第6話 体育館、床のワックスの光沢

立ち上がる気力がない。


あの日以来、オレは意識があるのかないのか分からない状態で、毎日を過ごしていた。学校をサボることすらできない、ただ今まで通りのルーチンを漠然と過ごすだけの生活をこなす。

夜は眠れないし、食欲もない。誰との会話も、心が弾まない。


気づけば、あれから3日が経ち、木曜日になっていた。クラスメイトたちはいつもと何も変わらず、各自がめいめいに喧騒を作り出していた。

喧騒に混ざることはできず、授業の開始を漠然と待つ。手で自分の顔をなでると、頬が少しコケているのが分かる。無理もない。この3日間はろくに食事をしていないのだから。

そして、そんなオレと同じかそれ以上に、ヤコもツラそうだった。嫌悪感が邪魔してじっくり観察はできないのだけれど、それでもはっきり分かる程度に、ヤコは消耗している。顔には疲れが浮かび、ぼうっとしている時間が多い。

きっと、彼女も苦しんでいる。詳しい事情は分からないが、彼女が高校生にして処女を失ったのには、それなりにワケがありそうだ。育ちのいいヤコは、普通のダンゴムシ以上に貞操観念が強い。「良いと思っている男に強めに言い寄られたから」程度の理由で行為を許してしまうとは思えない。将来の保証、結婚の保証がないなら、ヤコは断固として断るだろう。


今彼女が消耗している様子を見るに、当然ながら「結婚の保証があって行為を許した」という感じではない。彼女の初体験は幸せなセックスであったとは思えない。レイプなのか、それに準ずる何かなのかだろう。

そして、本来ならばオレの持つ感情は、「相手の男への怒り」であるべきなのだろうと思う。ホントウにレイプなのだとしたら、オレは今すぐ相手を突き止めて、ボコボコに殴ってやらないといけない。


にも関わらず、何の気力も湧いてこない。どうでもいい。

そんなことをしても、問題は何も解決しないのだ。相手をボコボコにしてヤコとまた一緒に美しい時間が過ごせるならば、オレは血眼になって相手の男を探すだろう。

だけど、そうではない。そいつをボコボコにしても、ヤコが処女に戻るワケではない。オレの中にある生理的な嫌悪感は、消えることはない。


結局、オレの中にあるのは強い絶望だけだった。絶望は恐ろしい。立ち上がって何かをしようと言う気力を根こそぎ奪っていく。絶望に比べると、他の負の感情はいいな、と思う。怒りも悲しみも、それを解消するための前向きな行動につながるから。

立ち上がる気力がない。


前の座席のヤコが、突然振り返った。表情にはいつもより元気がないが、意識的にあかるい声を出すように、オレに話しかけてきた。

「あ、そういえばさ、土曜日はどうする?集合時間とか」

聞かれて少しの間、なんのことだか分からなかった。頭の中で思い当たるフシを整理していいって、ようやく理解した。

──ああ。映画の件か。

その約束はどうでもいいどころか、憂鬱なタスクに成り下がっていた。行きたくない。行ったところで、ただ不愉快なだけの一日を過ごすことになるのは目に見えていた。

「ごめん、最近体調が優れなくて……土曜日までに治るとも思えないんだ。一旦なしにしてもらっていいかな」

そっけない、冷たい対応。ギリギリまで様子を見る気もなければ、日程を再調整する気もない対応。自分がヤコにこんな対応をする日が来るなんて、想像もできなかった。でももう、どうでもいい。ヤコに嫌われても構わない。

オレの言葉を聞いたヤコは、落ち込んだ様子だった。視線が下がり、口元の笑みは消えた。

「そっか……。じゃあ……しょうがないね。楽しみにしてたのに、残念だけど……」

罪の意識が、こみ上げてくる。彼女もきっとツラい状態で、傷ついているのだろう。そんな彼女を、より一層傷つけたかもしれない。彼女の力になるどころか、彼女の苦しみを加速させたかもしれない。

それでも、オレはもうどうでもいいと思った。彼女のことは今でも好きだけど、オレは彼女の隣にいられない。だったら、傷つけてしまっても関係ない。


***


体育館。大量の足音。床のワックスの光沢。

今日の体育の授業は、バスケットボールだ。ハードな勉強の合間に、遊びがてら身体を動かすこの時間を、楽しみにしている生徒は多い。

かくいうオレもそうで、いつもなら率先して加わっていたはずだった。

今日は、全くやる気が起こらない。ボールを追うことに何の意味も感じない。

だから、体育教師に見学を願い出た。体調不良だというと、二つ返事で教師もあっさりOKを出した。進学校の体育教師は物分かりがいい。この学校の生徒の本拠は勉強で、気分転換の体育でケガをさせてもつまらないという判断なのだろう。


体育館の半分を男子がバスケットボールで使い、もう半分は女子がバレーボールで使っていた。ネットで隔てられた先のエリアでは、「来るよ!」だの「任せて!」だの、高い声が飛び交っていた。

その中にはヤコもいた。ヤコは根っからの運動音痴で、体育は大嫌いだ。それでもサボらずにちゃんと参加するのは、彼女の妙な律儀さによるところなのだろう。


見学者は声を出して応援することが推奨されているが、黙って見ていても教師も何も言わない。オレは無言のまま、男子のバスケットボールと、女子のバレーボールを交互に眺める。考え事をするでもなくぼうっとする、空虚な時間が続いた。


「危ない!」

突然、女子の高い声がバレーボールコートから聞こえた。生徒は一斉に、視線を声の方に寄せる。

視線の先で、女子生徒二名が激しくぶつかった。長い黒髪の女子と、茶色のショートカットの女子。長い黒髪の方は、ヤコだ。

茶色のショートカットの方はすぐに立ち上がったが、ヤコは立ち上がらない。意識がないのかもしれない。脳しんとうでも起こしたのだろうか。

意識を失っても無理はないな、と思う。もともと華奢で色白、健康的とは言えないヤコが、今週はあの件で更に消耗していた。顔色はもはや青白いと言ってもいいような様子で、何もしなくても貧血で倒れてしまいそうだった。


やはりヤコは意識がないらしい。保健室に運ぶぞとか、誰か手伝ってくれとかいう声が聞こえる。

立ち上がる気力がない。以前のオレなら心配して真っ先に向かっただろうけど、今はどうでもいい。


事件のせいで男子のバスケも一時中断した。気を利かせた男子生徒が、バスケットボールのコートの横に備え付けられている担架を持ってヤコの方に走った。

──担架。

その言葉に、心がザワザワした。先週、散々聞いた噂と、その発端となったできごとを思い出す。

それでも、オレは動かなかった。全てがどうでもいい。

体育館のツルツルした床に手をおいたまま、様子を見守る。

体育教師と、手伝いに行った男子生徒が二人で手早くヤコを担架に乗せ、運ぶ。体育教師は担架の足側を持ち、男子生徒が、担架の頭側を持った。


立ち上がる気力がない。

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