バニラの香水
暁烏雫月
甘い香りの正体は
本当に何気ない些細なこと。だけど、いつからか気になり始めたこと。……
この匂いがバニラの匂いに近いってことはわかってる。だけど、体臭がバニラの匂いの人なんていないわけで。となると――。
「香水?」
間抜けな声が耳に入ってから初めて、心の声が漏れたことに気付いた。
多分香水なんだと思う。だけど、男性で香水をつける人なんてあまりいない。まさか、他の女の人が付けてた香水とか?
想像してから身震いした。一瞬でも浮気を考えたなんて、情けない。でも、ここまで来たら疑問を解決しなくちゃ納得出来ない。
香水で誤魔化すほど体臭とかじゃきつい、とかじゃないんだよね。だって隼人の体臭は香水とは違うけどいい匂いだもの。……色々思い出したら恥ずかしくなってきたけど。
隼人は午前中仕事だし、留守の間に探すしかない。自分の意思で付けてるなら、家に香水の瓶があるはずだもの。そうと決まれば……。
「どうか、嫌な予感が当たりませんように」
願いを口に出してから、家中をくまなく探すことにした。
隼人からほのかに香る甘い匂いは、初めて会った時からあった。最初は隼人特有の香りなのかなって思ってた。だけど、その匂いはシャワーに入ればたちまち消えちゃう。だからきっと、体臭じゃないんだた思う。
女の人が付けていた香水の匂いが移ったんだとしたら、隼人は結婚する前からその人に会っていたことになるよね。でももしかしたら他人から移った匂いだとしても、その匂いの元が職場の人の可能性もあるし……。
隼人は何も話してくれない。仕事のことはあまり話さないでくれるし、アメリカに行ってた時のこともあまり話さない。それが私が聞かないからなのか、隼人が話したくないからなのかはわからないけど。
いつか夢に見た光景が頭を過ぎる。
隼人は私なんて知らないフリをして、別の人と相合傘をしているの。その指には私の知らない結婚指輪があって。隼人は私の元には帰ってこなくて。
もしかしたら私に優しくしてくれるのは浮気してるからとか?
私と結婚したのは、気になってる人が無理だから仕方なく?
こういう時、隼人の携帯でも盗み見れたら違うのに。証拠が何もないって分かれば安心できるのに。もちろん、人の携帯を見ることは悪いことだってわかるけど。でも、それでも不安な気持ちは抑えられないんだよ。
新居は広すぎず狭すぎずのマンション。二人でお金を出しあって、ローンを組んだ。数字を思い出しただけで気が遠くなりそう。
随分思い切ったことをしたなって、今なら思う。何が起こるかわからないからって、節約しながらの生活だけど、不思議と辛くはなかった。
二人で使ってる寝室。風呂場と洗面所。リビングとリビングに併設されたキッチン。隼人と私、それぞれのプライベートルーム……。
「あれ? 無いなぁ」
家の中で考えられる場所は、時間の許す限り全部調べた。だけど香水の瓶はもちろん、香水を使っている形跡すらない。
他人が付けてる香水の匂いが移ったとか、かな。だとしても、アメリカに行く前から同じ匂いがしてたから……四年くらい前からその人と会ってるとか?
いやいや、まだなんの確信もない。隼人が帰ってきたら思い切って聞いてみよう。なんなら、シャワーを浴びてる間にこっそり携帯を見ちゃおう。
「よし。……あ! 夕飯の支度してない!」
香水の捜索を諦めて時計を見てみると、すでに午後四時。探す事に夢中で、買い出しはもちろん、家事すらしてない。
急いでスマートフォンを取りだした。まだ帰ってこないで。そう思いながら見てみるけど――。
『今から帰るよ』
ちょうど隼人からの連絡が来たところだった。可愛らしい猫のスタンプが「帰るね」と告げている。どうしよう、買い物をしても支度が間に合わないよ。
夕飯もまともに用意出来ないなんて、奥さん失格だよね。どうしよう。私、今度こそ本当に捨てられるのかな。帰ってきた隼人が呆れた顔で、「実は前から用意してあったんだ」とか言って離婚届を出してきたらどうしよう。
探す前に家事をするんだったと後悔しても、もう遅い。隼人になんて説明しよう?
