第5話 短い生涯で、一番長い夜
─先を思うと不安になるから 今日のところは寝るしかないね。
いつだったか、アキラに教えてもらった。人間界で有名なテクノミュージシャンの歌の一節が、頭の中を駆け巡っていた。
吐き気がする。ベッドから起き上がれない。
夕食の準備が整ったらしく、母親がリビングで叫ぶ声がする。反応するのも億劫で、オレは黙ってベッドに横たわっていた。
三回ほど叫んだ後、階段を上がる音。
「ちょっと!聞いてるの?ご飯できたよ!」
少しイライラしながら、母親が食事の完成を告げに来た。なんとか、声を絞り出す。
「全然食欲ないから要らない。今日はもう寝るよ」
「え、風邪?薬持ってこようか?」
「いや、要らない。寝れば治ると思う」
「……ふーん、わかった」
あまり納得のいってない様子だが、母はおとなしく引き下がってくれた。4つ上の兄を育てた経験から、思春期の子どもに無理して立ち入らないという育児術が確立されているらしい。
絶望感だけが全身を支配していた。今日、数学が終わって、ヤコの匂いを嗅いだ瞬間から、非処女の、あの酸っぱいような匂いが、生理的嫌悪感をもたらすあの匂いが、頭から離れなくなった。
最初は大した問題じゃないのかと思った。ヤコが処女を失ったからどうだと言うのだ。彼女の性格は、知性は、美貌は、何も損なわれていない。オレが好きなヤコは、ヤコのままだ。
そう思って休み時間にすぐ話しかけたけど、まともに会話ができなかった。
それは、ヤコの気持ちが沈んでいたという理由からではない。オレの、生理的な嫌悪感があったからだ。会話が弾まない。気持ち悪い。言葉が、頭に入ってこない。
大して中身のある話もできないまま、オレは会話を切り上げることになった。あんなに好きだった彼女の表情を、あれ以上眺めていたくはなかった。
そう、頭の匂いを嗅いでいなければいいというものではない。一度、相手が非処女だと分かったら、生理的な嫌悪感を抱いてしまう。顔を見るだけで、あの酸っぱい匂いを思い出す。
事態は、最初に直感したよりもはるかに、深刻だった。
オレがヤコを嫌いになるはずがない。そう思い、放課後、一緒に帰ろうと誘ってみようかとも思ったけど、とても無理だった。
ヤコの前に出て話しかけようとした時点で、一緒に歩きたくない、という気持ちが湧き上がる。
その人から非処女の匂いを嗅いでしまっただけで、抗いがたい嫌悪の情が湧き上がる。ダンゴムシに生まれてしまった宿命だ。どれだけトレーニングをしても時間が経っても、きっと変わることはない。
「キミの過去がどうであっても関係ないよ。オレはキミが好きだから」と、ヤコに言える男でありたかったし、言えると思っていた。
そんなオレの自信は、完全なただのうぬぼれであることが分かった。
─オレは、これから、ヤコとどういう関係を築いていけるのか。
つまるところ、あの瞬間から、考えなければならない問題はそれだけだった。そして、絶望感の中で、何度も何度もそのシミュレーションを繰り返した。
例えば、「映画館まで、肩を並べて一緒に歩くシーン」を想像する。昨日までのオレなら、少し気恥ずかしいような、ちょっとドキドキするような、でも何か胸が満たされるような、嬉しい気持ちになっていたはずだ。
今はどうだろうか。ヤコと肩を並べて歩く……気分が悪い。近づきたくない。できるなら、その場を立ち去りたい。あんなに好きだった彼女の横顔が、白い肌が、黒い髪が、気味の悪いものに感じる。
そうか。こうなってしまうのか。大好きな女の子がある日突然処女じゃなくなったら、こうなるのか。
思えば、親しかった同年代の女の子が処女を失ったことは、今までに一度もなかった。
だから考えたことがなかった。オレが、その辺の非処女のオバサンに感じている生理的嫌悪感を、好きな女の子に抱く日が来るなんて。
オレは、彼女のことが好きだった。はっきりと自信をもって言える。彼女の知性が、穏やかさが、時折見せる無邪気さが、好きだった。
埃っぽい図書室、ザラザラした木の長机で、隣に座る時間が好きだった。時折ペンを渡し合いながら、ポップを書くのが好きだった。
イラストが描けないと悩む彼女の顔を見るのが、風に揺れる長い髪を見るのが、ほほえむ口元を見るのが好きだった。
一緒に軽口を叩くのが好きだった。本の感想を共有するのが好きだった。いい加減なことを言って諌められるのが、大好きだった。
そんな、彼女に関する全ての美しい場面が、いまや過去のものになってしまった。
たとえ彼女が今まで通りにふるまって、今までと同じように一緒に時間を過ごしたとしても、今のオレは、それは美しいものだとはとても思えないだろう。
気分が悪いと、見ていたくないと判断して、早めに切り上げようとすらするだろう。
─オレは、これから、ヤコとどんな関係を築いていけるのか。
どうしようもない?彼女のことは、嫌いな女だと思って生きていくしかない?
そんなバカなことが、そんな残酷なことがあってたまるか、と思う。
オレは間違いなく、彼女のことが好きだった。性格が、知性が、美貌が、全てが好きだった。
それなのに、ワケの分からない嫌悪感で、生物学的要求で、その好きな気持ち全てを手放さなければならないのか。
「だからさ、人間に生まれたかったなって思うんだよね。目の前の女の子が非処女だったとしても、ちゃんと尊重したかった」
ファミレスで、アキラが言った言葉を思い出す。
ホントウに、今日ほどダンゴムシに生まれたことを呪った日はない。
彼女の全てが好きなのに、彼女を尊重できない。
そんなことがあっていいのか。
悔しい。悔しい。悔しい。
ベッドの上で、同じことを何度も何度も考え続けた。なぜオレたちはダンゴムシなのだろう。大好きな女性を嫌いにならなければならないなんてことが、あっていいのだろうか。
悔しい。悔しい。悔しい。
ベッドの上で何度も何度も転がりながら、夜は更けていく。
一睡もできない。生涯で一番長い夜になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます