第11話 たったひとつの、冴えないやり方

──最近ずっと、考えていることがある。


高校の昼休みの後半10分。生徒たちは様々な過ごし方をしている。

ゲームに興じる者たちもいるし、大声で立ち話をしている者たちもいる。

あるいは、まだ食事を終えておらず、食事を口に運びながらおしゃべりをひたすら続けている女子生徒の集団もいる。彼女たちは、きっと昼休みの時間をフルに使って昼食という名のおしゃべり会を完結させようとしている。

そして、この女子生徒の集団の中に、ヤコの姿はない。処女を失うまでは、ヤコもこの集団の一員だったのに。


この女子グループは、非処女になったヤコの扱いに困惑しているように見えた。はっきりとした拒絶の意志を示すでもなく、かといって今まで通りというワケでもない。「ヤコに対する積極的な介入をやめた」という表現がぴったりかもしれない。

そして、そんな彼女らの雰囲気に居心地の悪さを感じたであろうヤコは、自然とグループから距離を置くようになった。現在のヤコの昼休みは、もっぱらただの読書タイムと化している。


男女問わず、学校でヤコに話しかける者はオレ以外にはほとんどいない。事務連絡があれば普通に話すけど、それ以上の会話をあえてしようとは誰もしていなかった。

毎日話しかけているオレも、じっくり話すという感じではない。読んでいる本の話や、学校で起こるちょっとしたことの感想なんかの、他愛ない話を数分するだけだ。自分の中でこのヤコとの会話は、楽しみというよりも半ば義務感から発生していた。彼女とのつながりを絶ちたくない。彼女に、不幸であって欲しくない。

そんな思いから、毎日ヤコに話しかけていた。生理的嫌悪感が邪魔して楽しめない会話を、毎日続けていた。

ヤコも、オレとの会話を、曖昧な感じでやり過ごしているフシがある。あの日の「私のこと、抱けるの?」以降、ヤコの本気の言葉を聞けていると感じたことは、一度もない。

無為に消費される会話。ただ形式的に交わされる言葉。相手のジョークに呼吸を合わせて出る、表面的な笑い。


オレは、腹が立ってしかたなかった。

ヤコと懇意にしていたのに突然態度を変えた女子グループにも、ヤコの知性をよく知りながら、非処女になった途端に雑な扱いになるクラスメイトにも、半ば義務になりながらも無理やりにヤコに話しかける習慣だけをキープし続ける、オレ自身にも。


この終わりのない怒りを終わらせたいと、強く思う。

現実的に考えて、他のクラスメイト達の態度を変えさせるのは不可能だろう。それほどまでに深く、オレたちの頭には非処女への扱いが文化として染み付いてしまっている。

だから、オレが変わるしかない。

今は半ば義務になっているヤコとの会話を、改めてオレ自身が楽しめるようにする。ひいては、ヤコへの生理的嫌悪感を和らげる対策を取る。

そう。かつてのオレは、「それは不可能だ」と結論づけた。この生理的嫌悪感は時間経過によって薄まるものではないし、心がけでどうこうなるようなものでもない。

だけど、最近になって、「もしかしたら」という計画を思いついた。いや、「思いついた」などというとまるで良いアイディアのように聞こえてしまうから語弊があるかな。

この発想は断じて「良いアイディア」などではないし、それどころか「悪いアイディア」という表現の方がずっと正しいだろう。人に相談すれば99%は止められてしまうだろう。

だから、「思いついた」というよりは「覚悟ができた」とか「選択肢に登場し始めた」という表現の方が正しいのかもしれない。


【オレたちダンゴムシの感覚器官である「触角」を、自分で切り落とす】

この発想を誰かに話したら「何をバカなことを」と言われて笑われるだろう。突拍子もなさすぎて、冗談だと思われるかもしれない。

それでも、オレにとってはこれが現状を打開する唯一の方法に思えた。


触角をなくしたら、とんでもない不便に襲われる。ダンゴムシの生命線である嗅覚はほとんどなくなるから、いわゆる普通の生活は望めなくなる。嗅覚以外の感覚も鈍る。

──ただし、非処女への生理的嫌悪感が消える可能性がある。


例えば、「サバが大嫌い。子どもの頃に食べて合わなくて吐いてしまって、それ以来見るのも嫌だ」という者が、味覚と嗅覚を失ったら、やはりサバは「見るのも嫌だ」という対象のままだろうか。

恐らく、そうではないのではないか。彼の「見るのも嫌」はあくまで味覚や嗅覚に結びついたものであり、根源であるその感覚が失われたら、「見るのも嫌」はなくなるのではないだろうか。「嫌」の根源になった記憶はそのままだが、嫌悪感はなくなるのではないか。

生理的嫌悪感は、感覚器官に依存しているはずだ。


この仮説を思いついてから、当たれる限りの文献をあたってみたが、触角欠損後の非処女への生理的嫌悪感について明確に研究しているものは存在しなかった。

ただ、事故で触角を失った男性へのインタビュー記事で、「非処女への嫌悪感が消えた」と答えているものが一件だけ見つかった。

データは曖昧だ。この男性がたまたまそうだっただけかもしれないけれど、それでも「可能性がある」ということは間違いない。

だったら、それに賭けてみてもいいんじゃないだろうか。


あの日、ファミレスで美しい老夫婦の光景を見た瞬間から、この考えは浮かび始めた。

お爺さんがお婆さんの手を取り、ゆっくり歩いていく様子。老夫婦の穏やかで美しい光景に、オレは自分とヤコを重ねていた。

ヤコと、あんな穏やかな時間を過ごせたら、と強く思う。

自分たちがあの美しい光景の当事者になれる可能性があるのなら、全てを犠牲にしてでも挑戦すればいいんじゃないか。


最近ずっと、考えていることがある。

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