第36話 津森さんが、赤くしているんです

 僕は千羽の居酒屋で働きはじめた。チェーン店で、覚えることはマニュアル化されている。それほど難しい作業はなかった。もちろん、ミスは何度もしたけれど、同じミスをしないように気をつけていれば、大変なことにはならない。働くまでは本当に怖かった。けれど、一度働いてみると、意外と簡単だった。なんだ、こんなものか、と思えた。


 社会に出るということを、僕は難しく考え過ぎていたのかもしれない。これから何十年も、ずっと、牢獄のような世界で生きていくことになるのだ、と漠然と思い描いていた。自分のための時間などを取ることができず、仕事に身を捧げ、老人になるまで働く。そんな世界を想像していた。けれど、そうではない。もちろん、そういう生き方もあるだろう。でも、僕は違った。単なるバイトの身分なので、まだ社会に出たばかりだけれど、ちゃんと自分の時間をつくることができた。


 そのような生活がはじまって、もう二ヶ月が経過した。季節はすっかり夏である。


 休憩時間、控え室で、僕はひとりでぼんやりと座っていた。会話のなかには入れない。人と話をするのは苦手だった。一対一でならば話せるが、複数人になると聞き役になってしまうことが多い。居ても居なくても変わらない。それならば、ひとりで何かを考えているほうが好きだ。僕は、そういうタイプの人間だった。そうすると、遅れて休憩に入った津森さんが、こちらに近づいてきた。僕の隣の椅子に腰を下ろす。


「どう? 仕事は慣れた?」

「はい。そうですね。まだまだ未熟ですが、なんとか」

「服、なかなか似合ってる」津森さんは僕を見て言った。

「ありがとうございます」


 津森さんは微笑んだ。


「いつまで敬語なの? わたしたち、同級生なのに」

「わかりません。ずっと、こうでしたから。楽なんです」

「そう。まあ、それなら良いけど」津森さんは言った。「晶くんって呼んでいい?」

「お好きにどうぞ」少し嬉しい。

「わたしのことは、津森さんって呼びつづけるつもり?」

「そうですね」僕はうなずいた。「つかささんって、言いづらいですからね。『さ』の音がつづくから」

「そうかも」津森さんは微笑む。「つかさちゃんは?」

「ええ、それなら、呼びやすいかもしれません」

「呼んでみて」

「つかさちゃん」思い切って言ってみた。なんだか恥ずかしい。

「顔、赤くなってる」津森さんは僕の顔を見て微笑んだ。


 僕と津森さんは早上がりだった。環さんのバイトが終わるのは、あと二時間後だ。環さんは、千羽さんと一緒に帰って、今日は彼の家に泊まるらしい。


 仕事終わりに、ふたりで夜の街を歩いた。駅まで、のんびりと進んでいく。蒸し暑い夏の大気に、虫の鳴き声が響く。


「今日、晶くんの家に泊まって良い?」津森さんが言った。

「僕は良いですけど」津森さんのほうを見る。「良いんですか?」

「うん。たまには良いかなって」


 すでに津森さんは家を引き払っている。いまは、環さんと一緒に住んでいた。環さんも、僕の部屋で過ごしていたり、千羽さんの部屋で過ごしていたりと自由である。すでに、僕も環さんも部屋を引き払って、N駅の近くに共用の部屋を借りることが決まっていた。いまの部屋で過ごすのも、あと一週間である。


「晶くんは、その、わたしと、エッチなことってしたい?」


 その衝撃的な質問に、答えるのは至難の業だった。


「いえ、べつに……」僕の思考はフリーズしていた。「そういうわけでは」

「そうなんだ。環ちゃんが、そんな風なこと言ってたから」


 大いなる誤解である。


「ずっと、わたしのことを好きだったって本当?」

「ええ」正直に答えることにした。「高校生の頃から、ずっと、あなたのことが好きでした」


 僕みたいな人間が、津森さんのことを好きになるなんて、気持ち悪いかな、と思った。


 少なくとも、普通ではない。


「なんか、不思議だね」津森さんは言った。「昔のわたしだったら、たぶん、絶対にお断りしてたと思う。友だちにはなれたかもしれないけど、一緒に暮らしたりとかは、無理だったんじゃないかな。どうしてだろう? いまは、全然、嫌じゃない」

「学生の頃は、普通であることに大きな価値がありました。皆に嫌われないよう、普通に生きなければならなかった。でも、大人になって、自分の自由を獲得して。普通であることには、なんの意味もないのだと、気づけた。そういうことかもしれません」

「そうだね。普通じゃないね」


 そういって、津森さんは僕の手を取った。

 また思考が停止する。暑い。いや、熱い。

 いったい、どういうことだろう。


「顔、赤くなってる」

「津森さんが、赤くしているんです」


 最近、津森さんは僕を照れさせることを趣味にしている。悪趣味な人だ。


「わたしなんかの、どこが良いの?」と津森さんは尋ねた。

「顔ですね」即答した。

「顔だけ?」津森さんは言った。「なんか、それって、ちょっとさびしいかも」

「性格は知りませんでしたからね。でも、一緒に過ごす時間が増えて、津森さんのことを少しずつ知っていって。良い人だということがわかりました。僕の人生の、すべてを捧げても良いくらい」

「なにそれ。プロポーズ?」


 僕は立ち止まった。駅の近くだった。夜の遅い時間帯ではあるが、まだ人通りは多い。


「僕は、一生、あなたのことを幸せにするために生きていこうと思います」


 正式なプロポーズだった。婚姻などは不要だ。

 ただ、僕が、そう決めたというだけのこと。


 津森さんは、笑顔だった。


「わたしを幸せにするだけじゃなくて、晶くんも幸せにならないとダメだよ」


 津森さんは、何もわかっていないのだな、と思った。


 僕は、あなたの隣にいられるだけで、幸せなのだ。


 顔を見ているだけで……話ができるだけで、幸福を感じられる。


 そう、いまの僕は、幸せなのだ。


 迷いなく、そう言うことができた。

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