1-29 楽園の怪物―カイメラ―
プロメテウス中層の一角。中流都民の住宅地や娯楽施設から、電動車でおおよそ二時間はかかる、魔性を孕んだ死んだ森。
ヤーパーグリーン都立自然楽園跡地、という。
大陸間戦争の終結宣言からすぐの頃。もともとはアジアの島国にあったそれを、景観保護という名目で、都市公安委員会が土地ごと移設してきたのが始まりだった。
各都市間のコンペティションを勝ち抜いて保護権利を獲得した以上、多額の投資と、様々なかたちで人の手が加えられたのは必然の成り行きだった。そこには、自らの手で破壊してしまった自然に向ける謝罪の念が、多少なりとも込められていたに違いない。
ヒ素や重金属を分解して無害化する人工の菌を土壌にばらまいた。なぜなら、重金属酸性雨に含まれる有害物質が土中に溜まると、木々を根っこから腐らせるおそれがあったからだ。
公園を一般開放する一方、入場を有料制とし、整理券を配布し、散策時間を規定した。なぜなら、かつてのラスコー洞窟のように大量の人が長時間居座り続ける事で、何らかの悪影響が懸念されたせいだ。
公園の北から南に沿って、河川が淀みなく流れるように循環装置をつくり、さらには濾過装置とネットも設置した。なぜなら、人の数を規制してもゴミを捨てる者が少なからずいて、河川が汚染される事態がたびたびあったせいだ。
公園は広大だったから、大陸で保護した鳥獣たちを住まわせた。なぜなら、そのほうが動物たちも嬉しいはずだという勝手な思い込みが働いたからで、その一手が『楽園』崩壊の鍵となった。
大切に丁重に傷つかぬように扱おうという行き過ぎたお節介の弊害。公園に放したツチウサギたちの糞に潜んでいた大腸菌が、重金属酸性雨の影響を受けて変質。人工菌を駆逐し、土壌や河川をみるみるうちに腐らせた。
対策を講じようとしていた矢先に、上層の汎用生物繁殖施設で取り返しのつかない事故――遺伝子編集された狂暴な実験動物・乱染獣たちが脱走。
四足獣類の大部分は上層に散らばったが、有翼種は中層や下層へ移動し、そのうちの三割ほどが楽園へ侵入した。
荒れに荒れた。ただでさえ異形な生物。そこから垂れ流される排泄物が、ツチウサギの糞と混じり、白と黄色と緑がないまぜになった良く分からない粘菌生物となり、公園の景観を破壊した。
乱染獣の駆逐がとっくに済み、用途に困り果てた挙句『KEEP OUT』の黄色いテープで外周を覆った今となっても、その名残は確かに残っている。
だから今、この夜。
樹皮が灰色に変質した原生林。群がる巨木の間を慎重に進むラスティの鼻腔を、独特の臭気が刺激するのも当然だった。
ビネガーを加熱させたかのような悪臭は、ラスティのすぐ足元から漂っている。だが、嗅覚のレベルを下げるようなことはしなかった。
ここは敵地。どこにカイメラが潜んでいるか分からない。五感を研ぎ澄ませなければ、いつ奈落に引きずり込まれるかも分から――
思考の上澄みを呑むより
「……!」
毒々しく紫色に苔蒸す岩場に落着すると同時に振り返り――絶句する。
キュリオスから受け取ったデータで、あらかじめその姿は確かめてある。それがどれほどの異形であるかも。だが実際に相対してみて、ラスティは今更のように理解した。
データなど役には立たない。それは生臭さを捨てた情報の集積。画像を解析したところで、そこに敵の『臭い』を検めることなど不可能。
いま、臭いはあった。それは、見る者の足を竦ませる臭い。生物としての根源を揺るがす、恐怖を呼び覚ます臭い。
それを気配として纏った一匹の『怪物』が、にぃぃぃ……と赤黒く濁った歯茎を剥き出しにして、木々の隙間から顔だけを覗かせ、ラスティを冷えた眼差しで見つめていた。
怪物の足元。紅く光る鉱石のかけらが散らばっていた。ついさきほどまでそこにあった雲母鉄鉱の巨大な岩が、怪物の二本の前肢が備える
ラスティと怪物。彼我の距離、およそ二十メートル。
「(どうして、気配に気づかなかった……!?)」
脳裡を刹那的速度で過る後悔と謎――と同時に動く肉体。理解など後回しでいい。ただ、これが求めていた敵であると判明しただけで十分だった。
