空っぽ未満の少女-2-

シン

01 生物と非生物

「一ノ瀬くーん、暇だー」

 この科白セリフだけ聞けば、友人との暇つぶしに遊びに行く相談でもしている様に思われるかもしれないが、生憎あいにく、俺に話しかけてきているのは良い歳のオッサンで、しかも大学教授という中々偉い肩書を持っている。そして俺はその先生の教授の研究室に所属する大学生である。で、そんなある意味師弟関係のような二人が遊びに行く相談をする筈もなく、というかそもそも二人共遊びに行ける状態ではない。何故なら我々は共に入院中である。梅雨入り前の行楽にはなかなか良い季節だし、今日は天気も良いので出かけたい気分は山々なのだが、如何いかんせん二人共怪我人である。

 そんな中、最近は傷がだいぶ癒えてきたのか、山本道源教授は矢鱈やたらと俺の病室にやって来ては無駄話を持ちかけてくる。まぁ、俺も暇を持て余す入院患者なので、特に問題は無い。更に前向きに捉えるならば、自分の所属する研究室の教授とは言え、何時間も面と向かって語らう機会などそう有るものではないので、話題によっては非常に有意義と言えなくもない。

 どういう経緯で大学教授と学生が揃って怪我をして病院で長話をする羽目になったかと言うと、それなりに複雑な背景があるのだが、途轍とてつもなく端的に表するなら、二人揃って傷害事件の被害者という事になる。先生を刺した奴も俺を刺した奴も、今のところ罪に問われる気配はない。前者はまぁ良いとして、後者はぶん殴って土下座でもさせたいのだが、今は行方がわかっていない。

 「時に一ノ瀬君よ、記憶はもう完全に戻ったのか?」

 そう、俺は少し前までは記憶喪失でこの病院に入院していた。病棟こそ違うものの、総合病院なので建家が違うだけで同じ敷地内である。今は記憶が戻り怪我の治療を優先しているが、記憶喪失の件もあって週一回、精神科の方も経過観察という形で診察を受けている。そう考えると、俺の入院生活は割と長いのだが、大丈夫なのだろうか。身体では無く、金銭的な面で。

 「まぁ、大丈夫なんじゃない?保険とかあるでしょ。たぶん」

 確かに、入学の時に半強制的に良く分からないまま保険には入った気がする。今回の入院に適応されるのかは知らないが。

 「記憶はほぼ思い出したと思います。思い出せてない部分があっても、それを自分で気づけるのかは自信がないですね」

 一応、親の名前やら大学の授業の内容やらは一通り思い出したので、欠けている記憶が残っていても微々たるものだと思う。

 「そうか、そりゃ良かった。まぁ、思い出せてない記憶があるかどうかを確かめるのは、君の言う通り君だけでは難しいだろうな。とは言え、誰でも少なからず物忘れはするものだ。その程度だと思って気楽にしていれば良いだろう」

 他人事ひとごとだと思って気楽なものである。

 「で、今日の議題はなんですか?」

 議題、と言う程大した話はした事はないが、仮にも相手は大学教授である。そこそこ有意義な話でなければ休学中の授業料の元が取れない。

 「議題ねぇ…特に考えてなかったが。あ、君は十川君の車は見たことがあるかね?」

 十川君とは研究室の准教授である十川陽子先生の事である。十川先生の車ならば見た事どころか助手席に乗った事がある。急いで乗り込んだので車種までは覚えていないが、青いスポーツタイプの車だった筈だ。女性にしては珍しいチョイスだと思うが、先生らしいと言えば先生らしい。

 「あの車はこのエコ時代に喧嘩を売ってるかのように燃費が悪いんだ。僕なんて中古のHVハイブリッド車でガソリン代を浮かせて小遣いを貯めていると言うのに」

 それは個人の趣味だろう。HVだ電気自動車だフューエルセルだと、何かとしのぎを削っている自動車産業だが、エンジン搭載の車が無くなるのは未だかなり先の話だろう。電気自動車の電気だって、元を辿ればかなりの割合が火力発電なので、当分は化石燃料にお世話になるに違いない。