理由は隠して、夕飯の支度を忘れたことを伝えた。怒られるかなと思ったけど、隼人からの返事はあっさりとしてた。
『なら、せっかくだし外食しようよ。美味しいお店を見つけたんだ』
「せっかくだし」って何よ。自分は……いや、まだそうと決まったわけじゃない。隼人は浮気なんてしない。しないんだから。
つい感情的になるのは私の悪い癖。いつだったか、気持ちを口に出さなくて喧嘩したこともあったっけ。同じことだけは避けたい。
隼人はどういう経緯でそのお店を見つけたんだろう。いつも隼人からバニラの香りがするのはどうしてだろう。
よくない考えが頭を過ぎる。浮かんできた思いをかき消すように、少し乱雑にクローゼットを開けた。
会って、話そう。疑問に思ったことは抱え込まないで聞こう。そうすれば解決する。大切なことを言葉にしないで苦しむのはもう嫌だ。時には勇気を出すことも大事だって、隼人を好きになった時に知ったもの。
バニラの香りの正体が知りたい。だけど、真相を知るのが怖い自分もいる。本当に、私って昔からこういう時に覚悟が足りないよね。情けない。
「あぁ、その答えならこれだよ」
駅の近くで待ち合わせ。だけど、隼人の顔を見て真っ先に口に出たのは、隼人から香るバニラの匂いについてだった。
開口一番にこんなこと聞かれて、嫌だよね。私が悪いってわかっているけど、謝る勇気はない。だって、浮気してたとかだったら嫌だもん。私は、性格の良い大人しい女性ではないから。きっとひどい顔をしてるんだろうな、私。
私の目の前で、隼人の手がスーツの外ポケットへと伸びる。
「
「持ち歩いてるの?」
「うん。結構忘れっぽくてさ。瓶ごと持ち歩けば忘れないかなーって。たまに、瓶を出し忘れてクリーニングに出すこともあるけど」
「ど、どうして香水なんか?」
「うーん。それは、歩きながらでもいい?」
相変わらず人混みの多い駅の改札口付近。そんな人混みに掻き消されるように、だけど私達にはっきりと聞こえるように。互いのお腹から情けない音が鳴った。
隼人が道中で予約したというレストランに向かって歩きながら、香水についての話を聞くことになった。心配なら、と自分のスマホを私に託してその中身を見せながら。
隼人のスマホの履歴はそのほとんどが仕事のものばかり。あとはご家族の連絡先くらい。メールの内容も仕事関係ばかり。
「昔、転勤する前は営業の仕事をしてたでしょ? それでさ、その時に……」
隼人は元々は営業職だった。そのせいで土日が出勤になることも多くて。忙しさのあまりスーツをクリーニングに出し忘れることもたくさんあったんだとか。そんな状況の中で、隼人は考えたらしい。
「ほのかにいい匂いがすれば、相手に好印象なんじゃないかなって。ずっと外回りで、契約取らなきゃいけないでしょ? 少しでも結果が出ればって、始めたのがきっかけなんだ」
お客さんの中には喫煙をする人もいる。男性も女性もいるし、成人しているとはいえ年齢層もバラバラ。万人に好かれる香りとして考えたのが、バニラだったらしい。人騒がせな匂いね。
「甘すぎない、爽やかな甘さだったらいいかなーって。それで選んだんだよね。今じゃ、つけない日がないくらい気に入ってるけど」
「浮気かと思った」
「それは酷いな。三年もアメリカで我慢したのにさ」
つい本音が口に出れば、隼人が口を尖らせる。そういえば離れていた三年の間、隼人は浮気一つしてなかったらしい。本当かは知らないけれど。なんて、つい疑っちゃうのも私の悪い癖。
機嫌を取るわけでもなく、その手に指を絡めた。隼人の指が私の手を指を、優しく握り返す。
「……疑って、ごめん」
「いいよ。疑いたくもなるよね。色々あったの、知ってるから。ほら、美味しい物食べて元気出そう!」
「そんなにあっさり……」
「納得いかないなら……今晩、俺が満足するまで美穂を食べさせてもらうけど?」
小さな声で謝ったら、私の指に隼人の指が絡みつく。言葉の意味を理解するのにそんなに時間はかからなくて。太陽みたいに眩しいその笑顔と突然の誘い文句に、頬に熱が集まるのを感じた。
バニラの香水 暁烏雫月 @ciel2121
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます