第2話-ダンゴムシの非処女は、絶望的にモテない
「うええ〜!ちっちゃいおばさんがぶつかってきて思い切り頭の匂い嗅いじゃった。食欲なくなるわ……」
学校からほど近いファミレス、いつもの席に、アキラが嫌な顔をしながらトイレから戻ってきた。
ダンゴムシの世界では、非処女は驚くほどにモテない。非処女とセックスしようというオスは、実に少ないのだ。
その理由が、「メスは体内でオスの精子を大量に保存する」という生態にある。
メスは産卵するときに、体内に保存された精子から子どもを作っていく。だから、非処女とセックスしたとしても、前のオスの精子が使い切られない限り、自分の子どもを生んでもらえない。
だから、処女とセックスしようとするオスのほうが圧倒的に子孫を残しやすい。進化論の理屈から言っても、オスの遺伝子は非処女でなく、処女とのセックスを求めるわけだ。
……と、理屈を話すとそういうことなのだけれど、オレたちからするとそんな理屈はどうでもいい。オレたちの身体は生理的に非処女を受け付けないようになっている。それが、あの非処女の頭皮からやってくる、酸っぱい嫌な匂いだ。
あの匂いを嗅ぐと気分が悪くなる。まして、そんな相手とセックスするなんて、とても考えられない。
ごく一部、非処女の匂いがたまらなく好きだというヤツもいるらしいけど。マニアックなヤツというのはどこの世界にも存在するものだ。
「ドンマイ。今後は、ちっちゃいおばさんには気をつけるべきだな」
苦虫を噛み潰したような顔で対面の席に座ったアキラに、オレはテキトウなアドバイスをした。
「いやいやいや、あの匂いの抑制は、ちっちゃいおばさん側でどうにかして欲しいもんだね。人間の世界には、【香水】って概念があるらしいぞ」
「香水?なにそれ?」
「体臭が強い人間が、自分の体臭を隠すために匂いの強い液体を身体にまとうんだそうだ。非処女のダンゴムシも、ぜひ香水をつけて欲しいもんだね」
アキラは、よくこういう突拍子もないことを言う。口がうまくて調子のいい男だが、単に軽薄なワケではない。着眼点が独特で面白い。
かなりの進学校であるウチの高校の中でも、抜群に勉強ができるし、異常に見識が深い。特に人間社会について興味があるらしく、人間についての知識をかなり蓄えているようだ。
「オレ、将来香水を作って売る会社を立ち上げようかな。【人間界では常識!】とか何とかキャッチコピーつけたらめちゃくちゃ売れそうだし、世界企業になるんじゃねえかな」
調子のいいアキラは、よく「将来、◯◯で世界的に有名になってやる」なんてことを言う。でも、彼の明晰な頭脳と独自の着想があれば、案外ホンモノの有名虫になれるかもしれない。
「お、この新作の枯れ葉サンド、美味いな。いい感じに腐敗が進んだ枯れ葉だ」
香水の話を一通り終えて満足したらしいアキラは、新作メニューの味に感心が移ったようだ。夢中でサンドを食べ進める。
オレたちは、学校終わりによくこうして寄り道をする。オレにとって、アキラはほとんど唯一と言っていい、同じ学校の親しい友達だった。
進学校である石の下学園は、育ちのいいエリートが多い。彼らはみんな悪いヤツらじゃないんだけど、少し退屈だ。
ちゃんとした教育を施されたエリートは、社会的におかしな行動や、問題になる発言をしないようにフィルターがかかっている。もちろん、それは良いことでもあるんだけど、しばしば刺激のたりなさを感じるのだ。
だからオレはアキラと話すのが好きだった。アキラは極めて成績優秀なのに、エリートらしからぬ歯に衣着せぬ発言を躊躇しない。今の「非処女は香水をつけろ」も、場所によっては大いに問題になる発言だろう。
大物と言うべきか、アホと言うべきか。
いずれにせよ、オレはそんなアキラと話して、刺激をたっぷり受けるのが好きだ。オレも、アキラほどではないけど、刺激的な発想や発言が好きなんだろう。
オレたちはエリートばかりのウチの学校の連中からなんとなく距離をおいて、ふたりでつるむことが多くなっていった。
「そういえば、2組の藤沢は非処女らしいな」
アキラの選んだ続いての話題は、同じ学年の女子のことだった。一週間ほど前に、オレたちの学年で大いに話題になった内容だった。
「らしいね。なんで分かったんだっけ?」
「あいつバスケ部だろ。バスケやってる途中に他の選手とぶつかって足を怪我してタンカで運ばれたんだってよ」
「あ、タンカの頭側を持ったのが男だったんだ」
「そう。隣のコートでバスケしてた男子バスケ部のキャプテンが慌ててタンカを持ってきたんだって。そのまま頭側を運んだらしいよ」
「なるほどねえ…。それはしょうがねえな」
女が男に頭の匂いを嗅がせるのは品位に欠けることであるとされているが、社会生活を営む上で完全に匂いを嗅がせないのは難しい。
また、「男が女の性交経験の有無について語るのは下品で、好ましくない」という風潮もあるが、やはりこれも完全に機能しているとは言いがたい。虫の口に戸は立てられない。
したがって、まれにこういうことが起こる。誰かが非処女になったという噂は、あっという間に広がるのだ。
「相手は誰なんだろうな」
アキラは、性的な内容もはばからず口にする。世間を流通する倫理観よりも、自分の知的好奇心を優先する、アキラらしい態度だ。
「見知らぬ男にレイプされたって聞いたぜ」
「オレもそう聞いたけど、ホントウだか分からないよな。貞操観念のなさを非難されるのを避けるための方便じゃないか」
ダンゴムシの世界は、女の貞操観念が非常に強い。そりゃそうだ。多くの女は、一生にひとりの男としかセックスしないのだから。
