第12話 秋の公園。少し息継ぎをして。

ヤコの精神は、緩やかに消耗しているように見えた。

いつも何ともないみたいな様子で、涼しい顔で暮らしているけれど、きっと彼女の疲れは限界に達しているのだと思う。


非処女であることで周りから敬遠され、皆が自分の扱いに困っている。

仲の良かった友人たちとも満足にコミュニケーションがとれなくなり、学校で孤立しがちになる。

そんな穏やかな地獄の中で、彼女は日に日に活力を失っていった。

理性の力に満ちた目も、強い意志を感じさせる歩き方も、人を勇気づける快活な声も、少しずつ色あせていくようだった。


彼女の未来に、希望はあるのだろうか。

彼女は、どうやって救われるべきなのだろうか。

考えれば考えるほど、オレが彼女の隣にいようという、強い意志が湧いてくる。

彼女の心は分からないけれど、もしかしたら余計なお世話なのかもしれないけれど、それでも、オレが彼女の希望になりたいと思った。


「ヤコ、今日の放課後、時間取れないか。話したいことがあるんだ」

意を決して彼女にそう声をかけたのは、すっかり秋が深まった11月の半ばだった。


ヤコは、意外そうな顔をした。ここしばらくの形式的な会話の中で、オレがあえてヤコにしっかりと時間を確保させようとしたことはなかったから。

「うん、大丈夫。いいよ」

そう言って、微笑む。やはり彼女の表情には元気がない。右の口角に、シワはできていなかった。

「ありがとう。それじゃあ、放課後にまた」

ここでは、サラリと会話を終わらせる。余計な言葉を今交わす必要はない。放課後のヤコとの会話で、聞きたいことを全て聞こう。


残りの授業は、ただひたすらに上の空だった。

教科書とノートを何となくめくりながら、頭の中ではヤコとの会話のシミュレーションをしていた。いや、シミュレーションというほど高度なものではない。

「覚悟を決める」という表現の方が適切だろう。ヤコの言葉から耳をそらさない。ひたすら、真摯に聞き取る覚悟。

今までに知ろうとしなかった、向き合う気力がなかった話を、オレは今日、ヤコに聞く。

それが、例のバカげた計画を実行に移すかどうかの、最後にして最大の判断材料であると思った。

──ヤコは、いかにして処女を失ったか。

それだけは聞いておかなければならない。気力がなくて聞くことができなかったけれど、今後のヤコの人生に大きく意味を持つ重大な問題だ。もしセックスの相手がヤコと結婚するつもりがあるのなら、オレのこの悩みと計画はバカげたものでしかない。

今日、しっかり全てを聞こうと思う。好きな女性が処女を失った話は、きっとどんな男が聞いても、楽しい話ではない。

それでもオレは、彼女に全てを聞く。そうすることでしか、この先の生き方は決められない。


***


秋の公園。少し湿った風が吹くのが気持ちいい。

わずかに高台にあり景観の良いこの公園を、オレは気に入っていた。この公園は、最寄り駅を挟んで逆側にあるから、うちの高校の生徒はほとんど使わない。通り道にない公園の価値は、限りなく低い。

逆に言えば、知り合いがいる確率がほとんどゼロに近いこの公園は、ヤコと、あまり聞かれたくない話をするのに最適だった。

足元で落ち葉が小気味いい高音を奏でている。数歩隣で、ヤコの細い肩が揺れる。学校から徒歩20分、オレたちはポツリポツリと会話をしながら公園にたどり着いていた。


「そこの、ベンチで話そう」

ヤコに声をかける。色づいている木々に目を奪われていた彼女は、オレの声に反応してベンチに視線を向けた。

右を見れば高台からの街の景色も見えるし、左を見れば公園の自然も見える。そのベンチは、オレのお気に入りの場所だった。学校帰りに物思いに耽りたいとき、時々来ていた場所だ。

ヤコと一緒に、ベンチに腰かける。

デートで来ていればよかったな、と何となく思った。この場所で、嫌悪感なしでヤコと一緒に笑いあえたら、どれだけ素敵だろう。

いや、やめておこう。「もし」の話はこれまでさんざん考えて苦しんできた。もう今はそういう段階ではない。オレは「これから」を考えるために、今日ヤコをこの場に連れてきた。


「ヤコ」

彼女の名を呼ぶ。呼びながら彼女の顔を見ると、彼女もまっすぐこちらを見た。

背中が汗をかいている。聞くのが怖い。これから、オレはあえて聞きたくもない話に自ら突入する。そう考えると、逃げ出したい気持ちに駆られた。

「冷やかしとか、好奇心とかじゃなくて、本気で教えて欲しいことがあるんだ」

だが、言いたいことの前置きは、口をついて出る。覚悟が決まっているから、聞きにくいことへの追求が、ほとんど自動的に自分の口から始まった。

「ヤコが……非処女になったことについてなんだけど。相手は、誰なんだ?」

聞きたい理由は説明しない。オレの心中にあるバカげた「計画」は、最後まで誰にも話さないつもりでいた。


ヤコは、穏やかな表情を崩さない。メガネのフレームごしに見える目は、落ち着いて、こちらを見続けていた。ゆっくり、語り始める。

「中学の時の先輩だよ。昔、少しだけ憧れていた先輩」

ドクン、と心臓が鳴る。ヤコの昔の恋の話を聞く動揺と、では合意の上のセックスだったのだろうかという動揺。「少しだけ」という言葉に込められた微妙なニュアンスについての考えが頭を駆け巡る。

緊張で口が渇く。構わず質問を続けた。

「そのセックスは、合意の上で?」

「違う」

「じゃあレイプされたってこと?」

「まあ……そうだね」

「どこで?」

「彼の家で」

「家に上がったんだ?」

「うん」

新事実に触れていく動揺と聞きたくない話を掘り出していくツラさで、めまいがしそうだった。怖い、これ以上進みたくない、と思う。

それでも、撤退はない。何があっても、今日は聞きたいことを全て聞かなければならない。

「もしよかったら、聞かせてくれないか。そうなった経緯と、その先輩の話を」

質問に対するヤコの回答はどれも簡潔で、ことの全体像を掴むのは難しい。そう判断したオレは、ヤコに語りの主体を任せたいと思った。


「ちょっと長い話になるよ」と、ヤコは前置きする。

構わない、と伝えると、彼女はゆっくりと息を吸い込んだ。まるで競泳選手のスタートの前みたいに。

そして、凛とした声で言葉を紡ぎ始める。彼女のまっすぐで透き通る声は、秋の公園に、眼下の町並みに、穏やかに溶け込んでいった。


「先輩は、サッカー部のエースで、女子にとても人気があったの」

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