 というか教授なんて地位なら金銭的な苦労とは無縁かと思ってたが。

 「家はカミさんが財布握ってるからなー。あ、ちなみにカミさんは陽子君の生みの親ではないぞ。育ての親ではあるかもしれないが」

 そう、研究室の准教授である十川陽子先生の生い立ちは複雑で業が深い。それはもう今の飄々とした性格が噓のようなくらい深い。まぁ、それは今は置いておくとして。

 「車がどうかしたんですか?」

 本題は別に山本先生のお財布事情でもなければ、十川先生の波瀾万丈人生譚でもなかった筈だ。

 「あぁ、そうそう、車の話だった。時に君は、車は生きていると思うかい?」

 予想通りと言うか何と言うか、やはり素っ頓狂すっとんきょうな質問である。

 「それはアレですか。その道三十年の刀鍛冶が『日本刀ってぇのはな、生き物なんだよ』みたいな表現の話ですか?」

 個人的な感覚だが、生き物ではないものに対して「〇〇は生き物だ」と言うと、何故かその道のプロっぽく聞こえる。先のたとえの刀鍛冶ではないが、職人が肌感覚で培ったノウハウをモノ作りに織込む場合、同じ製品でも製造時の温度やら湿度やらを加味して微妙な匙加減を与え、高い品質を得る。そういう意味で無機物を生物に喩えるのは良くある話だ。別にそれは刀に限らず「パンは生き物だ」「経済は生き物だ」「川は生き物だ」など、とりあえずそう言っておけばそれらしく聞こえるから何とも都合の良い言葉である。逆にこの表現を本当に生物に使って「ウサギってぇのはな、生き物なんだよ」などと言おうものなら「何言ってんだこいつ?」と思われてお仕舞しまいである。

 「いや、そういう情熱のガイアの大陸の夜明けのプロジェクトがXみたいな話じゃなくてだな。ヒトは生物で車は生物で無い、というのは何処どこで線引きがされてるのだろうね?という話だ」

 何処でと言われても…命の有無、と答えたら抽象的過ぎるだろうか。

 「まぁ、そうなると今度は命の定義という話になるな。まぁ、知っていると思うが、自動車のエンジンはガソリンなり軽油なりが持つエネルギーを燃焼熱として取り出し、ピストンを動かし、更にその運動方向を変換して軸の回転を得ている。燃焼とは即ち石油、つまり炭素と水素の化合物を酸化させて酸化前後のエネルギーの差分を熱として取り出している訳だ。

 ここまで言うと、そろそろ僕の言いたい事が見えてきたかな」

 まぁ、何となく趣旨は解った。おそらく炭化水素の燃焼エネルギーを用いているのは生命も同じだ、と言いたいのだろう。

 「米やパンは炭水化物で、それを熱エネルギーにして二酸化炭素や水を排出しているという点は、エンジンと同じだ、という事ですか」

 ニヤついている。どうやら向こうの思う壺の回答をしてしまった様だ。

 「そういう事。流石は我が研究室のホープだな」

 いや、俺はもう大学院生なのだが。

 「つまり、生き物も自動車もエネルギーを得て運動している点では大差が無いんだよ。というか、出力だけなら圧倒的にエンジンの方が優れている。何百馬力なんて、人は出せないだろ?」

 そりゃ、馬一頭が出す力が一馬力(本当はもっと厳密な定義だった気がするが)なのだから、人など一馬力も出せないのではないだろうか。

 「では、エンジンは人間よりも優れた生命体と言えるのではないかね?」

 其れは流石に極論と言うか、話が飛びすぎではなかろうか。

 「いや、生命は自立して能動的に活動してますが、自動車はまでも生命に操作される側、行動が受動的じゃないですか」

 エンジンは人が頭を捻って発明した産物だ。種々の機構を組み合わせて、物理現象を利用、制御し、如何に効率よく石油のエネルギーを回転運動に変換するかという技術の追求である。

 「最近の車は単純なオットーサイクルやディーゼルサイクルを脱して複雑な機構を備えた物が多い。排ガス規制や燃費規制に対応するのは中々困難なのだと、工学部の教授が言ってたよ。僕はあんまり熱力学に明るくないから、どんな機構を備えたら熱効率を上げられるのかまでは良く知らないけどね」

 と言って、あ、と呟いて上着のポケットから缶コーヒーを取り出した。

 「あー、買ったの忘れてた…飲む?」

 今は特に暑くも寒くもない季節だが、だからといって熱くも冷たくも無いコーヒーが美味い訳ではない。忘れられてホットコーヒーとアイスコーヒーのいずれにも当てはままらない温度になった哀れな缶コーヒーは、挙げ句の果には買い主から「温いからやる」と放逐されようとしていた。しかも一缶しか無い所を見ると、自分用だけ買って俺の分は買っていないようだ。その癖に温いからやるとは、随分と徳の低い大学教授も居たものだ。

