第34話 ああ、やっぱり……僕は、あそこには要らない存在なのだ

 喫茶店を出て、知瑛子さんの運転する車に乗った。僕は中列に座った。助手席に座るほどの勇気はなかった。


 僕は車の車種について詳しくないが、ミニバンと呼ばれるタイプの車ではないかと思った。メタリックの黒いボディをしている。三シートだった。車内は広い。香水の匂いがして気分が悪くなったので、断ってから窓を開けた。


 佐賀駅から車で三十分のところに水族館があるらしい。なぜか、そこへ行くことになった。もう少し喫茶店で話をしていても良かったのだが、十二時を回った瞬間、多くの客がやって来て、店内がパンク状態になった。そういうわけで、僕たちは店を後にしたのだ。


「なんだか、よくわかりません」運転をしながら、知瑛子さんは言った。「結局のところ、智弘さんは、何を考えているのですか? わたしと離婚したいの? それとも、浮気の許可を欲しいの?」

「僕は、千羽さんではないので、彼が何を考えているかは知りません」僕は正直に思ったことを答えた。「けれど、僕が考えていることはあります」

「あなたは、何を考えているの?」やさしい声だった。


 赤信号で車が止まる。バックミラー越しに、知瑛子さんと目があった。


 それから僕は、千羽さんにしたのと同じ説明を、知瑛子さんにもした。ひとりの男を、シェアする話だ。今回は、二人ではなくて、三人のバージョンで行った。そのようなことを、現在の妻に話すのは失礼なことかもしれない、と途中で気づいた。けれど、一度話はじめてしまったものは、止められなかった。話の終わりのほうで後悔した。もっと、千羽さんに上手に説明してもらうべきだった。拙速だった。


「それは、あなたが考えたの?」

「はい。そうですね」

「つまり……東京で、広い家を借りて、四人で暮らすの? その、津森さんと、高鳥さんと」一瞬、ミラー越しに、僕の顔を見る。「わたしと、智弘さんで?」

「そうですね。失礼な話だったかもしれません。けれど、これは、悪いアイディアではないと思います。一対一の関係は壊れやすい。言い争いになったとき、仲裁をしてくれる人がいませんから。でも、三人になれば話は違う。お互いに、それなりに仲良くやっていけるのではないか、と考えます。皆、僕が観察する限り、いい人たちばかりです」


 ふと、知瑛子さんが微笑んでいるのが、ミラー越しに見えた。


「あなた、ひとつ大事なことを忘れています」知瑛子さんは言った。「わたしには、娘がいるんですよ。そのことを、考えていますか?」

「なるほど」僕は愚かだ。すっかり、そのことを忘れていた。「そうですね。ええ、うっかりしていました」

「同じ家に、わたし以外にふたりの女性がいて、娘は、どう思うでしょう」


 僕は、あなたの娘さんではないのでわかりません、とは言えなかった。


 そうか、そういうことも考えなければならないのだ。人を幸福にするのは難しい。


 しばらく無言の状態がつづいた。エンジン音だけがきこえている。そのまま、車は駐車場へと入っていった。野ざらしになった広い駐車場だ。東京では、こんなに広い駐車場は滅多にないだろう。


 二人で車から降りて、少し離れたところにある水族館へ向かった。はたして、僕と知瑛子さんは、どのような組み合わせに周囲から見えているのだろう、と一瞬だけ考えた。


 チケットを買い、水族館の園内に入ったところで、知瑛子さんが言った。


「智弘さんは、長崎の出身なんです。結婚する前は、何度も、この水族館に来ました」

「そうですか」

「さきほどのお話、面白かったです」知瑛子さんは言った。「現実離れしていて、荒唐無稽でしたけど。でも、面白いのはたしかです」

「ありがとうございます」どうやら、怒ってはいないようだ。

「でもね、そんなおかしな関係、世間の人たちは認めてくれないでしょう?」

「認められる必要があるでしょうか」これは、僕の基本的な思想だ。「自分たちが幸せならば、それで良いのでは?」

「周囲に認められることを幸せだ、と感じる人もいると思います」

「そうですか」僕は言った。「僕は違います。他人からどう思われようと気にならない。どうだって良い」


 いままで、ほとんど他人とつきあってこなかった。そのことが、僕という人格を形成している。だから、現実離れした、普通ではないアイディアを思いつくことができる。常識というものを持ち合わせていないのだ。それは長所でもあり短所でもある。


