第四章
第31話 奥さんが殺されたら、悲しいですか?
千羽が結婚しているというのは、初耳だった。正直に言えば、驚いた。
「それでは、津森さんとのことは、本気ではないのですね?」
「つかさちゃんのことは可愛いと思っている。恋人にできたら嬉しいと思った。だから、告白されたとき、承諾した」
「奥さんがいることは、秘密にしていたのですか?」
「きかれなかったからね」千羽は言った。「けれど、すでに別居をしている。もう夫婦とは呼べないような関係だ。僕と妻の関係は、もう、壊れてしまっている」
「離婚は、されないのですか?」
「どうだろうね」千羽は、窓の外を見た。「未定だ。お互いに、なんとなく、時の経過に任せている。自然消滅でもしてくれないかな、と期待しているのかもしれないね。多くの物事は、風化して、消えてくれる。今回のことも、そうなってくれたら良いな、面倒だな、と感じているんだ。きっと。でも、冷静になって考えてみると、婚姻関係は、どれだけ時間が経っても解消されない」
「いえ、婚姻関係も風化しますよ。時間が経過して、どちらかが死ねば、自然と解消されます」
「なるほど。たしかに、それはそうだ。きみの言う通り。じゃあ、それまで待つしかないのかな」そう言って、千羽は微笑んだ。「どうする? これから、つかさちゃんと、環ちゃんのふたりにこのことを言って、僕と別れさせる?」
「それをふたりが望んでいますかね」僕には判断ができなかった。「ひとつ質問ですけど、どうして、奥さんと別居されているのですか?」
もしも、千羽の浮気が別居の原因であれば、同じことが繰り返されるかもしれない。
「子供ができてから、どうもね。お互いに、夫婦だとは思えなくなった。親になったからだろう。僕は、いまも忙しいけれど、その頃は、もっと忙しかった。給料も安かった。子供なんかに時間を掛けている暇はなかった。それに対して、彼女は、実家から東京に出てきていたし、友だちもいないし、ひとりで子供と向きあわなければならなかった。限界だったんだろう。ある日、家に帰ってみたら、実家に帰るという手紙が残っていた」
「修復をしようとは思わなかったんですか?」
「僕と妻は、お互いに疲れきっていたんだ。言葉は悪いけれど、ひとりになれて、身軽に思えた。自由だ、と思った。こんなに自由なのは、独身のとき以来だ。それからずっと、僕はひとりで生きてきた」
「しかし、津森さんと一緒に生きたいと思った?」
「自由でいると、束縛されたくなる。きっと、そういうことだろう」
はっきり言って、千羽のことなどはどうでも良かった。僕にとって重要なのは、津森さんと環さんだ。ふたりが幸福になるには、どうすれば良いのか。それをシミュレートする。さきほど僕が考えていたアイディアの問題点は、ひとつの方策で解消することができる。
「奥さんのことは、いまでも愛していますか?」
「どうだろうね。困っていたら、助けてあげたいと思うだろう。嫌いではない。でも、それが愛していると言えるかどうかはわからない。どこか、遠くで、僕以外の誰かと幸せになってくれたら良いな、とは思う」
「奥さんが死んだら、悲しいですか?」
「うん、そりゃね。きみが死ぬよりは悲しいと思うよ」
それは、ジョークか、あるいは挑発か。どちらでも僕には無関係だ。
「奥さんが殺されたら、悲しいですか?」
僕は似たような質問を繰り返した。
「不思議な質問だね」そう言って、千羽はしばらく黙っていた。「きみは、頭が狂っているのかな?」
「僕が狂っているかどうかは、僕が決めることではありません。社会が、僕以外の人たちが決めることです。僕の認識する世界では、僕が……僕だけが正常です。その他の人間は、皆、異常なんです。そうでしょう?」
「面白いね」そう言って、千羽は微笑んだ。ナチュラルな笑みだった。「きみの、つかさちゃんに対する愛情は、恐ろしいね。背筋が冷えたよ」
「ありふれた愛情です」僕は言った。「もう何十年も、いえ、何百年もつづいていることです。この愛情と同様のメカニズムで、戦争が起きます。結局、あれは、どれだけ神を愛しているのか、ということを示しているに過ぎませんから」
千羽はコップに入っていたコーラを全部飲み乾した。そして、僕に軽く会釈をして、コップを持って席を立つ。ドリンクバーを入れにいったらしい。戻ってきたときには、コップのなかは黄色の液体で満ちていた。オレンジジュースだろうか。
「きみは僕のことが憎くないのか?」
「憎んで欲しいですか?」
