新釈・食わず女房

胤田一成

第1話新釈・食わず女房

 むかしむかしのお話です。

 福島藩のとある山村に甚五郎という名の青年がおりました。彼は百姓でした。世が摂政関白殿から征夷大将軍殿へと移り行き、年貢米の出納もそれに伴い激しく揺れ動く中、この青年は生来の恭謙さと生真面目さで文句の一つも口に出さず、毎日せっせと鍬を手に取り田畑を耕す、よくできた男子でございました。

 周りの百姓仲間たちはそのような働き者で清廉潔白な甚五郎に、「早く嫁を娶れ」と口を酸っぱくして説得しましたが、甚五郎は容易には首を縦に振りません。それどころか、「俺のような水飲み百姓のもとに来る嫁子が可哀想だ。そうだなあ。米を食わずにいられる女ならそれに越したことはないんだがなあ」と瓢々と誤魔化しては百姓たちの助言を聞き流すのが常でございました。

 百姓たちは、この甚五郎の頑なまでの態度に次第に反感を覚えるようになりました。なぜなら彼らの多くは妻帯者であったからでございます。同じような水飲み百姓である彼らは、甚五郎の言い分に痛いところを突かれた気分になりました。

 清廉潔白の者のあまりの理路整然とした物言いが、かえって聞く者の心を卑屈な心持ちにさせるということは度々ございます。百姓たちもその例に漏れず、甚五郎のお上に対する愚直なまでの恭謙さを目の当たりにして、自分たちがのうのうと生きているということを、暗に示されているような気分がし、心持ちを悪くしたことは想像に難くありません。甚五郎は百姓仲間たちから見離されるようになっていきました。いわば、彼の美徳が、人々をして遠ざけていったのでございます。これは仕方のないことでありました。百姓たちにとって、甚五郎はどこか眩しすぎたのでございます。完璧なものを目の当たりにすると、かえって首肯しきれず、つい粗を探してしまう―あの不可思議な現象が甚五郎の身にも起きていました。

 甚五郎はたちまち、けちという烙印を押され、百姓たちから野暮な人として疎まれるようになりました

 甚五郎は決して馬鹿な人間ではありませんでした。自分が嫁をとらないから、かくも寂しい思いをするのだ、と承知していました。しかし、やはり自分のような、今日を生きるのに精一杯な卑しい身でありながら嫁を娶る、ということはとてもではありませぬが考えられませんでした。

 甚五郎は漠然とした、とらえどころのない孤独を胸に抱きながら、これもまた「お上」というどこへ運ばれるのか皆目見当もつかぬ米を耕すために、不安を拭い去るかのごとく、手をまめだらけにしながら、重い鍬を振るい続けるのでした。


 その年の梅雨は早梅雨。甚五郎の住む粗末な小屋の近くを流れる河川はかさを増したのか、ごうごうとした音を立てています。また、濡れた叢から逃げ出すように、奇妙な形をした蟲がごそごそとした足音を立て跳梁跋扈しておりました。

 小屋に敷かれた筵は湿気を帯びて、乏しい囲炉裏の火が甚五郎の粗末な衣服をジリジリと乾かしておりました。あばら家のすきま風が炉の灯火を揺らすので、剥げかけた土壁の上をぬらりぬらりと陰影が舐めまわすような晩のことでございます。甚五郎はゆらりゆらり

と揺れる炉の灯火を眺めながら、うつらうつらと舟を漕いでおります最中、戸口の外から女の声がするではありませんか。

「もし…もし…」

 甚五郎は少なからず戸惑いました。このようなもの凄いまでの夜の中、戸口一枚隔てて女が立っている。狐狸にでも化かされているのではないか、慎重になったのも無理がありません。甚五郎は安易には顔を出さず、立て付けの悪くなった頼りない引き戸越しに女らしい人物に語りかけました。

「ご婦人、こんなもの凄い夜に一体どうしたね。連れはいないのか」

 返事は即座に返ってきました。

「はい…実は故あって独り旅をしている者でございます。折から降り始めた長時化に当てられて困っていたところでございます。もしよろしければ、今宵一晩の逗留をお願いしたく存じ上げます」

