第4話 ジグモの巣は、嫌な感じがする
家にいて、特に予定のない日曜日の夕方は、何をすれば良いのか分からない。
何かを始めるには遅すぎる。かといって、何もしないには時間を持て余しすぎる。
部屋にいてやることがないとき、習慣として本棚を見渡す癖がついている。本でも読むか。ぼうっとしているよりはずいぶんましだろう。
読みかけの本はなかったか、と本棚を見渡していると、カバンに入れっぱなしの小説のことを思い出した。そうだ。水曜日、図書委員の仕事の日に、ヤコを待ちながら読みかけた小説があった。
あの日、映画の誘いにOKをもらえた喜びと、家に帰っていくヤコの動作の残響に浸るうちに、小説の存在をすっかり忘れていた。
カバンを探ると、すぐに見つけた。本のちょうど真ん中あたりに栞が挟んである。開いて、読みかけのページの文字を追い始める。
文字を追いかけながら、時折、ヤコを映画に誘ったあとの光景を思い出していた。あの時の石畳のコツコツとした足音を、微笑む彼女の唇を、克明に思い出せる。
ヤコは、今何をしているのだろう。映画に誘ったときに「今週の土日は用事がある」と言っていた。今頃はその用事の最中なのだろうか。それとも、もう終わっているのか。
小説は、まるで進まなかった。目は文字を追っているものの、本には全く集中できない。文章の意味を取りそこねて、何度も同じ箇所を読み直してしまう。
母親が食事に呼ぶ声がする。いつの間にか、夕食の時間になったらしい。オレは、ほとんど進まなかった小説をベッドに投げ捨てた。結局、日曜の夕方はムダにしてしまったようだ。
このままだと夜もムダにしてしまいそうだ。どうせヤコのことを考えてしまうのなら、夜はデートコースのことでも考えることにしよう。映画の前後に立ち寄れる場所なんかを調べよう。そのほうが生産的だ。
***
月曜日の朝、同じ学校に登校していくものたちの、重い足取り。みんな月曜日は憂鬱だというが、オレは案外嫌いではない。
土日で多めに眠って、体力が十分蓄えられている。今日は天気も悪くない。雨がちでずっと雲が出ている予定だ。学校では眠くならないだろう。退屈な化学や数学も、今日はマジメに向き合えるような気がする。
そして何より、月曜日の"楽しみ"がある。
教室に入ると、何名かのクラスメイトが挨拶してきた。テキトウに挨拶を返しながら、自分の席に向かう。
前の席のヤコは既に自分の席に座っていた。
「おはよう」
カバンを席に置きながらそう声をかけると、ヤコは少しビクッとした。そんなに強く置いたつもりでもなかったけど、ビックリさせてしまっただろうか。
「あ、おはよ……」
返事に元気がない。それに、目の下にクマができている。明らかに様子のおかしいヤコに、聞かずにはいられない。
「あれ、元気ないね。どうしたの?」
「うん。ちょっと色々あって、眠れなくて……」
「そっか。なんか相談あれば聞くよ」
「ありがと。ちょっとまだ整理できてないから、また必要になったら言うね」
「分かった。いつでも気楽にな」
あまり、深入りしないほうがいいのだろう。異性の悩みを無理に話せというのも野暮な感じがする。このくらいの声かけをしておくのが、オレにできることの妥当なラインという気がした。せいぜい、後ろから静かに見守っておこう。
ヤコの様子がおかしいせいでなんとなくオレまで落ち着かない気持ちがありつつも、時間割に応じて、ノートを取ったり問題に答えたり、実験をこなしたりした。
昔、読んだ本に書いてあった。「何か落ち着かない大きな問題を抱えていたとしても、様々な雑務はやってくる。成長すればするほど、大きな問題に対処しながら、同時に目の前の問題もこなさないといけない。その訓練の場として、学校は最適である」と。これはホントウにその通りだと思う。学校生活というのは、そんなことの連続だ。気になることは一旦意識の外においておいて、それぞれの教科に集中する。
ヤコも、必死でそれをやっているように見えた。大きな悩み事はあれど、やらねばならない学校生活をすこしずつこなしている。
ただ、悩み事は結構深刻なようで、いつもの彼女らしくないミスもいくつかあった。英語の時間に簡単な設問を指名された時は設問を聞いておらず答えに窮していたし、実験のときも器具の扱いを誤って時間をムダにしていた。
そして、そんな様子を彼女の間近で見る内に、オレも何か言いようのない不安に取り憑かれはじめた。なんだろう、この不安は。まるで今まで享受していた幸せが根こそぎ剥がされていくような、信じていた価値観が根底から覆されていくような、そんな不安がある。こんな感覚は初めてだった。
今までも度々、ヤコのことで精神が落ち着かないことはあった。昨日は小説の筋に集中できなかったし、先週はいかにヤコを映画に誘おうか悩んで丸一日を使ってしまった。
でも、そんな今までの”落ち着かなさ”と、”今日の不安”は種類が違う。今までの落ち着かなさは、擬音で言うなら「ドキドキ」だった。不安もあるしネガティブな想像もあるけど、基本的にはポジティブにとらえられるものだった。
一方、今日の不安は、擬音で言うなら「ゾワゾワ」だ。「嫌な予感」という表現でも良いかもしれない。怖い。何か絶望的な、あまりにも絶望的なものが待っている気がする。
***
「それはまあ、いわゆる第六感というものだろうね」
昼休み、オレの心に取りついて離れない不安の話をすると、アキラは興味深そうに、そう言った。
「ただの直感だから、気にするほどのことじゃない、ってこと?」
