第30話 そうですね、何者でもないものです
無言の状態がつづいた。環さんは、さきほどの僕の提案について思考していたようだ。
僕としては、なかなか良いアイディアではないか、と思った。少々の不便はあるかもしれないが、津森さん、環さん、そして千羽さんの三人が幸福になるには、これしかない。誰も犠牲にすることなく、皆が幸せになれる。
「あのさ」不意に、環さんが口を開いた。「それで、あんたはどうするわけ?」
「僕ですか? どうもしませんけど」
「つーちゃんのことが好きで、そして、わたしのことも好きなわけでしょ?」
「ええ、まあ、そうですね」
環さんに対する感情は、愛かといわれると微妙だが、訂正するのも面倒だった。
「もしもうまくいったとして。わたしと、つーちゃんと、千羽さんで仲良く暮らせたとして。そのとき、あんたはどこにいるの?」
「たぶん、ひとりでここにいるでしょうね」
「そんなの、さびしくない?」
「さびしいのには、慣れてますからね」
「あんたは、幸せにならなくて良いの?」
「僕は、津森さんと環さんが幸せなら、それでいいんです。それが僕の幸せです」
「そんなの、絶対嘘。自分を誤魔化してる。本当は、つーちゃんとわたしを、自分のものにしたい。そうでしょ? 違うの?」
「あなたたちは、あまりにも美し過ぎる。僕には荷が重いですよ」
「わかんない。なんか、あんたを見てると、可哀想になってくる」
「憐れむ必要はありません。僕は、いま、幸せですよ」数秒黙ってから、再び言葉をつづけた。「好きな人たちが幸せなら、それで良いじゃないですか」
「そんなの、嘘だよ。虚しいよ。さびしいよ」
「虚しいのも、さびしいのも、嫌いじゃないです」
環さんは、それ以上、何も言わなかった。僕を見る度に、不満そうな顔をしている。なにか言ってやりたい、というような視線が感じられた。けれども、彼女はそのまま寝てしまった。疲れていたのかもしれない。
僕は、環さんが寝たのを確認してから、隣の部屋へ向かった。
環さんの部屋だ。いままで、一度も来訪したことはない。
チャイムを鳴らすと、ごそごそと音がして、ドア付近に人の気配が感じられた。
「赤瀬です。お話できませんか?」
ドアが開き、津森さんが出てくる。
「ちょっと、お散歩しませんか」と津森さんは言った。
僕たちはマンションから出て、近くにある小さな児童公園へと向かった。遊具はブランコしかない。それ以外には、砂場があるだけだ。トイレはなく、時計は動きが止まっている。そういう、さびしい公園だった。僕たちは、ブランコに並ぶようにして座った。子ども用のサイズで、とても座りづらかった。
僕はその場で、さきほど環さんに話したアイディアを津森さんに披露した。
「どうですか?」
「それ、わたしに、何かメリットがありますか?」
「友人の思い人を奪った、良心の呵責を覚えずに済みます」
「そんなの、もともと感じてませんけどね」とうそぶく。「でも、そんなの、普通じゃないですよね」
「普通であることに、何か意味がありますか?」僕はいつもの台詞を言った。「男性ひとりに対し、女性ふたりのほうがメリットは多いです。たとえば、今後、結婚をして子供を産むとしましょう。そのとき、ひとりで子育てをするのは負担が大きすぎます。昔は、祖母や祖父が手伝ってくれました。でも、いまはそういう時代じゃない。核家族になったいま、子供を父と母のふたりで育てていくのは、非常に難しいものがあります。ところが、妻がふたりいれば、仕事を分担することができる。お互いに支えあうことができる」
津森さんは、黙って僕の話をきいていてくれた。あるいは、目を開けたまま寝ているのかもしれない。わからない。
「複数妻がいることは、他にも様々なメリットがあります。夫と妻の共働き家族では、片方が倒れたときに、もう片方が支える必要があります。そのとき、支えきれずに、お互いに潰れてしまうかもしれない。ところが、三人になることで、負担を分散することができる。ひとりがダメになっても、残りのふたりが助けてくれる。工学的に見ても、集中システムよりも分散システムのほうが安全側です」
相変わらず、津森さんは黙ったまま、ブランコを前後に軽く揺らしていた。
「どうですか?」僕は尋ねてみた。
「理解はできる」と言った。「でも、共感はできない」
「やはり、嫌ですか?」
「そうですね」津森さんは、軽くうなずいた。「その思想は、新しすぎます。皆が納得できるようになるまでは、もっと時間が掛かるでしょう。現実問題として、日本では妻をひとりしか取ることができません。どちらかは内縁の妻ということになる。そういう差別を、完全になくすことは難しい。違いますか?」
「それはそうですね」僕は認めた。「でも、僕は津森さんと環さんを幸福にしなければならない。ふたりを同時に幸福にできるのは、このアイディアしかありません」
「なぜ、わたしたちを幸せにする必要があるの?」津森さんは尋ねた。
「それは……」どう答えるか迷ったが、やはり正直に答えることにした。素直が一番である。「僕は、世界で一番、あなたのことを愛しているからです。そして、環さんを二番目に愛しています」
僕の真面目な告白をきいて、津森さんは、ぷっと吹きだした。
「なにそれ。おかしい。変ですね」
「そうなんですよ。僕は、変なんです」
「赤瀬さん。わたしのこと、好きなんですか?」
「ええ、実は、そうなんです」
「どうして?」
「愛に理由が必要ですか?」
「必要はないけれど、知りたいです」
「愛の理由について、何を言っても、本質に迫ることはできません。でも、それを承知で、あえて言うならば。僕は、あなたを一目見た瞬間に、好きになってしまった。それだけのことです」
