第35話 誰よりもやさしい人間

 僕を除く四人の会話は、五分ほどだっただろうか。

 車から皆が降りてくる。

 一番先に僕のほうへ歩いてきたのは、環さんだった。


「中華って好き?」彼女は僕に尋ねた。

「そうですね。酢豚とか、エビチリとか、いろいろ好きですよ」

「毎日、残りものを食べてたもんね」

「どれだけ食べても飽きません」

「そうかもね」環さんは言った。「不思議だよね。毎日食べてるのにさ。また、こんなところまで来て、中華料理を食べるなんて」

「佐賀は、はじめてですか?」

「うん。わたし、修学旅行は北海道と、沖縄だったし。九州に足を踏み入れたのは、はじめてかな」


 環さんの考えでは、沖縄は九州には入らないということだろうか。


 五人で店のなかへ入った。店員に五名だということを告げると、すぐに奥の部屋へ案内された。この店は、ひとつの家族につきひとつの部屋を提供するタイプの中華料理屋らしい。大きなテーブルがあった。壁際に、環さん、僕、津森さんの順で座った。ドアに近い側に、千羽さんと知瑛子さんという並びだ。


 注文して、すぐに料理が出てきた。どれも味は美味しい。


「うちの店で出してるやつより美味いな」と千羽がつぶやいた。

「本格的な中華だし、仕方ないですよ」津森さんが言った。

「もうちょっと、料理長が頑張ってくれたら良いんだが……」


 僕は、居心地の悪さを覚えていた。


 今日は佐賀で一泊していく予定だったが、ひとりで帰ってしまっても良いかもしれない。夜までに福岡へ辿り着くことができれば、東京行きの夜行バスか何かが出ているだろう。大阪でも良い。一度、実家へ戻って、自分の生活を立て直そうか、とも考える。