「いや、第六感って科学的な根拠がある場合が多いんだよ。例えば【ジグモの巣】がある場所ってなんとなく嫌な感じがしない?」
「あ、分かる!こっちの道はなんか嫌だなと思ってその先をよく見たら、その道の先にジグモの巣があったりするわ」
ジグモ、すなわち、地面と建物の壁の間に巣を作るクモは、ダンゴムシの天敵だ。うっかり前を見ないで歩いていてジグモの巣に引っかかると、大抵は助からない。脱出は困難だし、引っかかった状態だといとも簡単にクモに食べられてしまう。
だから、子どもの頃はとにかく親に言われたものだ。「ジグモの巣には気をつけなさい」と。
でも、小さな子どもの頃はともかく、最近は全く意識せずとも避けられるようになった。ジグモの巣がある一帯は、なんとなく嫌な感じがするのだ。普通にしていて、ジグモの巣に近づいてしまうことはまずない。
「だろ。でも、じゃあなんでジグモの巣が嫌な感じがするか説明できる?」
「そう言われても……なんとなく嫌だからとしか言いようがないよ」
「その通り。でも、実は色々な微小な感覚が作用しているんだって。ジグモの巣は風によってほんの少しずつ破壊されていて破片を撒き散らしている。そのごくわずかな破片の見た目や匂いや感触を、オレたちは無意識に感じ取っているんだって。もちろん、はっきり感じ取れるほど明確じゃないから「破片が見える!」なんてことはないけど、”なんとなく嫌な感じ”として意識に現れる」
「なるほど、それが第六感の正体ってことか」
「そう。意識にのぼらないレベルの小さな感覚こそが第六感だ。まあ、既存の五感に分類できない未知の感覚器があるっていう説もあるけど、オレはそうだとは思えないね」
そこまで話して、アキラは自分が弁当を全然食べていないことに気づき、慌てて食べ始めた。このペースで食べていたら昼休み中に食事が終わらないことに気づいたんだろう。
「まあそれは良いとして、じゃあオレは何ができるんだよ。ジグモの巣が何となく嫌な感じがするのは近づかなければいいんだけど、今回のオレは不安の心当たりがまったくないんだよ。対策できないじゃないか」
「まあ、なるべく早くその不安の理由を解明して、未然に避けられる事件は避ける、それしかないよな」
答えに満足してないオレの表情も、一切意に介さないようにアキラは飄々と言う。もっと明らかな答えが欲しいオレは、畳みかけた。
「だから、その不安の理由を解明したくてお前に相談してるんだろ」
「それは分からんな。ま、特に不安を感じさせる対象があるなら、それに近づかないとか、その周りを注意深く見ておくとか、そんな感じがいいんじゃないかな」
「ヤコに近づくなって?」
「そうは言ってないさ。大体、今のお前の話だとヤコちゃんが原因だともはっきり分からないしな」
アキラは悪びれずに答えるが、じゃあなんの解決にもなりゃしないじゃないか。
「ううん、一般論として第六感の正体っぽいものはわかったけど、結局何をしたらいいのかは分からないままだな」
「学問ってそんなものだよ。なんとなく答えらしきものは見つかるけど、それを机の外に持ち出すのは簡単じゃない」
アキラは、これまた悪びれずに言った。達観しているな、と思う。同い年とは思えないほど、アキラは達観している。諦めがついている、というべきかもしれない。
「現実は、モヤモヤしたままか」
「そのモヤモヤが何なのかは、お前が探るしかない。どうってことないよ。何しろお前の感覚器官は、微小な感覚を確かに得ているんだ。あとはお前がそれを言語化すればいい。嫌な感じの場所を注意深く見て、ジグモの巣を発見するようにね」
「わかったよ。ありがとう。注意深く考えながら午後をすごすことにするよ。授業始まるから自分のクラスに戻るわ」
「おう。じゃあな」
漠然とした悩みを聞いてもらう相手がアキラしか思いつかず、オレは違うクラスのアキラの教室まで押しかけてしまっていた。
何なのか分からない不安も、アキラに話すとだいぶマシになった。ありがたい友だちだなと改めて思う。
悩み事は、聞いてもらっただけでも心が軽くなる。もしヤコの悩み事もそういうタイプのものであれば、聞いてあげられればいい。そんなことを考えながら、廊下を歩いた。
***
午後一番、5時間目にある数学は、全然集中できなかった。
昼休みにアキラと話したことが脳裏をよぎる。この不安の正体を、見つけることができるだろうか。
例えば不安の正体が、アキラが挙げていたジグモの巣のようなものなら一大事だ。オレはこの大きな不安の原因を突き止めないと、死ぬことになるのかもしれない。
そこまでいかないにせよ、大きな被害を受けたりするかもしれない。一刻も早く、解明したほうが良いだろう。
そんなことばかりが頭を渦巻いて、先週に引き続き延々と繰り広げられる数列の話は、ほとんど頭に入らずに終わってしまった。
「じゃあ、また来週」
数学教師がそう言い、生徒は礼をする。授業の度に行われる儀礼を終えると、ヤコが大きく伸びをした。
ああ、そういえば今日は月曜日だ。今日は謎の不安のことで頭がいっぱいで、週に一度の楽しみのことをすっかり忘れていた。
そう思ったのと同時に、オレは事実を知り、衝撃に震えることになった。
今日一日オレを苦しめていた不安と、ヤコのおかしな様子、全ての謎が一気に解ける事実。できるなら、知りたくなかった事実。
「ヤコの匂い、非処女の匂いだ」
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