「知瑛子さんは、周囲の人の視線が、気になりますか?」

「そうですね。わたしは、あなたよりも、ずっと古いですから」

「十年くらいしか違わないでしょう?」

「精々、五年ですよ」一瞬、むっとした表情を見せた。そして、すぐに微笑へ戻る。「それに、五年も違えば、全然違います。常識も、考え方も、何もかも」


 僕にはわからなかった。たぶん、僕と同世代の人間だろうと、僕よりも若い世代の人間だろうと、僕の提唱する新しい家族というものは、理解してくれないのではないか、と思える。もちろん、上の世代の人間は、もっと理解してくれないだろうけれども。


「あなたは、若いですね。良いですね」

「若い人がお好きですか?」ジョークを言ってみた。

「老人よりは好きです」思わず吹きだしそうになった。「さっきから、あなたの話をきいていて、考えていたんですけれど」


 そういって、知瑛子さんは僕の顔をじっと見た。


「あなたは、どうされるのですか?」

「どうもしません」僕は答えた。「僕は、完全なる部外者です。どこか遠くで、できれば近くで、皆が幸せな姿を見られたら、それで良い。そういう風に生きようと決めたんです」

「誰かと一緒に暮らしたいとは思わない?」

「わかりません」僕は言った。「基本的に、ひとりが好きなのはたしかです」


 それで会話は終わった。僕たちは水族館をぐるっと回った。幾つかの建物があって、野外ではペンギンのショーもやっていた。そのショーが終わると、すぐにイルカのショーがはじまる。イルカのショーは、どこの水族館で見ても同じだ。高く飛んで、輪っかをくぐったり、高い位置にあるボールを鼻でついたりする。そして、立ち泳ぎを見せてくれたりする。どこで見ても同じなら、インターネットで動画を観るのと同じではないか、と思えた。わざわざ、この水族館まで来る意味が、何かあるのだろうか。そういうことを考えているのは、僕だけかもしれない。


 水族館の大半を見終わって、そろそろ出ようかというとき、携帯端末に着信があった。画面を見ると、千羽さんからだった。


「千羽さんからです」僕は知瑛子さんにそう言って、着信ボタンを押した。

「赤瀬さん? いま、どこにいるの?」と千羽の声がきこえてくる。

「知瑛子さんとふたりで、水族館にいます。駅から三十分くらいの……」

「あぁ、あそこか。いまから、そっちに向かうから。ちょっと待っててくれる?」

「もう来られるんですか? お仕事は?」

「予想より早く終わって、タイミング良く飛行機に乗れたんだ」

「そうですか。はい。わかりました」

「それじゃ」


 通話は切れた。


「どこかで待ちあわせ?」と知瑛子さんがきいた。

「いえ、ここに来るそうです」

「そう……」知瑛子さんは遠くを見て言った。「なんだか、怖いです」

「何が怖いんですか?」

「智弘さんと会うのが」


 その気持ちは、僕にはわからなかった。想像することもできない。いや、想像してはみたけれども、さっぱり理解できなかった。


 それから知瑛子さんと三十分ほど、車のなかでとりとめのない話をした。知瑛子さんが運転席、僕が助手席という配置だった。座席の位置が、僕たちの距離が縮まったことを示している。会話では、なぜか、僕の過去についての話を根掘り葉掘りきかれた。両親は何をしているのか、兄弟はいるのか、などなど。僕はすべて正直に本当のことを話した。


 ふと顔を車窓に逸らすと、三人組が歩いてきていた。男ひとり、女ふたり。千羽さんの左右に、津森さんと環さんが歩いている。


「来ましたね」僕は言った。「緊張しますか?」

「いえ」知瑛子さんの表情は緩んでいた。「なんだか、とても嬉しいです」


 そうか、こんな顔もするのか、と思った。美しい人だ。


 僕と知瑛子さんは車から出て、三人を出迎えた。


「久しぶり」千羽さんは言った。「元気にしてた?」

「はい」知瑛子さんはうなずいた。

「えっとね、まあ、なんというか、いろいろあって」

「話は、赤瀬さんからききました」

「どう思った?」

「普通じゃないな、と思いました」

「うん。そうだね。僕もそう思う」千羽さんは笑顔を見せる。「ひとまずさ、みんなで中華でも食べに行かない? 昼を食べてないから、お腹ぺこぺこで。ふたりも、それで良い?」