怪物が、呑気な事に生暖かい鼻息で足元の草木を揺らす様を視界に収めながら、ラスティは背中に背負った個人携帯式六連ロケットランチャーを手早く構え、トリガーを力強く引いた。
吹き上がる熱と光と音を引っ提げ、大気を焼き付かせ、直進軌道を描いた末に、砲弾はすべからく怪物へ着弾。爆風の連鎖があたりの原生林をぐらりと傾かせ、超度の熱風に煽られて川面が泡立つ。
〈まつろう民か……暇つぶしになれば良いがな〉
「……!?」
黒々とした弾幕を突き破るように、その声はたしかにラスティの鼓膜を震わせた。
――効いていない。
覚悟はしていた。キュリオスからの話も、すべて頭に叩き込んでいた。
それでも――いや、それだからこそ現実感を伴って痛感する力量の格差。
無情な事実が壁となって君臨する。
ラスティの息は上がり、鉄仮面めいたはずの顔つきが、ますますの険しさを見せていく。装甲車をたやすく破壊するほどの威力を受けてなお、倒れぬ異形を前にしては、致し方ない当然の肉体反応。百聞は一見に如かずという諺を、まさかこんな形で体感するとは。
〈安眠を貪らんとしていた矢先に、客人の来訪と来たか……今日は良く、客人に遭う〉
夜風が流れ、煙を攫う。爆撃を受けてクレーターと化した大地の上に立つ怪物の全身が、はるか上層の地盤に据え付けられた人工月球の光を浴びて露わとなる。
生きた鋼を彷彿とさせる、なめらかな銀色に彩られた筋肉。重種の枠に収まらぬほどの全長。体高はゆうに三メートルに達していた。体毛がない代わりに、前髪のように面長の顔に垂れ下がる青毛のたてがみ。その隙間。顔の前面に開けられた二つの知性宿す瞳が、悪魔の火のように、緑色に濡れている。
〈まつろう民よ〉
魔法瓶よりも三倍は太い四肢。そのうち後肢だけで立って体を反らせる、いわゆる『竿立ち』の姿勢を取ると、怪物は、たくましすぎる胸囲を見せつけるように、得意げに鼻を鳴らした。
〈我が楽園に何用ぞ?〉
問い掛けておきながら、それでいて言語道断とばかりに大地を踏みしめる前肢。一トン近い鉛の鉄球をすぐ傍で落下させたような地響きが、岩場に立つ足を伝って、ラスティの機械仕掛けの肚を激しく揺さぶる。
〈応えよ。まつろう民よ〉
鼻梁に沿って滲む白い斑点。それを追った先。ちょうど額の位置にある一本の角が、感情の高ぶりを示すように黄色く光った。
カイメラ。
プロメテウスの都市伝説。
その正体は、世に言う『
だが、神話の世界で乙女の護り手として知られるその姿が、こうも禍々しく映るはずがない。
なるほど、名前の通りの
簡潔に言い表すなら、これは『魔馬』であった。神の好奇心溢れるいたずらで地上に産み落とされた、生まれながらにして呪われた出自の
「殺しに来た」
〈ほう、誰を〉
「……貴様を」
爆撃を食らった時点で分かっていたはずの答えを無理やり引き出させると、魔馬は低く短いいななきを轟かせて、その真っ黒い鼻を、暴虐の喜びに膨らませた。角の色が、黄色から寒々しい青色へ遷移していた。
〈けっこう、けっこう……今まで我に真正面から挑んでくる者は誰一人としておらなんだ。ただ……はは……名も知らぬまつろう民……本気で我を殺すか?〉
「無論だ」
〈ならば訊くが――〉
魔馬の、その馬らしからぬ二つの緑色に燃える眼差しが、ちらりとラスティの足元を射抜く。
〈――その二本足、なぜに後退を選択するか?〉
はっとなると同時、自らさえ意識していなかった心の盲点を指摘された気分だった。
足元を見下ろす。膝が震えている。岩場に足をかけていたはずが、腐葉土の上に立っている。恐怖がそうさせていた。脳内物質の過剰分泌では抑えきれないほどの、もっと身に迫るほどの恐怖が。
その恐怖を押し殺し、いま一度前へ足を進めなければならないと、頭では理解できている。なのに、どうしたことだろうか。
ラスティは過去の戦歴を高速で復活させていた。五年間に及ぶハンター稼業を。大脳の襞に。刑務所から脱走した重装備のサイボーグ死刑囚と渡り合った時や、
その際に味わった肌を灼くような緊迫感や、奈落へ引きずり込もうとする烈しい戦闘の数々を。自らを鼓舞するために、心の歯で噛み締めて反芻する。
