日陰で生きていくということ-ダンゴムシたちの特殊な性と愛

堀元 見

第1話-処女の匂いと、非処女の匂い

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ダンゴムシ─学名はArmadillidium vulgare。英語では、Pill BugともRolly Pollyとも呼ばれています。

日の当たらないところを好み、日中は日陰に隠れている、日陰者です。

そんな彼らの性の特徴は人間とは違っていて、恋愛のルールもずいぶん違うのです。

本作はそんな、ダンゴムシの世界の恋愛ドラマを描いた小説です。

***


あいにくの快晴が続いている。

まだ残暑が厳しい9月。我々ダンゴムシにはよくないことに、今年は晴れが多い。

湿度が下がると、身体が乾く。一日中頭が冴えない。学校になど出てこず、ずっと寝て過ごしたい。

3時限目の終わりの挨拶をするやいなや、オレは机に突っ伏した。


「寝てたらまずいよ。次、実験だから移動しないと」

真っ暗になった視界の外から、そんな注意の声が飛んできた。そうか。次は化学で、実験室へ移動が必要なのか。

「オレ、めんどくさいからいいわ。実験データだけとっておいて。ここで寝てる」

顔を上げるの面倒で、机に突っ伏したまま返事をした。実験は4人一組の班で行われるから、オレ一人くらいいなくても大丈夫だろう。

「そんなワケにはいかないでしょう。今日は作業量多いからみんなで手分けしないと終わらないよ。ほら、起きて」

彼女にそう言われると弱い。仕方なく頭をあげて、目をあける。黒くて長い髪が、真っ先に視界に飛び込んできた。

オレの1つ前の席に座っている女生徒-ヤコは、真っ白な肌と真っ黒な髪が対照的な少女だ。細身の身体と細いフレームのメガネが、いかにも昔風の文学少女という雰囲気を醸し出している。

「はーい。準備するよ」

ヤコに言われると大体のことに従ってしまうオレは、今回も睡眠を即座に切り上げて、実験ノートと教科書を持って移動の準備をした。


私立石の下学園は、比較的理系に強い進学校だ。「受験で点数が取れる教育ではなく、学問に迫る教育をする」をスローガンにしており、化学や物理では普通の高校よりも実験がかなり多い。

実験レポートのチェックも相当な力の入れようで、実験データがちゃんとしていないと、実験のやり直しを食らうことすらある。

だから、実験はみんな油断できない。ましてや、この学校には珍しい文系志望のオレとヤコは、理系科目が周りより苦手だ。気を抜いているとすぐにやり直しになってしまう。

そんな背景があって、ヤコは今オレの隣でいつもより足取り重く廊下を歩いている。

「はあ〜。4時間目に実験があって、5時間目に数学があるって……。月曜日、最悪じゃない?ただでさえ休み明けでやる気が起こらないのに、時間割が重すぎるよ……」

「そうだね。時間割見直して欲しいよな」

と、返事をしながらも、オレは全面同意というワケではなかった。実験はヤコと同じく憂鬱だが、5時間目の数学はちょっとした楽しみがあるから。


***


「したがって、この場合の無限等比数列の和Snを求めるには、公比である3を両辺にかけた3Snを用意して〜〜」

数学教師の声は虚しく耳と頭を素通りしていく。つまらない。無限等比数列の和、求める機会は一生ない気がする。

一般的なダンゴムシはいつ、無限等比数列の和を求めるのだろうか。

退屈に耐えるのにも限界になってきた頃、救いのチャイムが鳴った。長い長い数学の授業が終わる。

今までぐったりしていたオレも、背筋を正す。一日の最大の楽しみの瞬間が訪れるからだ。

終業の挨拶をして教師が出ていくのと同時に、前の座席に座っているヤコが、大きく伸びをした。体重はほとんど背もたれにあずけて、頭は首の可動域いっぱいまで上を向く。

オレの視界は彼女の頭頂部と、そこから伸びる長い髪でいっぱいになる。同時に、漂ってくる匂い。

シャンプーのいい匂いと、頭皮の甘い匂い。処女の匂いだ。

この匂いを嗅ぐ度に、オレはドキドキしてしまう。オレが、前の席の女の子、ヤコを好きになった理由だ。


オスのダンゴムシは、メスの頭の匂いから、処女か非処女かを判断することができる。

処女の頭からは、甘くていい匂いがする。一方、非処女の頭からは酸っぱい嫌な匂いがする。

この処女の頭の匂いを嗅いで、グッとくるオスも多いと聞く。

でも、オスに頭の匂いを嗅がせるのはあまり上品な行動ではないから、ほとんどの女子はそうそうやらない。

ヤコももちろんそうで、普段は男の顔のそばに自分の頭を持っていくことなどしない。

ただ、唯一の例外はこの月曜日の5時間目の数学が終わった瞬間だ。4時間目の化学、5時間目の数学という、文系脳の我々に取って驚くほど緊張を強いられる時間を終えた瞬間、彼女はほっとして、無意識に大きな大きな伸びをする。

頭を、後ろの席のオレに思い切り投げ出して。


この月曜日の密かな楽しみを、オレは誰にも言っていない。ヤコはもちろん、親しい男友達にも言っていない。なんとなく後ろめたい気がして、自分の胸にだけしまってある。

誰にも言わない、自分だけの楽しみだ。


ヤコが頭を上げる。長い黒髪が、頭に合わせてゆるやかに動く。黒髪の光沢の残像が、いつまでも視界に焼き付いていた。

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