 甚五郎は躊躇しましたが、女の物腰しの柔らかさと、彼の生来の優しさがたたり、とうとう女が可哀想になって、引き戸を持ち上げるようにして、やや開きました。

 見ればそこには妙齢の世にも美しい女が寒さに震えて、張り付いた衣服もそのままに思案げな顔つきをして佇んでおるではありませんか。甚五郎は女の束ねられた豊かな黒髪、ほっそりとした物憂げなうりざね顔、この世のものかと訝しむほどの白い玉の肌、ぽってりとした赤い唇に、一目で心を奪われてしまったのも仕方の無いことでございましょう。それほどに女は美しかったのでございます。

 甚五郎は兎にも角にもこの女を雨ざらしにしては置けぬと思い、自分の住むあばら屋の内へと招き入れました。女も幾度も礼をしながら甚五郎の小屋の内へと招かれました。

 すると突然、甚五郎は頬が赤く染まるのを感じました。あばら屋は見るのも耐え難いほどの男所帯じみたものであったからでございます。甚五郎は初めて自らの卑しさを心から恨みました。

 「すまぬが、ここで貴女をもてなすことはできません。見ての通りの水飲み百姓、夕餉も先程済ませてしまった。貴女の口に入るものは何もありません。ここより数軒行くとも少しマシな家がある。どうか、そこで泊まらせて貰うわけにはいかまいか」

 甚五郎は赤面して、恥をしのびながらそんなことを言いました。甚五郎が恭謙な男であったことは先ほど申し上げましたが、この時ばかりは女を手放したくないという思いと自身の卑しさを怨む気持ちがごっちゃになり、自分でもなぜそこまで面を赤くしなくてはならんのか、理由が分からないのでございました。甚五郎はこの日初めて恥を意識したのでございます。

 女は彼の仔細をしげしげと見ていたかと思うと、ころりころりと鈴の鳴るような声で笑い出しました。

 「すみません。あまりに可愛らしいお方だと思ったことでございますから…。私の名はお米と申します。貴方様の正直さに私は惚れました。どうかこの長梅雨が明けるまでこのお家に逗留させては頂けませんか。朝餉、夕餉の類は一切頂かなくても結構ですので、どうかこの家に置いてくださいませ」

「飯はいらないと仰りますか」

「ええ、結構ですわ。だからそんなに畏まらないでくださいまし」

 甚五郎はこのにわかには信じ難い申し出に飛びつきました。彼の孤独を癒してくれる存在ができただけで、甚五郎は満足でした。

次の日から、甚五郎は浮き足立って重い鍬を振るうようになりました。女は何もいらないと言いましたが、彼の女になにか美味いものを食わせてやりたいという思いが、彼の胸を占めていたのでございます。


 甚五郎が野良仕事を精一杯行っている間、女は如歳なくあばら屋の掃除と修繕をこなしました。煤けた囲炉裏は見事に磨かれ、水を吸った筵は女の起こした火で干され、甚五郎のまとう野良着も繕われ、時には少ない銭を握りしめ幾里もの道を歩み、魚や貝などの海の幸を買いに出ることすらありました。

 仁後藤は今までにない幸福な生活を送るようになりました。しかし、かような幸せな生活の中でも甚五郎には少なからぬ不安を抱えておりました。

 女はあの雨の晩、確かに飯はいらないと甚五郎に告げましたがー彼の知るところでは、あの晩以来ー女は一口も飯を食べていないのでございます。張りのあるうりざね顔もすっかり頤が細くなりーそれがまた妖艶な色気を醸し出してもいたのですが、水ばかり飲んでいるせいか、その気色に似合わず唇だけは吸いつきたくなるほど、しっとりとした湿り気を保ち、玉のごとき白い肌も、その痩せ具合に反して、さらに磨きあげたような潤いを呈するようになりました。苦しみの瀬戸際にありながら美しい容貌を保ち続ける女の姿は一種蠱惑的でもありながら、また、当然、痛々しい印象を見る者に与えずにはいられないものでございます。甚五郎はなんとしてもこの女に飯を食わせねばならぬと決意しました。


 端午の節句の晩のことでございます。甚五郎は櫃にいっぱいの米を炊き女が用意していた魚を焼きました。

「さあ、今日はめでたい日だ。うんと飯を食べるといい」

 甚五郎は女に微笑みかけてそう告げました。しかし、女は容易には首を縦に振りません。甚五郎は怒ってみせました。

「俺の耕した田の米が食えないというのか。一体、何が不満なんだ。お前は精一杯俺に報いてくれた。俺にはお前に報いる機会をくれないというのか」

 女は目尻に湛えながら首を横に振るうばかりです。

「もういい。この米も魚も無駄になってしまった。お前が食わぬというなら金輪際、この家に逗留させておられまい。すぐにでも出て行ってもらおう」

 甚五郎は肩をいからせながら、女が立て替えた引き戸を乱雑に閉めると、女を残して外へ出てしまいました。


 天井裏にヤモリのようにして這いつくばる男が一人おりました。その正体は甚五郎でございます。甚五郎は怒ったフリをして月明かりに照らされながら外へ出ると、そのまま家の後ろに隠してあったハシゴを駆け上り、この天井うらへと這い入ると、女の様子を天井裏に空いたかすかな穴から観察していたのでございます。