しかしながら、それでも足は前に進まない。今、目の前に幽鬼のごとく立ち塞がるカイメラと比較しては、どれも取るに足らない経験と言わざるを得なかった。
何も役には立たなかった。過去は何も――ラスティの役には立ちそうになかった。
〈『
糸で口の端を吊り上げるように、邪悪な笑みをこぼす。
〈食らわせてもらうぞ。貴様の『
四肢を踏み鳴らして、大気を破るように突進する魔馬。ぎらりと蒼さに光る一角。避けなければならない。当然のこと、棒立ちしている場合ではない。
だが、動けない。
恐怖が足を竦ませていた。自らの、人間としての軸を圧倒的なスピードで腐食させるような恐れが、体も心も縛り上げる。
比類なき偉大さを前にして、機械仕掛けの心臓が鼓動を速める。自らの矮小性に卑屈さを感じざるを得ない。
こちらの存在を絶対的な威力の下に支配してやろうという傲岸さが、見えざる波動となって空間を伝う。
勝利が遠ざかる、という絶望感が。
その見えざる暗黒の剛腕が。
がっしりとラスティの精神を掴んで離さなかった。
衝撃音――右脇腹の金属片が散らばる。
手に持っていたロケットランチャーが宙を舞い、盛大な音を立てて向こうの林に落ちた。
地面に投げ出されるラスティ。ろくに受け身も取れず、ダメージが体を蝕む。
痛覚はカットしている。致命傷は避けている。
だが相手が手を抜いたわけではないことは、嫌でも感覚された。
魔馬は、ラスティを弄ぼうという肚に違いなかった。良いおもちゃを見つけたとばかりに。その、動物らしからぬ残虐な所作に、吐き気を催すほどの怖気を覚えずにはいられなかった。
それでも銃を、銃を向けなければならない。
ルル・ベルのために。
ルル・ベルの。
ルル・ベルの、ために。
――脳裡を過る。彼女の寂しげな横顔。
「やって……やる……!」
黒い重圧が消え去った訳ではない。想念がほんのわずかに上回ったに過ぎない。
だがそれだけで十分だった。いまの彼の闘争心に活力の火を点け直すのには。
腰に差したジャイロジェット・リボルバー。マグナムの二倍の威力を誇るそれ。化物めいた巨大さを誇る六連発式拳銃の銃口を、余裕たっぷりとした態度の魔馬へ冷徹に向ける。
備え付けの
迸る銃口炎。障害物めいてそびえる木々の隙間を縫い、誘導ミサイルのような正確さで殺到する炸裂弾。使うまではどこか半信半疑でいたラスティだったが、この光景には舌を巻いた。
爆発。火炎。轟閃。三つの破壊的要素が魔馬を包み込んだ。
立ち上がりざまに木々の影へ身を翻したラスティのすぐ脇を、鋭利な刃のように尖った鉱石の破片群が飛び射抜く。銃撃が命中する前後に、魔馬がすぐ足元の鉱石を抉るように蹴り放ったのだ。
鉱石の刃のいくつかは足に被弾したが、軽傷。走るのに問題はなかった。だからラスティは、サイボーグ持ち前の膂力を武器に、自らの位置をそう簡単に敵に悟られないよう機敏に足を動かしながら、リボルバーを撃ち続けた。
全弾消費したところでスピードローダーを取り出し、再装填。がちりと、野獣が牙を嚙み合わせるような音と共に撃鉄を起こした直後。爆炎に彩られた空間の一転から、凄まじくも甲高いいななきが轟いた。
〈面白い! 面白いぞ! まつろう民! 呪詛仕掛けの兵器とは恐れ入った!〉
キュリオスの
〈だが哀しきかな。我は楽園の怪物よ。賢しい手で打ち倒せると思うてか〉
外傷らきしもの――確認できず。
一角の色彩は青から緑黄色へ遷移していた。その色の変遷がカイメラの感情機微をエミュレートしているといった、どうでもいいことしか、今のラスティには判然としなかった。もっと重要な事柄については当然考えたが、何がなんだか混乱するばかりで、心を占める恐怖の比率が極端に跳ね上がった。
すなわち、なぜカイメラに攻撃が通じないのかという点について。
敵は強力な呪的防護壁をまとっている。だがキュリオスお手製の破魔の効果を持つ特殊弾薬を浴びてなお無傷であるとするなら、それが従来構造の呪的シールドでないことだけは確かだ。
なぜ無傷なのか――呪詛のシールド――それによる防護――どんな仕掛けが?――言霊――いつ使ってくる――喰らったらまずい――聴覚のレベルを――来るっ!