 しばらく食事がつづいた。十五分ほど。


 僕は、満腹度が八十パーセントを越えそうになったので、セーブすることにした。美味しかったし、もう少し食べたかったけれど、これ以上食べると、体調が悪くなってしまう。


「もう食べないの?」隣で環さんが言った。「少食だよね」

「まだ食べられますけど、我慢します」

「ダイエット?」と微笑む。

「そういうのじゃなくて……。お腹いっぱいになると、気持ち悪いじゃないですか」

「そう? 満腹のほうが、食べたぁって気がして、良くない?」


 僕は、満腹状態を気持ちの悪いものだと認識している。環さんは、まだまだ胃袋に食料を詰めこむようだ。その動物じみたシンプルさが、羨ましい、とさえ思う。


「さて、さっき車のなかで話し合ったんだけど」千羽さんが不意に言った。

「僕、席を外したほうが良いですか?」部外者は立ち去るべきか、と思った。

「いや、僕たちは、きみのことを話し合ったんだ」

「え?」予想外の言葉だった。「えっと……皆さんの御邪魔なら、もう帰りますけど」

「そうじゃない」千羽は微笑む。「赤瀬さんも、一緒に暮らさない?」


 言葉を理解するのに、少し時間が掛かった。耳に入ってから、遅れて理解される。構文自体は簡単だ。けれど、その意図が読めなかった。


「遠慮します。僕なんかがいても、邪魔なだけですから」

「そうかな?」千羽は僕の眼をじっと見ていた。「きみは、つかさちゃんとも、環ちゃんとも仲が良いじゃないか。三人で、支え合って生きていくというのは、無理かな?」

「僕は、支えられるばかりです。他人を支えられるほど強い人間じゃありません。皆とは違って、働いていないし……。そもそも、働くということに、向いていないんです」

「試したことはある?」

「いえ、ありませんけれど……」

「じゃあ、うちの店で働いて欲しい。正式なスカウトだ。きみなら、すぐに仕事を覚えられるさ。話していてわかったけど、頭も良い」

「他人とコミュニケーションを取るのが苦手なんです。居酒屋なんて、とても無理です」

「大丈夫だよ。騙されたと思って、働いてみない? 一週間だけでも良いから」

「いえ、申しわけないのですが……」

「あのね」環さんが言った。「つい最近、ひとりバイトを辞めちゃった人がいてさ。その欠員補充で、ちょっとの間だけでも、お願いできない?」

「申しわけございません」僕は同じ言葉を繰り返した。

「つーちゃんとわたしを、幸福にするんじゃなかったの?」


 それを言われると辛い。

 僕は助けを求めるように、津森さんの顔を見た。


「やってみたら?」と津森さん。「意外と、似合うかも」

「そんな……困ります」

「頼むよ。お願い」そういって、千羽は頭を下げた。

「ええ、いえ、そんな、顔をあげてください」僕は言った。「わかりましたから」

「ありがとう」千羽は、すぐに顔をあげて、にっこりと微笑む。「よし。そういうことで、決まりだ」

「一週間だけですから」僕は抵抗してみた。


 しかし、千羽は僕の言葉を無視して言った。


「知瑛子も、すぐに東京へ引っ越してくる、というわけにもいかない。知瑛子の仕事の関係もあるし、娘、ちづるが来年の春で小学校を卒業するから、それまでは佐賀だ。知瑛子たちが引っ越してくるまでは、店の近くに家をふたつ借りて、ふたりずつで住もうかという話になった」

「はぁ」僕だけが話をきかされていない。よくわからない。「ふたりずつというと、どういう割り振りですか?」


 なんとなく、僕と環さん、千羽と津森さんという組み合わせではないか、と感じた。


「それは、たぶんローテーションを組むことになるだろうね」さらに千羽は言う。「そして、知瑛子とちづるが東京に引っ越してきたら、広めのマンションをふたつ借りるか、一軒家を買うか……」

「すごくお金が掛かりますね」僕は言った。

「そう。だから、働かないと」千羽は僕を見る。「でもね、いま、皆が別々に家賃を払っているよりは、状況が改善される。いま、僕は十万の家賃を払ってる。きみたちは、どれくらい? 六万とか、七万とか、それくらいだろう? 二部屋に分けるだけで、随分と家賃が減らせるし、光熱費や食費なんかも抑えられる。きみの考えた、共同生活をするというアイディアは、考えれば考えるほど、悪くない」

「欠点もありますけどね」僕は言った。「自由が減ること。それから、人間関係がダメになったときが、一番問題です」

「自由が減ることに関しては、仕方がない。でも、自由を失っても、その代わりに得られるものがある。僕には、人間関係は、それだけの価値があると思う」千羽は、そのことを信じているようだった。「人間関係は、ダメになるかもしれない。他人との共同生活は、たしかにストレスになるかもしれない。でも、複数人だからこそ支え合うこともできるんじゃないかって思うけど。どうだろう」

「わかりません」

「そう、わからない。だから、やってみるしかない。ダメならダメで、またそのとき考えよう。ひとまず、期間限定、お試しという形でやってみて、いろいろ問題点を見つけて、少しずつ修正していけば良い。無理なら計画自体を変更する。これしかない」


 すでに、全員が食事を終わっているようだった。そろそろ店を出る時間だろうか。


 僕は、最後にひとつ尋ねた。


「本当に……僕なんかが皆さんと一緒にいても、良いんですか?」

「ダメなわけないでしょ」環さんが言った。「あんたが誰よりもやさしい人間だってこと、わたしたちは、皆、知ってるんだから」


 皆が微笑んでいた。

 不覚にも、鼻の奥がつんとして、目頭が熱くなった。


 僕は自分をやさしい人間だとは思わない。けれど、他人にそう錯覚してもらえるというのは、悪い気分ではなかった。


 もともとの僕は、もっと残忍で、冷酷で、そして自由を愛する人間だった。最近は、少し変わってきているのかもしれない。死のうと思って、津森さんと会って。そして、環さんと同じ時間を過ごすうちに、少しずつ、僕は変わっていたのだ。きっと。


 まだまだ、人生は長い。どうなるかわからない。この荒唐無稽な計画が、うまくいくとは到底思えない。でも、真っ暗なトンネルの先に、ぼんやりと、薄い明かりが見えたような。そんな気がした。

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