第32話 なぜ、僕はプラレールをやめてしまったのだろう?

 千羽と店の前で別れた。津森さんと環さんは、ふたりでショッピングに出かけたらしい。そういうメッセージが携帯端末に届いていた。千羽さんとの話し合いはどうなったのか、ときかれたので、どうにもならなかったよ、とだけ答えておいた。つづいてメッセージが届いたが、面倒なので画面を見ることすらやめた。


 僕は、あてもなく道を歩いていた。なんとなく、隣の駅まで歩いてみようと思った。


 皆が幸せになれる方法。そのようなものが、あるのだろうか。

 まずは、幸福というものを定義しなければならない。

 幸せってなんだろう?

 なんとなく、楽しいことをしているときは、幸せだと思う。

 気持ちが良いときも、幸せだろうか。

 美味しいものを食べて、幸せに思う人もいるだろう。


 僕は、何を面白いと感じていただろうか。最近は、すっかり面白いものがなくなってしまった。幼い頃に楽しんでいたものは、すべて、いつの間にか飽きて、色褪せてしまった。


 小学生になる前は、プラレールというおもちゃが大好きだった。たくさん持っていた。誕生日のプレゼントも、クリスマスのプレゼントも、どちらもプラレールだった。デパートに行ったときは、いつだってプラレールの売り場に行って、じっと眺めていた。そのデパートのおもちゃ売り場では、とても広いスペースに、プラレールが展示してあった。いつか、自分も、こんなすごい風景をつくりあげてやるんだ、と考えたことを思いだす。


 なぜ、僕はプラレールをやめてしまったのだろう? 飽きてしまったのだろうか?

 いや、あるいは、ただ忘れているだけなのかもしれない。少し、忘れて、遠ざかっていただけ。いまだって、プラレールをしてみたら、面白いかもしれない。そんなことを考えた。


 小学生の頃は、何が好きだっただろうか。三、四年生くらいからゲームが好きだった。学校から帰ってきたら、いつもゲームばかりしていた。一日一時間と決められていたが、友だちの家にいけば、帰宅するまでの時間、ずっとゲームができた。


 なぜか、いつの間にか、ゲームを楽しめなくなっていた。それは、どうしてなのだろうか。飽きてしまったのだろうか。あれだけ熱中できていたゲームが、いまはもう、プレイするのも一苦労だ。昨年だったか、一昨年だったか。昔からずっと買っていたシリーズの、新作が出た。久しぶりにプレイしてみようと思った。インターネットで注文して、家に届いた。ゲームをプレイして、十五分くらい経ったあとは、何もかもが面倒くさく感じられて、やめてしまった。それ以来、ゲームをプレイしていない。


 中高生の頃は、読書が好きだった。これは、いまでも、なんとかつづけている。けれど、当時ほどは楽しめていない。あの頃は、本当に、寝る間も惜しんで本を読んでいた。夜に読みはじめて、そのシリーズを読み終わらず、朝になることも多々あった。体調が悪いと親に嘘をついて、学校を休み、部屋でずっと本を読んでいたことがあった。


 現在の読書は惰性に過ぎない。集中も、すぐ途切れてしまうようになった。一日のうち、読んでいられる時間は一時間ほど。それも、十五分ほどで飽きるから、騙し騙し、中断を入れて読んでいる。


 たぶん、幸せについて考えていて、こんなにも自分のことだけを考えるのは、僕のような人間だけだろうな、と思った。幸せということをイメージするときに、いままで楽しんできたものをイメージする人はマイナーだ。たぶん、多くの人は、もっと人間関係を交えた楽しさを語るだろう。修学旅行、文化祭、恋愛など。そういうものに幸せを感じたに違いない。けれど、僕はそうではなかった。友だちはずっといなかった。小学生の頃に友だちの家でゲームをしていたけれども、あれはゲームがしたかったから一緒に遊んでいただけで、べつに、本当は誰でも良かったのだ。本当はひとりが好きだった。ずっとひとりでゲームをしていたかった。その友だちも、きっと同じだっただろう。彼女も、ひとりが好きだった。ただ、ずっとひとりだと親が心配するから、ということで僕を連れてきたのだ。そうだった。そんなことを、ずっと忘れていた。


 幸せというのは、どういうものだろうか。


 一時的なものだという気がする。どのような物事にも永遠はない。自分が満ち足りている、と感じた瞬間にだけ見える、一瞬の煌めき。幻想。それが幸福というものの正体ではないか。ずっと幸せということが、あるのだろうか。


 幸福も、つづけばそれは日常だ。次第に慣れてきて、幸福だとは感じなくなるに違いない。たとえば、現在紛争地域にいる子供が、日本に来ることができたら、幸せだろう。暮らすのが、日本の貧しい家庭だったとしても、紛争地域よりはマシだ、と感じるかもしれない。そのときの幸福感は、想像を絶するほどだろう。しかし、その生活も、つづけば慣れてしまう。少しずつ、周囲と比較しはじめ、自分は日本のなかでは不幸なのだ、と気づくだろう。そうすることで、幸福という夢、幻想は潰える。


 幸福を感じるためには、一度、下がる必要があるのではないか。


 空腹の際に食べる食事は、とても美味しい。風邪を引いたときに、通常の状態の自分が、どれだけ幸せだったのかがわかる。それと同じで、不幸な人間であればこそ、自分の周囲に小さな幸福を発見することができる。幸福な人間は、幸福に囲まれすぎている人間は、自分が幸福であることに気づけない。そういうものではないか。青い鳥もそういう教訓だったような気がする。


 そうなると、僕は津森さんと環さんを幸福にするために、一度、ふたりを不幸にする必要があるのかな、と考えた。それが論理的な思考だ。でも、あまりにも論理的すぎて笑えてきた。それは、やっぱり違うだろうな、と思った。これは論理ではない。直感だ。


 僕は、何をしたいのだろう?


 本当に、津森さんと環さんを幸せにしたいのだろうか?


 彼女たちの、楽しそうにしている姿を見ていたい。それは、嘘ではないと思う。彼女たちが悲しんでいる姿は見たくない。苦しんでいる姿も見たくない。できれば、自分の傍で、そうでなくとも、どこか遠くで、幸せに暮らして欲しい。そんなことを思うのだった。


 さっきから、どうも同じことばかりを考えているな、と思った。


 考えていてばかりでも仕方がない。ある程度考えたら、動きだす必要がある。


 けれど、もう少しだけ考えてからにしようかな、と思った。

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