ・ロッド。中層岩盤下に取り付けられた人工の月に照らされて、夜の最中に浮かび上がるそれ。彼女と僭主・ディエゴを繋いでいた、かたちある絆だったもの。

 彼女が何をしようとしているか。ラスティはほとんど一瞬で悟り、その時点で、もうすでに全力で走り出していた。

「ルル・ベル!」

 精一杯の力を込めた決死の呼びかけ。しかしながら返事はない。

 魔杖の先で、力の波動が生まれようとしているのを肌で感知。

 予想的中――悪い意味で――呪戒に蝕まれた状態でそんなことをしたら――思わず、抱きすくめるように後ろから飛び掛かる。

 突然の事に、ラスティの腕の中で甲高い悲鳴を上げながら、ルル・ベルが暴れた。男の手が魔杖を奪い取ろうとしているのを察知した途端、少女の抵抗が激しさを増した。

 そうしてもみ合っているうちに、彼女の小さな手から魔杖が転がり落ち、岸壁を滑り、もうこんなところにはいたくないと訴えるように、虚無の大穴のような海へ、真っ逆さまに落ちていく。

 不意に、風が止んだ。

 どぼん、と魔杖の着水音が、やけに大きく二人の耳を打った。

 ルル・ベルの細い左腕を、ラスティの鈍い銀色に光る右手が抑え込む。

「どういうつもりだ」

 組み敷くような恰好になったまま、ラスティが底冷えするような声で問い質した。しかし声とは裏腹に、彼の表情は悲痛さに濡れていた。

「魔導式を打とうとしていただろ」

 言葉の裏に込められた意味――自殺を図っていたことへの批難と寂しさ。

「だから、なに?」

 そっぽを向くルル・ベル。あなたの声なんて届かないという態度。

 それでもラスティは、諦めずに続けた。

「死んでどうなる」

 無言――ルル・ベルの冷え切った心に、どうにかして温もりを与えてやりたいとい気持ちだけが先走る。それでも、口は麻痺したかのように動かず、頭の中は混乱するばかりだった。

 こんな自分だから浮かんでこないのだ。そんな風に決めつけたくなる。こういう時にかけてやるべき言葉が見つからない理由を捻り出す。愛情らしい愛情を甘受してこなかったの自分には、誰かを支えてやることなど出来はしない。そう意識した刹那、唐突に湧き上がる別の疑問――なぜ、俺は俺の手で人生の幕を下ろしてこなかったのか?

 答えが導き出される代わりに、顔のすぐ下で震えるような声がした。ルル・ベルが首を限界まで回して、ほとんど地面に顔をつけるようにして泣いていた。そこに込められた、嘆き、怒り、絶望といった感情の混沌が、しだいに震えとなって、ラスティの手に強く響いてきた。

「死なせてよ……! お願いだから……!」

 死ぬわけにはいかない――絶望に至る呪戒を刻まれてなお、そんな風に気丈に振る舞っていた少女の姿は、今はもうどこにもなかった。そこに在るのは、どこまでも純粋であったがゆえに、悪意に翻弄され続け、精神が摩耗してしまった一人の人間だった。

 想い慕っていた者から投げかけられた言葉の数々がハンマーとなり、少女の献身性をあとかたもなく粉砕してしまった。その事実を、改めて見せつけられた気がして、たまらなくなって、言葉ではどうしようもなくて。

 ラスティは右手でルル・ベルを起き上がらせると、そのまま強く。

 抱きしめた。

 最初、何がなんだか分からないまま、ルル・ベルはとっさにラスティの胸板との間に腕を入れようとした。けれども、サイボーグの右腕がそうはさせなかった。ルル・ベルの背を押す掌に力を込めてぎゅっと引き寄せ、体と体を密着させた。

 そうこうしているうちに少女の体から力が抜けた。その細く白い指先は何を掴めばよいのか迷って、固まってしまっている。

「温かい」

 ルル・ベルの耳元で、男が囁いた。

「君が生きているという証拠だ。機械の体を持つ俺とは違う。君の魂が持つ温かさだ」

 たどたどしくも、ラスティは言葉の限りを尽くした。

 いまだかつて、誰かの為に真心からの言葉を送ったことなどなかった。馬車馬のように働く母を心配そうに見つめることしかできず、狂った父親との会話を拒絶するしかなかった過去を持つ彼が、たった数時間のうちに、自分でも驚くほどの精神的変化を遂げていた。その起爆剤となったのは、間違いなくルル・ベルだった。彼女と出会わなければ、きっと、闇の中に瞬く僅かな光の存在に気づくことは、決してなかったはずだ。

「俺は君に出会えて変わることができた。たったの数時間だが、いま思えば、もう何ヶ月ものあいだ、君と一緒にいたように思う」

 相手を気遣う言葉など、自分にとっては遠い異国の文化に等しい。そう決めつけてきたせいだろう。上っ面な意味として捉えられないよう、注意深く考えて喋ろうとすればするほど、言い回しが婉曲的になった。

 どうして自分は、こうも心の輪郭を伝えるのが下手なのか。われながら恰好悪いと内心で苦笑した。

「キュリオスの奴がな、面白いことを口にしていたよ。人間の意識というのは初めからあったんじゃなく、観測によって生じるものだとな。君が呪術を使って人間になりかけているのも、観測が関係していると言っていた。俺が君と初めて出会った時、人間の女の子だと無意識にそう思ったから、君は人間らしくいられるらしい」

「……なにそれ。変なの」

「ああ、俺もおかしいと思う。だけれども、もし本当にそうなら……ルル・ベル」

 ラスティはルル・ベルを抱き寄せる力を緩めると、真正面から彼女に向かい合った。

「君は、いまでも人間になりたいと願うか?」

 紅に染まる瞳が細められる。睫毛が震える。それでもルル・ベルは目を逸らすことだけはしなかった。

 僭主の裏切り。愚かな自分。愛を捧げればいま以上の愛を注いでもらえるのではないかという下心。さまざまな感情が彼女の中で静かに堆積していく。精神の地層。そこに心の圧力が少しずつかかるにつれて、脆くともたしかな何かが生まれそうだった。

 しかしながら、それを慎重に掘り当てられるほど、今のルル・ベルは精神的にたくましくはなかった。自分という存在を客観視して、この世界における立ち位置を見定められるほど、大人ではなかった。

「分からないよ、そんなの……」

 そう答えるので精一杯だった。自分の歩くべき道がどこにあるのか。それをたった一人で探し出すなど、今の彼女にはとうてい無理だった。

 しかしながら、彼女は気づいていない。僭主に捨てられ、それでもなお寄り添おうと誓う誰かが、すぐそばにいることに。

「君にはどうか、ちゃんとした人間になってほしい」

 精神の地層に、もう一つの手が重ねられた。それはとても残酷な色を放っていて、それでも確かな温もりを宿していた。

「俺は見てきた。君が誰かの幸せを願って頑張る姿を。それは、俺にはなかったひたむきな輝きだ」

「でも、あの人は……」

「……ひどいことを口にするようで悪いが、その人のためにと想って実行に移したことが、いつでも受け入れられるとは限らない。それは人間社会の常だ」

「……うん」

「けれどな、そんなのはしょせん、結果論でしかないんだ。大事なのは、その人が何を想ってどんな行動に出たかだ。たとえ想いを無下にされたとしても、そのために慎ましくも頑張っていた姿を見届けている人が、きっといる」

 ルル・ベルは、じっとラスティの顔を見た。この数時間のあいだに、何度も向き合ってきたはずの相貌。しかし、ちゃんと意識して見つめるのは、不思議なことにこれが初めてのことであったように思えた。

「君がいることで、俺は少なくとも救われている。それだけは確かなことだ」

 ルル・ベルがゆっくりと瞬きをした。その静かな挙措を以て、いま視界に収めているこの男の姿を、しっかり心に焼き付けようとしていた。

 言ってすぐ、柄にもなく気障な科白を口にした己を恥じ入り、誤魔化すように軽く笑みを浮かべた。

「それじゃ、不満か?」

 ルル・ベルの瞳から、ぽろぽろと涙が溢れて止まらなかった。すすり泣くようなこともせず、声をわあわあと上げることもせず、少女は胸を貫くような熱さを抱いたまま、ただただ泣き続けた。

 心の圧力が一層強まり、彼女の中で『何か』がしっかりとかたちを帯び、そうと意識せずに引き上げていた。そこには確かに、もう一つの、鈍い光を放つ機械の腕が優しく添えられていた。

「ラス、ティ、さん……!」

 信頼する他者の言葉。それによる自己の肯定。ルル・ベルの中に、新たな火が与えられた。機械としての火ではない。人間として生きていくために必要な、それは『生命精神の火』に相違ない。

 少女はついに声を上げた。

 泣きじゃくり、鼻水を垂らしながら、男の広い背中を握り締めるように細い腕を回して、ひたすら泣き続けた。

 ラスティは、自分でも驚くほどの……さっきから驚きっぱなしであるが、つまりはそれだけ彼の心はあの『悪夢のビジョン』から遠ざかっていて……今はただ、こんな自分にしがみついて心の内を曝け出してくれている少女を、あまつさえ『愛しい』とさえ想い、その小さな背中をポンポンと、あやすように撫で叩くことに、信じられないほどの充足感を抱いていた。

 ひとしきり心の膿を涙というかたちで流し終えると、ルル・ベルは何回か軽く鼻を啜り、泣き腫らした瞳に穏やかさを漂わせた。

「ありがとう。ラスティさん。わたし、貴方にどれだけ感謝すればいいか……」

「……だ」

 改めての自己紹介だった。

「セルフィ・ピグマリオ。それが、俺の本当の名前だ」

「あ……偽名、だったんだっけ」

「ああ」

「……うーん、でも」

 ルル・ベルは難しい顔をして、それから、自身に言い聞かせるように頷いた。

「やっぱり、ラスティさんはラスティさんって顔、してると思う」

「そうか」

 夜のカーテンが、そよぐ海風に揺られている。遠くに望むのは怪物のような機械工場の群れ。

 そんな世界の片隅で、二人の魂は互いに静かに寄り添い合っていた。それは、確かな事だった。

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