 女は長い間、さめざめと涙を流しておりましたが、何かを決意するように顔を上げると、束ねていた豊かな黒髪を一期に解いてみせました。そこにあったのは一筋の紅い切れ目でした。甚五郎は声を押し殺してその様子を仔細に見守っておりました。切れ目は縦にくわりと避けたかと思うとその虚を顕わにしました。それは巨大なひとつの口でございました。白い歯が並び、粘着質な涎を垂らす穴でございました。

 女は櫃の中の米を両手で掴むと、その後ろ頭についた穴ー口の中に押し込むようにして米を食べ始めました。女は涙を流しながらみるみるうちに米を押し込んでいきました。櫃の米がなくなると、今度は焼き魚をひょいとつまみ、またもや後ろ頭についた口の中にほおって入れ、咀嚼してみせました。女は終始泣いておりました。甚五郎にはその涙の理由が自ずと伝わってきました。女は男と離別したくなかったのです。たとえ異形なものとはいえ、女は確かに甚五郎に惚れていたのでございます。さすればこそ、このように痩せ細るまでに食を断ち、己と男を騙しながらも共に生きてきたのでございましょう。

 甚五郎は静かにハシゴを降りると、戸を開き、女の前に歩み寄りました。女は豊かな黒髪を解いたまま袖で顔を隠し、静かに涙を拭いました。

「お米、全て見せてもらったぞ」

 甚五郎は言いました。

「いかにも、私は山に住む妖でございます。これも神のお告げ、いつかはこうなる宿世であったのでございましょう」

 甚五郎も涙を流しておりました。彼もまたこの女をば心底愛していたからでございます。

「お米、もし良ければ俺も共に山に連れて行ってはくれまいか。俺はお前と離れることができない。俺もお前と山で生きていくことにするよ」

「それはなりません。里の者は里に。山の者は山に帰るのが道理でございます。貴方様を山に連れていくことはできません」

 甚五郎は床にぬかづいて頼みました。彼の頬にも、また涙の跡がさえざえと残っていました。

「どうか、俺を山に連れて行ってくれ」

「どうしてもと仰るなら、連れていきましょう。しかし、貴方様は里をー人を捨てることになるのでございますよ」

「構わぬ」

 女は立ち上ると、家の隅に置いてあった桶を軽々と持ち上げてみせると、甚五郎の前に置きました。そして、「どうか、この中へお入りください」と甚五郎を急かすようにして促しました。直き夜が明けようとしていたのです。甚五郎は於けの中へ入り、女の力とは思えないような勢いで背負われると、女は一目散に甚五郎のあばら屋を飛び出ていきました。

 甚五郎は逞しい力に抱かれ、安心し切ってうつらうつらしていました。好いた女に抱かれながら眠りに落ちるような心地よく、甘美な微睡に耽っていると、突如、「山姥だぞ」という怒声に、現へと引き戻されました。先程まで韋駄天の如き速さで走っていた女が急にぐらつき始めました。甚五郎は桶の中で何があったのか分からず、ただ、「お米、お米」と呼びかけるばかりでした。それからどれほどか経ったころでしょう。突然甚五郎は桶の外へと放り出されました。こけつまびろずしながら甚五郎は女に近づくと、その両腕に女をかき寄せました。

「お米、お米」

 女は胸から下にかけて真紅の血で真っ赤に染まっておりました。乳ぶさには一本の弓矢が刺さっておりました。甚五郎は女を抱きかかえると、何度も名前を呼びかけました。女は汗ばんで、しっとりとした両の掌で、甚五郎の頬を愛おしそうに柔らかに撫でました。

「これも神のお告げでございます。山の者は山へ。里の者は里へ。私はこの山で死ねることを幸せに思います」

 生い茂る菖蒲と蓬の草原の中で、女は命を落としました。甚五郎の慟哭は冷々と雨露を残した草原の中へと吸い込まれるようにして消えていきました。 

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