思考を一時的に中断。
カイメラが、その太い筋肉繊維の塊である頸部を斧のような要領で木々へ激しく打ち付け、なぎ倒しながら、ラスティの肉体を公園の土と一体化させんと、分厚い蹄を鳴らして爆速疾駆する。その衝撃は、辺りの気流を捻じ曲げて、足下の草花や、いまや遠くに離れた河の水面を揺らめかせるほどだった。
ラスティはラグビーボールのように無軌道に飛び跳ねながら後退を選択。森の奥深くへ凄まじい速度で身を投じながら、リボルバーのトリガーを引く。何かせずにはいられないとばかりに。弾丸を無駄にするべきではないと分かっていながら、いま近接戦に持ち込むのはあまりに無謀。
馬という生き物は基本的に、走ることに特化していることで知られている。だがカイメラは魔馬である。走術だけでなく破壊にすら秀でていた。狂ったように極太の首を手当たり次第にぶん回しながらも、蹄の奏でる音は、激しく正確なリズムを保っている。
首回しの連撃で根本から叩き壊されていく巨木が、信じられない速度で次々に倒壊し、飛び跳ねるラスティへ追いすがる。大地がわななき、土煙が巻き上がり、肉眼による視界が閉ざされる。
ラスティは
それは恐怖とはまた違った趣の感覚。命を刈り取ろうとする所作を見せていながら、魔馬は実のところ愉しんでいる。この状況を。絶対的強者たるが故の余裕。いつでも貴様を踏み殺せるという、支配者の玉座に座る者特有の嗜虐心。
それが意味するところ=観察する時間が、それなりにあるということ。
義眼の性能を全開。水晶体精度を最大レべルへ移行。人工網膜の奥に搭載された各種センサーを起動させ、電子チップ内で観測事象を分析、精査。
時間が惜しい。神懸かり的速度で演算を実行する視覚野上の敵性データから――右前方からのしかかる巨木を身を捻りつつ回避して――秒間を重ねた末に浮かび上がる事実に、ますます困惑。
カイメラの、目には見えない呪的防護壁は二層式。うち、一層はキュリオス特性の炸裂弾で破壊できるが、二層目に対しては全く効果がない。
これから導き出すべき結論=二層目の呪的防護壁には、一層目と違った仕掛けがある。その仕掛けの要諦=目下のところ正体不明。
このポンコツ脳味噌――激しい自己嫌悪に陥りながら、弾倉内の炸裂弾が残り一発になったとき、赤緑黄色の輪郭が、視界から突如として消えた。
いや、あまりにも速すぎる動作ゆえに、そう錯覚したに過ぎない。
「(跳んだ――!?)」
世に、跳ね馬という言葉がある。
それは、馬の『竿立て』を空駆ける様に見立てた、ただの言葉のあやに過ぎない。
しかしながら、カイメラは違う。
それは本当に跳んでみせた。少なくとも、ラスティにはそう見えた。
飛翔――そう断じて間違いないほどの圧倒的な跳躍力に、否が応でも目を奪われる。
天空から降り下る隕石めいて、真っ黒な巨躯のシルエットが迫る。
後退――重心を意識して視界の左に捉えた開けた盆地へ飛び込もうとしたが、それに前後して、今度は本当に、正真正銘、宙を駆け降りようとしていた魔馬の姿が消失した。肉眼はもちろん、電子的視界のどこにも、映らない。
奇怪すぎる現象に当惑――する間もなく。
「がっ……!?」
ラスティの鋼の肉体が吹っ飛んだ。凄まじい衝撃をその身に食らったと認識した時にはすでに、前方の巨木へその身を打ち据えられていた後だった。
換装したばかりの左腕が、完全にねじくれていた。
棺桶の釘を打つかのような冷酷無比さを匂わせるように、蹄の痕がくっきりと残されていた。
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