終わりに

終わりに

数日後。久留里駅に出勤してきた由紀子は、いつも通り駅の掃除を開始した。田舎駅なので、朝の通勤ラッシュと言っても、さほど人が来るわけでもない。朝の一つか二つの電車に数人のる程度で、あとは、文字通り暇になってしまう。今日もその二つの電車を送り出した後、また暇人になって、とりあえず駅の中に戻る。

駅の中に、ほとんど人が座らないで、使われることのないベンチが設置されていた。その下には、緑色に塗られた、木製の床が貼られていた。まあ、目のいい人でなければちょっと色が濃くなっている箇所があることに気が付くことはないと思う。とりあえず、かろうじて、似たような色があってよかったなあと思ったが、でも、今見ると、なんだかある歌に書いてあった、「思い出の傷」と同じような気がしてしまう。とりあえず、似たような色の塗装ペンキを近隣のホームセンターで買って来て、表面だけ塗りなおし、後日別の色に塗りなおそう、なんて考えていたのだが、今は塗りなおす必要もないなと思うようになった。

と、いうか、塗りなおす必要はない、ではなくて、塗りなおしたくないというのが正確なところである。誰も気が付いて指摘をする人がいないから、なんて単なる言い訳にすぎず、本当の理由はたぶんこれ。好きになった人をいつまでも忘れたくはないからだ。あそこにある、好きになった人がつけてくれた足跡、正確に言えば血痕を、消し去ってしまうのは、なぜかとてもつらい作業であった。

その気持ちもあって、いつまでもそのままにして、今日も駅員業務を続ける由紀子であった。

そして、また昼食を食べて、次の電車が来るまで、だれも人が来ない駅事務室でぼんやりしていると、

「すみません、駅御中で小包が来ているんですけどね。いったい誰が送ってきたのかな。駅にこんなものを送ってきて、果たして何になるんだと思うんですが、まあ、とりあえずこちらとしましても、お届けはしなければなりませんので、受け取っていただけないでしょうか。」

へ?と思って、由紀子は、駅事務室を出た。めったにやってこないというか、この地域ではなかなか見られない、宅急便の配達員がやってきたのである。配達員は、丁寧に包装された箱を一つ持っていた。

「駅にこんなものを送りつけるなんて、どういう神経の人なのかわかりませんが、とりあえず会社としましても、お届けしないといけませんので、、、。」

頭をかじりながら、そう弁解している配達員。

「いったい誰が?」

思わず由紀子は聞いたが、

「いや、影山杉三と書いてあるんで、多分個人的なものだと思うんですが、駅に当ててこんなものを送るなんてどういうことですかねえ。」

由紀子もおかしなものが来たなあと思って、思わず、内容物の欄を見る。何かと思って読んでみると、

「洗剤?」

であった。

直感的に、彼女の感覚が何か変わった気がした。

「わかりました、ありがとうございます。ちょっと駅の床を汚してしまいまして、その掃除に必要だったので、私が取り寄せたんです。その名前は、私が知り合った、清掃会社の経営者です。」

まあ、適当にそういってごまかし、受取サインをして、由紀子は箱を受け取った。

「あ、そうですか。そういうことだったんですか。まあ、駅員さんが必要な物であれば仕方ありませんね。はあ、びっくりしましたよ。ま、でも理由が分かったので、次の配達がありますから、これで失礼します。」

過疎地域なので、都会に比べると、さほど急ぐ必要もないのか、配達員はのんびりとした顔で去っていった。

そのトラックが完全に姿を消したのを確認すると、由紀子は駅事務室へ戻って、箱を机の上に置いた。送り状を見てみると、送り主の名は影山杉三であり、ずいぶんと模範的な文字で書かれている。住所から判断すると、静岡の富士というところから送ってきたものである。富士なんてどこにある町なのか、由紀子は見当もつかないが、あの時の二人が、話していた地名であることはすぐに思い出した。と、いうことは、あの二人が送ってきたということである。由紀子は何のためらいもなく、包装紙をほどいて、箱を開けた。中には、ただのスーパーマーケットで入手できるような、気軽な洗剤ではなく、もっと高級なものが入っていた。とりあえず英語でsoapと書かれているので、石鹸であることは間違いないが、ほかに書かれている注意書きなどはまるで読めなかった。対象物に直接つける、霧吹きタイプのものだが、かわいらしいピンクの瓶で、単に石鹸として実用的に使うだけでなく、駅の窓辺にインテリアとして置いておけそうな感じもあった。

箱の中にはそれだけではなく、茶封筒も一枚入っていた。封を破ってみると、いわゆる檀紙で作られた便箋に、毛筆で書かれた手紙と、数万円のお金が入っていた。手紙を読んでみると、謹啓、先日はおぞましいことをしてしまってもうしわけなかった、という謝罪の言葉から始まって、弁償として同封した現金で、塗料でも買い、駅の床を塗りなおす足しにしてくれれば、という内容の文句が書かれていた。たぶん、高級な塗料でないと、すべて塗りなおすのは難しいと思うから、と、配慮する記述もあった。さらに、久留里線に乗車することができてたのしかった、二度と会えないと思いますが、どこかで思い出にしてください、という記述を読んだ時には、本当の意味で一期一会になってしまうのだということも、なんとなく予想することができた。自分の恋もおしまいになってしまうのか、という悲しい涙が出て、封筒がにじんだ。最後になりますが、体に気を付けて、駅員を続けてくださいね、久留里の湧き水、いただけてうれしかったです、ごちそうさまでした。という記述は、読むより先に涙が出て、読み切ることはできなかったという、情けなさ。結びの言葉である敬白が、涙で消えてしまったくらいだ。

でも、磯野水穂という署名ははっきり記憶した。

よし、駅の痕を残すのではなく、こちらの文句のほうを大事にしよう。個人的なことで駅を汚してしまうのはやっぱりいけない。と由紀子は思いつき、後でもう一度、塗装ペンキを買いに行き直すことを決める。

ちなみに、手紙の記述によると、とりあえず、あの二人は自分が案内した高速バスアクシー号で木更津駅に戻って、予定通りに木更津駅前のホテルで宿泊した後、翌日に特急さざなみを使って東京駅に戻り、新幹線に乗って富士へ帰って行ったようだ。特に帰路でも困難はなく、まっすぐに帰ることができたらしい。今回は特に、大掛かりな観光地を巡ったわけではなく、大まかな観光といえば、この久留里線に乗っただけしかなかったようだが、それだけでも自然が沢山あって、のんびりしたところでしたので、充分楽しめました、とも書かれていた。こんな田舎電車が、充分楽しめたと評価されたのは、生まれて初めてだったから、駅員としてちょっと、照れくさいところもある。

たぶん、こういうお客さんが来てくれるのは、二度とないだろう。一期一会とはそういうことだから。きっと私は、またパー線と呼ばれて、高齢者か電車マニアしか相手にできない、つまらない電車の駅員として生きていくのだろうと思われる。世の中、そう簡単に変わっていくことはないから。だから、あの二人が来てくれたことを大切にしよう。もし、駅員業務がいやになったら、あの二人を思い出して頑張りなおそう。いつの間にかそういう思いになっていた。

だから、頑張らなくちゃ、これからも。

そう思い、時計を見上げると、次の電車が到着する時間が近づいて来たことがわかる。

よし、いくか。と由紀子は駅員帽をかぶる。

たぶん、だれも人は乗っても来ないし、降りても来ないだろうなと予想できるのであるが、なぜか、年取った気動車を、待つのが楽しみになっている由紀子だった。

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本篇12、くるくるくるりん 増田朋美 @masubuchi4996

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