 「えー、だって一ノ瀬君は缶コーヒーよりドリップとかの方が好きなんだろ?だから買わなかったんだよ」

 であればなおさら、温い缶コーヒーなど勧めて欲しくないものだ。

 「理屈っぽいなぁ、君は」

 「何処の研究室の生徒だと思ってるんですか」

 まぁいいや、と言って先生は温いコーヒーをすすり始めた。結局飲むのかよ。

 「話は戻るんだけど、酸素を取り込んで炭化水素と反応させ、その酸化反応で得られる熱を動力源としている。これはエンジンの説明としてもヒトの説明としても成立する訳だ。にも関わらず、前者は生物とは認められず、後者は傲慢ごうまんにも生態系の頂点とまで言われる生命体だ。君はさっき行動が能動的か否かで両者を区別しようとしたけれども、エンジンだって始動してしまえば、後は燃料が尽きるまで自律して回り続けるだろう?」

 まぁ、それはそうだ。エンジンは最初にセルモーターと呼ばれるモーターで強制的に回してしまえば、後は連続的に運転される。近年のエンジンは電子制御が至る所に入り込んでいるので、電源がないと動かないと思われるかもしれないが、エンジンは同時に発電も行っているので、電子制御を含めても自律していると言えよう。しかし、だ。

 「でも、エンジンは自分で燃料補給は出来ないじゃないですか。生物は自分で食料を調達しますが」

 やはり行動が能動的、受動的の線引きは出来る気がする。

 「確かに、エンジンは燃料が無くなったら止まるね。でも需要が有れば人が給油してくれるじゃないか」

 いや、だからそれが受動的だと思うのだが。

 「そうかな?エンジンがヒトを巧みに利用して燃料を得ている、と考えられないかね?例えば、生物には寄生虫の様に、他の生物ありきで命を繋いでいる種もいる。エンジンがヒトありきで生きていると考えれば、あまり差が無いように思うけど」

 人が創造した物を生き物と捉えるという発想自体が俺には無かったので、今更エンジンが生きていると言われても「はいそうですね」とは言えない。言えないのだが…

 「では、先生はエンジンも生物であると?」

 反論しにくくなってきたので、逆に質問してみた。

 「一ノ瀬くん、人によっては『質問に質問で返すな!』とか言われちゃうよ?まぁ、そう言う人は半分以上が自分が答えられないから逆ギレしてる様に見えるけどね。僕はそうだなー。これ言っちゃうと見も蓋も無いんだけど、ぶっちゃけモノと生物は明確に区別出来ないと思ってるよ。原子とか、そこまで細かく無くても、素材のレベルでは生物では無いと思うんだけど、何らかの機能を付与された創造物は生物と言っても良いんじゃないかな」

 狐につままれた様な気分とはこの事だろうか。人が作ったモノ、しかも農作物の品種改良とか遺伝子操作と言った、元となる生物からの改造ではなく、無機物部品の組み合わせで人間が求める機能を狙った付与したモノが果たして本当に生物と言えるのだろうか。

 「普通、人間は自分達が利用する為に、ある機能を持ったモノを発明したと考えているし、発明した人から見ればその通りなんだけど、モノを主体で見た時、ある機能を人間に着想させ、其処そこから物体として世に産まれ、さらにその機能の向上を人間が欲しがるように仕向け進化している、つまり、人はモノを産み出し進化させる装置だと考えれば、最早どっちが生物でどっちが機械だか解らないと僕は思うけど」

 そこで俺は少し考えてしまい、しばし沈黙した。点けっぱなしのテレビからは「新興宗教を名乗る団体による詐欺まがいの行為が…」などど穏やかじゃないニュースが流ている。すると、不意にチャンネルが変わり、何やらペット特集らしきバラエティ番組に切り替わった。見れば、先生がリモコンでチャンネルを変えていた。

 「いやぁ、今更ながらリモコンって便利だよねー。発明した人は偉大だ」

 …この人は生物なんだろうか。

 

 

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空っぽ未満の少女-2- シン @shin1987

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