第33話 ファミリー? それとも、アサンプション?

 動きだすことにした。


 僕は飛行機に乗り、佐賀空港まで来ていた。

 それからバスに乗り、佐賀駅まで移動する。そこで待ちあわせだった。


 僕が佐賀に来たのは、千羽さんの奥さんと話をするためだった。べつに電話や、インターネットを通じた通話でも良かったのだけれど、直接会って話すことになった。千羽さんが、婚姻関係について話をしたいが、ふたりで会うとこじれるかもしれないので、知り合いを交えて話し合いたいということになった。


 そのような経緯で、僕たちは皆で、千羽さんの妻が住んでいる佐賀へと行くことになったのである。けれども、千羽さんの働いている店の、兄弟店で、急な仕事の用事が入ってしまった。そういうわけで、環さん、津森さん、千羽さんの三人は、遅れて夜に佐賀へ来ることになった。僕は、千羽さんが来るまで待っていようかと思ったのだが、千羽さんの奥さんが僕と直接会って話をしたいということになり、会うことが決まった。


 はたして、何を話せば良いのか、よくわからない。僕は、千羽さんについて詳しく知っているわけではない。今後、どうするのかという方針を話し合うために来たのだが、千羽さんがいないのではどうにもならない。はたして、この会合に何か意味があるのだろうか、と思えた。そもそも、僕ほど部外者な人間はいない。千羽さんの奥さんと話すのに、もっとも向いていない人間だろうと思われた。


 しばらく佐賀駅で待っていると、ひとりの女性が歩いてきた。淡い水色の日傘を差している。その人物は、千羽さんから送られてきた画像の人物と同一人物だと思われた。


 女性は近づいてきて、頭を下げた。


「遠いところ、どうも……」抑えたような、上品な声だった。「千羽知瑛子(ちば ちえこ)」です」


 ゆっくりと頭を下げる。その動作は、幾度も繰り返されたもののようで、安定感がある。


 僕は、名前を名乗った。


「あなたは、智弘さんの……お友達?」知瑛子さんは言った。

「ええ、まあ、そのようなものですね」僕は嘘を吐いた。「ひとまず、喫茶店にでも入りましょう」


 僕たちは、駅の一階にある古びた喫茶店へと入った。現在時刻は午前十一時。昼前だが、それほど人は入っていない。落ち着いた雰囲気の店だ。きこえるかきこえないか程度の音量で、クラシックが流れていた。悪くない店だ。


 僕はオレンジジュースを、そして知瑛子さんが炭酸水を頼んだ。


 飲み物が来るまで、じっと黙っていた。


 知瑛子さんは、届いた炭酸水を一口飲んでから、ようやく口を開いた。


「智弘さんは、離婚するつもりでしょうか」

「それはわかりません」僕は千羽さんから、何も話をきいていなかった。

「そのつもりで、こちらへ来たのでは?」

「いえ、単に、話し合いがしたい、ということでした」

「そう……」知瑛子さんは言った。「よくわかりませんね」


 僕にもよくわからなかった。なぜ、知瑛子さんなる女性と一緒に、喫茶店にいるのだろう。不思議なことだ。僕の人生と交わるはずのない人間と、こうやって話をしているのは、不思議でならない。


「知瑛子さんは、千羽さんのことを愛していますか?」

「さぁ、わかりません」知瑛子さんは、遠い目をしていた。物体に焦点があっていない。黒い瞳で、遠い過去を見ているのかもしれない。「しばらく会っていませんから」

「仲直りしたい、というお気持ちは?」

「仲直りも何も、ただ、距離を置いていただけですから」知瑛子さんは言う。「そうしているうちに、段々、忘れていった。遠くなった。それだけのことです」

「会えば、気持ちが過去に戻ることも考えられますか?」

「わかりません。わたしも、あの人も、随分変わったでしょうから」


 僕は、この会合の最善の結末はどうなるだろうか、と想像した。千羽と知瑛子さんが離婚するようなストーリーが良いのか。それとも。


「いま、知瑛子さんは幸せですか?」僕はきいた。

「わかりません」それは正直な答えだったに違いない。「娘がいます。いま、小学五年生です。楽しそうにしていますけれど、父親がいなくて、さびしい思いをさせているな、とも思います。でも、祖父と祖母がいますから、さびしくないのかもしれません。わかりません」

「娘さんのことではなく、あなたのことをききました」と僕は言った。

「それも、わかりません」知瑛子さんの声は小さい。気を抜くと、聞き漏らしてしまいそうな、そんな声だった。「そんなこと、考える暇もありません。毎日、仕事に行って、帰ってきて、食事の準備をして。そういう風にしていると、すぐに時間が過ぎていって、気がついたら、長いこと智弘さんと会えていませんでした」


 千羽知瑛子は美人だった。美しさは、僕の基準で言えば、環さんと同じくらいだ。大人の色気がある。お淑やかで、上品な感覚を受けた。


「おかしなことをきいても構いませんか?」僕は言った。

「ええ、どうぞ」

「いま、つきあっている方は、いらっしゃいますか?」

「いません」知瑛子さんは即答した。「他に答えようがありますか?」

「えっと、離婚の際に慰謝料を請求するとか、そういうことではなくて……。正直なところをお聞かせ願いたいのです」

「いません」知瑛子さんは同じ言葉を繰り返した。「そんなこと、考える暇もありませんでした」

「お忙しいのですか?」

「そうですね」目を伏せて答える。「忙しくすることで、何も考えないようにしていたのかもしれません。だから、今回の話をきいたときは、最初、ああ、そういえばまだ結婚していたっけ、と思いました」


 次は何を話そうか、と考えた。どう話を展開すれば良いのか。そういうことを考えながら話さなければならない。いつものように、環さんとくだらない会話をするのではない。この会話には、知性が求められた。


「千羽さんが浮気をされていたとしたら、どうですか?」


 これは、賭けのようなものだった。どう答えるだろうか。その反応が見たかった。

 知瑛子さんは、しばらく黙っていた。五秒くらいだろうか。炭酸水の入ったグラスに口をつける。それから、また五秒くらい経った。


「それが、今日の本題ですか?」

「仮定の話です」

「ファミリー? それとも、アサンプション?」

「アサンプションです」あるいはプロセスかもしれない。「どう思いますか?」

「いえ、いまのところは、どうも……」知瑛子さんは答えた。「本人を目の前にしたら、また違うかもしれませんけど。ああ、そうなんだ、という感じです」

「怒りはありませんか?」

「そうですね。そういうこともあるだろうな、と思っていました。だから、こちらへ来たのですね?」知瑛子さんは環さんのほうを向いた。「もしかして、あなたがそうなのですか?」

「いえ、まさか」あまりにも面白い発想なので、笑いそうになった。「僕は、いろいろな人が幸福になれたら良いな、と思うんです」

「はぁ、なるほど」知瑛子さんはうなずく。「やさしい人なんですね」

「いいえ。僕は、身の周りの数人が幸せであれば、それで良いのです。だから、世界の大多数の人間にとっては、冷たい人なんです。でも、あなたも、幸せになって頂けたら良いな、と話してみて思いました」

「おかしなことを言いますね」

「そうなんです」このやりとりは、何度目だろうか。デジャヴを感じた。「僕は、ちょっとおかしいんです」


 ちょっとではないかもしれない、と自分の発言に突っ込みを入れてしまった。

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