「あのぅ」環さんが小さな声を出す。「一応、ご紹介して欲しいんですけど」

「そうか。そうだね。忘れていた」千羽さんは、津森さんを指した。「彼女が、津森つかささん。こちらが、高鳥環さん。そして、彼女が僕の妻、知瑛子だ」

「よろしくお願いします」津森さんは、よそ行きの声を出していた。

 それを真似るようにして、環さんも頭を下げていた。


「ええ、こちらこそ、よろしくお願いいたします」知瑛子さんは言った。


 知瑛子さんの乗ってきた車に、全員で乗り込んだ。運転席に知瑛子さん、助手席が千羽さん、そして真ん中のシートに僕と津森さんと環さんが座った。真ん中のシートの真ん中の座席が僕だ。基本的には、助手席の次に死にやすい位置だと言える。いや、真ん中が一番危険だったかな……。などと考えていた。


「ここまで、どうやって来たんですか?」知瑛子さんが千羽さんに尋ねた。

「タクシーだよ。空港から直行で」


 ふたりは、いままでの長い断絶を埋めるかのように、まったく本質には迫っていかないような、些細な質問を繰り返していた。核心の部分を、あえて避けているかのようだった。その間、中列の僕たちはずっと無言だった。移動で疲れているのか、環さんは窓に顔をくっつけて眠っていた。痕がつくだろう。まあ、面白い顔になるだろうから、起こさなかった。


 これで役者は全員揃ったことになる。

 僕だけが部外者だ。早く帰りたくなってきた。

 ひとりになりたいな、と思った。


 僕がさびしさを感じるのは、ひとりのときではない。周りに人がいて、その誰もが、僕を必要としていないとき。そのときが、もっともさびしく思える。逆に、ひとりでいれば、孤独を感じることはない。


「お疲れさま」小さな声がきこえた。津森さんがこちらを見ていた。


 前のシートでは、相変わらず、知瑛子さんと千羽さんが話をしていた。


「津森さんも、お疲れさま」

「わたしは何もしてない」

「飛行機で疲れたのでは?」僕はそう言って、環さんのほうを見た。


 相変わらず、気持ちよさそうに眠っている。


「環ちゃんね、飛行機のなかでも、ずっと寝てたんだよ」

「そうですか……」僕は言った。「優雅ですね」

「わたしね、ずっと緊張して、ダメだった。これからどうなるのかって、不安で」


 好きになった人と、ようやくつきあうことができた。けれど、その恋人には妻がいた。それだけでも大変なことだが、さらにその妻へ直談判へ行くのだ。これで緊張しない人間がいたら普通ではない。つまり、環さんは普通ではないのかもしれない。


 しばらく殺風景なさびしい道路がつづいていた。しかし、十分も走る頃には、店の並んでいる通りに出た。中華料理屋の駐車場へと車は入る。夕方だが、あまり車は入っていなかった。あるいは、駐車場が大きすぎて、車が入っていないと錯覚しているだけかもしれない。九州に来るといつも思うが、とにかく駐車場が大きい。


 駐車したあと、千羽が言った。


「赤瀬くん。ちょっとね、四人で話したいことがあるんだ。申しわけないけど、少しの間、車の外で待っていてくれる?」

「はい」僕はうなずいた。


 津森さんが通りやすいように足を引っ込めてくれた。僕は車の外に出る。


 少し離れた位置で、車を見た。千羽さんと知瑛子さんが、後ろの座席に向かって何かを話している。津森さんも口を開いていた。環さんは、まだ寝惚けているのか、目がしっかりとはあいていない。こういう風にして、あの四人は生きていくのだろうと思った。


 ああ、やっぱり……僕は、あそこには要らない存在なのだ。


 それはわかっていたはずなのに、現実を目の当たりにすると、少しさびしかった。

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