「いや、全然」微笑する。「普通は、自分の愛した人間が、自分を愛してくれない場合、破壊的な衝動を持つんじゃないかな。そして、愛した人間か、愛した人間が愛した人間、なんかややこしいけれど、どちらかを殺す。そうじゃないか?」
「あるいは自分を殺すかもしれませんね」僕は補足した。「愛されたいと欲するから苦しむことになるんです。自分が愛される必要などない。ただ、自分の全てを捧げて、相手を幸せにしたい。そう思うことができれば、とてもハッピーになれますよ」
「いま、きみは幸せなの?」とても軽い口調で、千羽は尋ねた。
僕は、彼の質問には答えなかった。
「奥さんが誰かに殺されたら、津森さんと環さんを愛してくれますか?」
「ちょっと待ってくれ。落ち着いて」彼はゆっくりとした口調で言った。「もし、そうなったとして、そのあと、きみはどうするんだ?」
「どうもしません。ただ、見守ることになるでしょう」きっと、檻のなかで。「あるいは、死ぬことになるかもしれませんね」
「きみは間違っているよ」千羽はやさしい声で言った。「きみ、えっと、名前はなんだっけ」
「赤瀬です」
「赤瀬くん。きみは、自分に酔っている状態だ。神への信仰を口にして、聖戦といって破壊を行うのと似ている。それは一見、美しく見える。でも、それは間違っている」
「そうかもしれませんね」否定するつもりはなかった。
「人生は、そう簡単には終わらない」千羽は、相変わらずのゆっくりとした口調で語った。この語り口が、女性を惹きつけるのかもしれない。「結婚はゴールではない。たとえば、僕の妻が死に、その結果、僕とつかさちゃんと環ちゃんが、三人で一緒に暮らしはじめたとしよう。でも、その関係は、いつか破綻する。幸せなのは一瞬だけだ。その幸せだって、単なる幻想に過ぎない。また、幸福な人生のあと、平凡な、どうでもいい、どうにもならない、くだらない毎日を生きていかなければならない。そのとき、きみはこの世界にいない。そうなると、苦しんでいるつかさちゃんのことも、環ちゃんのことも、救ってあげられない。それでいいのかな?」
彼の言葉を吟味する。
なるほど。
「きみは、本当に、あのふたりを愛しているのかな?」千羽はきいた。「愛していると決めただけなんじゃないの? そう決めれば、楽だからね。自動的に生きられる。きみは、これから先もずっと、ふたりを幸せにするために生きつづけることができる? 誰にも愛されることない。永遠の孤独だ。それに、耐えられる? 耐えられそうにないから、破滅を選ぼうとしているんじゃないか?」
僕は言葉を返せなかった。
彼の言葉が、あまりにも痛烈だったからだ。
ここまで物事を考えている人間に、はじめて会った、と感じた。もっとも、千羽は、僕がこの世界であった人間としては、肉親を除けば三人目である。しかし、これまでにも多くの人間を観察してきた。同級生、学校の先生、大学の教員、インターネット世界。この世界で、誰かと実際に話してみて、知性を感じることはなかった。けれど、千羽は違った。
「あなたは何者ですか?」僕は、不意に尋ねていた。
「居酒屋の店長だけど」そう言って、千羽は微笑む。「僕に惚れた?」
「好感は持ちました」
「そう。それは良かった……のかな?」
「また、もう少し考えてみます」もう少しとは、どれくらいだろう、と自分に対しても思った。「皆が幸せになれる方法があるといいんですけど」
「その皆のなかに、きみも含んだほうが良いと思うよ」
「そんなこと、可能でしょうか?」
「きみが幸せになろうとすれば、可能だ」そして千羽は言った。「きみ、いまはニートなんだって?」
「ニートの定義によりますが、ええ、大学を中退して、無職です。何もしていません」
「何もしないをしているんだね」
「いえ、呼吸や食事や排泄などをしています」もちろん冗談だった。
「きみは、バカに見られたいの? それとも、バカだと他人に見せたいの?」
「そのふたつは、同じではありませんか?」
「そうだね。たしかに。バカだと思われるのが怖い?」
「そうかもしれません」
「大丈夫だ。この世界、きみよりバカなやつは無数にいるし、きみより頭のいいやつだって、無数にいる。気にする必要はない。些細なことだよ」やさしい男だ、と感じた。「実はいま、うちの店は人手が足りていないんだ」
「そうなんですか」何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。
「よければ、うちの店で働いてみない?」
そういって、千羽は微笑んだ。
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