──セックスを許すのは、結婚相手だけ
そんな風潮が、ほとんど鉄の掟と言ってもいい強さで世間に染みついている。未婚のダンゴムシの女は、密室で男とふたりきりになることすら全くしない。強い強い貞操観念を持っているべきとされている。
ましてや、高校生の内にセックスを許してしまうなんてありえない、それが世間の見解だ。だから、責任をとらない男と関係を持ってしまった女はしばしば「見知らぬ男にレイプされた」という言い訳を使う。
そうすれば、他の男と結婚するのは相当難しいにせよ、貞操観念のない女として周りから冷たい扱いを受けるのだけは避けられる。
「でもさ、おかしいと思わないか。なんで女の貞操観念だけが問題になるんだろう?セックスして責任を取らない男こそ責められるべきなんじゃないか?」
噂が広がった後にすれ違った、藤沢の悲しげな顔を思い出しながら、オレは疑問を口にした。
「処女を失ったらほぼ結婚できないというリスクを負っているのは女性だから、女性がストッパーになれ、というのが成り立ちなんだろうな」
「うーん、納得行かないな」
考えれば考えるほど、理不尽なルールだな。そんなのってフェアな社会じゃないんじゃないか。グラスについた水滴をいじりながら、社会の不条理に思いを馳せる。そんなオレの顔を見ながら、アキラはクスクス笑った。
「何がおかしいんだよ」
思わず突っ込むと、アキラはお得意の人間界の話を持ち出してきた
「人間界には【フェミニスト】っていう集団がいるんだ。女性差別を撤廃して、女性の権利を広げよう、みたいな運動をする集団のことなんだって」
「へえ。そんな運動があるんだな」
「で、最近はフェミニストがやたらと何にでも牙を剥いているらしいんだ。ホントウに些細なことでも、これは女性差別だ!!って怒るんだって。世界的なイベントの女性キャラクターのヘソが出てるか出てないかとかで、大のおとなが怒ってるらしいよ。今のお前の様子を見て、そんな話を思い出しちゃってさ」
そんなアキラの発言を聞いて、オレは思わずムッとする。
「さっきのはそんなしょうもない話じゃなかっただろ。セックスは相手の男がいるものなのに、責任の所在を女にだけ背負わせるのはどうなんだという話だよ」
「悪い悪い。分かってるよ。最近聞いた人間界のフェミニストの話があまりに面白かったから、思い出しちゃっただけ。オレも全く同感だよ。結婚してないならセックスするべきじゃないし、その責任は男もしっかり背負わないといけない」
やれやれ。話はめちゃくちゃ面白いんだけど、茶化したような話し方をしてしまうのがアキラの悪い癖だ。
飲み物を口に含みながら少し考えて、ふと気になった。
「なあ、人間界でそんなにフェミニストが過激になってるなら、今のオレたちみたいなセックス事情じゃないのかな?未婚のままセックスしちゃう人は存在しないのかな?」
「バカ。違うよ。生物の授業ちゃんと聞いてるのかよ。人間は、というかほとんどの哺乳類のメスは、精子を体内に蓄えられないんだ。だから、処女か非処女かはあんまり重要じゃない。メスは直近でセックスしたヤツの子どもを生むからね」
「……そうか、じゃああの非処女の耐え難い匂いみたいなものも人間にはないのか?」
「そうだろうね。ほとんどのメスは生涯で複数のオスとセックスするらしいから」
「すごい世界だな……想像もつかないや」
「人間に生まれればよかったな、オレ」
アキラの発言に、オレは思わず目を丸くした。こいつ、何言ってるんだ。
「人間に?お前、人間がオレたちに何をしたか知らないワケないだろ?この街だって、オレたちが生まれる少し前に人間の子どもが破壊して、ようやくここまで復帰したんだぞ。人間を憎みこそすれ、人間になりたかったなんて……」
「落ち着けよ。確かにオレたちの親世代なんてほとんどアレルギーのように人間を嫌ってるし、オレたちもそれを刷り込まれて生きてきたんだけど……研究すればするほど、人間は面白いよ」
「どういうところが?」
「今言ったこともそうさ。ほとんどのメスが、生涯で複数のオスとセックスする。非処女からも、嫌な匂いなんてしない。そんな世界なら、もっと自由に恋愛ができると思わないか。いや、恋愛に限らない。社会自体が、もっと自由になると思わないか」
確かに。もし複数の相手とセックスができる世の中なら、きっともっと適切な結婚相手を選ぶことができるだろう。非処女の、あの嫌な匂いがない世の中なら、もっと色々な女性の色々な側面を知ることができるだろう。
「オレは正直、仲のいい女の子が非処女になったら、仲良くし続ける自信がない」
アキラが発言を続ける。オレも、その気持ちは痛いほど分かる。
「そうだな。オレもその自信はないよ。もしクラスの仲いい女子の頭の匂いをある日嗅いで、非処女の匂いだったら、嫌悪感が湧いてきてしまう。もちろん、それ以降は匂いを嗅がないように気をつけるけど、嫌悪感はずっと胸の中にあるだろうからな。笑顔で会話ができるかどうかは、全然自信ねえな」
そんなオレの発言を聞いて、アキラは満足げだ。「だろ?」と言いたい顔をしている。
「だからさ、人間に生まれたかったなって思うんだよね。目の前の女の子が非処女だったとしても、ちゃんと尊重したかった」
アキラの目は、さっきアキラにぶつかったおばさんに向けられていた。あんな憎まれ口を叩いていつも飄々としているアキラだけど、実は誰よりも悲しみを抱えているのかもしれないと思った。
ファミレスの食べ慣れたメニューが、今日はなぜか喉を通りにくかった。
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