「いつからですか?」
「ずっと前から」
「高校のときから?」
その問いに、僕は答えることができなかった。
隣を見ると、津森さんは、僕を見て微笑んでいる。
「いつ、気づかれたのですか?」僕は尋ねた。
「さっき、部屋で話をしているときに、途中で気づきました」津森さんは言った。「遠くから見ているのと、近くで見るのでは、随分と違うように見えるのではありませんか? わたしは、まだ、あなたの好きだったわたしですか?」
「何も変わりません。遠くから見ていたときも、こうやって間近にいて、話をしているときでも。僕にとっては、どちらも女神です」
「本当に、変な人」
「そうですね」僕はうなずいた。「それで、どうです? 僕の提案を、受けて頂けますか?」
「わたしだけの問題じゃないでしょう?」
「そうですね。三人の問題です」そのなかに、僕は含まれていない。所詮は部外者である。
「少し、考えさせてください」環さんと同じことを言うのだな、と思った。
「お好きにどうぞ」三十秒で良いですか、とは言わなかった。
それから僕たちはマンションに戻り、玄関の前で別れた。
部屋のなかは暗い。寝室へ行くと、すでに環さんはぐっすりと眠り込んでいる。僕も眠ることにした。
そして翌日の昼のことだ。
僕たち三人は、駅前にあるファミレスへと移動した。
皆、朝からずっと、何も言わない。終始、気まずい雰囲気だった。僕以外のふたりは、しっかりと、あの提案について考えているのだろう。
「つーちゃんは、どう思う? わたしが、千羽さんのことを好きでも良い?」
「人を好きになるのは自由だから」と微笑む。「たしかにね、わたしも、フェアじゃなかったな、とは思ったの。どうせなら、一緒に告白すれば良かったね。そしたら、こんなに悩むこともなかったじゃない」
「抜け駆けされたもんね」環さんも微笑んだ。「ねえ、お願い。もう一度だけ、チャンスをちょうだい。こいつの言うように、ずっと三人で一緒に暮らせるとは思えない。たぶん、そんなのは無理だと思う。でも、少しの間なら、大丈夫かもしれない。恋人がふたりいる状態で、正々堂々、勝負させて欲しい」
「どうしようかな」そういって、津森さんは微笑する。「嫌だって言ったら、どうする?」
「どうもしない」環さんは、僕のほうを見た。「そのときは、こいつとつきあおうかな」
「それ、なに?」津森さんは、さらに笑顔を見せる。「冗談? 本気?」
「わかんない」
僕は何も言えなかった。
会話の途中で料理が届いた。僕はハンバーグ。ファミレスに来たら、いつもこれだ。どの店でも、ハンバーグが不味いということはない。非常に安定している。爆発的な美味しさはないものの、いつだって七十点は出してくれるのが良いところだった。
津森さんはパンケーキ、環さんはシチューだった。
「良いよ」不意に、食事の手を止めて、津森さんが言った。「わたしは良いよ。あとは、智弘さんが、どういうか、わからないけどね」
「ありがとう」環さんは言った。「でも、本当に良いの?」
「うん。わたしね、そんなに独占欲って、強いほうじゃなくって。好きな人と、ずっと一緒に、べったりしてたいってタイプでもないんだよね。わたしのさびしいときに、近くにいて欲しい。それだけ」
「そうなんだ」環さんはうなずいた。「じゃあ、よろしくね」
「智弘さんがどういうか、知らないよ? わたしたち、ふたりとも、振られちゃうかもね」
「そのときは、えっと、どうしよう」環さんは言った。「つーちゃんとわたしがつきあおうか?」
「それも良いかもね」
そんなことを言って、ふたりは笑っていた。
話がまとまったところで、千羽を呼びだすことになった。千羽は普段、昼に起きて、夕方に出勤する。昼ご飯を一緒に食べないか、と津森さんがメールを送ったところ、快諾された。千羽は車で、こちらの駅まで来るらしい。
それから十五分ほどで、千羽がやって来た。店内に入ってきて、きょろきょろと首を動かしていたが、こちらのテーブルへ近づいてくる。
「お友達も一緒?」と千羽は言った。
「そう。ちょっと、話があって」と津森さん。
「それは、良い話? 悪い話?」千羽が真顔で言った。
「わからないけど。たぶん、良い話かな……」
そして、津森さんが僕の提案について語り始めた。改めて、自分以外の口から説明されると、荒唐無稽な話ではある。一般的な価値観とは完全に乖離している。普通ではない。異常だ。けれど、何か異常で困ることがあるだろうか。少し、周囲の人たちから白い目で見られるだけのこと。べつに、悪いことをしているわけではないのだ。堂々と生きていれば、そのうち、他の人々も認めてくれるだろう。
「なるほどね」最後まで話をきいて、千羽は言った。「それで、そこのきみは、何者?」
そういって、彼は僕を見た。
「そうですね、何者でもないものです」
「哲学的だね」と千羽は言った。「ちょっと、きみと話がしたいな。ふたりは、席を外してくれる?」
それは予想外の展開だった。
千羽の言う通り、二人は店を出て行った。
テーブルには、僕と千羽だけが残されたことになる。
このような状況になるとは、想定もしていなかった。
「きみは、あのふたりと、どういう関係?」
「赤瀬です」まずは名乗った。「正直に言えば、無関係ですね」
しかし、それでは伝わらないだろう。僕は千羽に対しても、正直に言うことにした。僕は津森さんを愛していたこと。ふたりのことを調べている間に、環さんのことも好きになったこと。そのふたりには、幸せになって欲しいと考えたこと。だからこそ、千羽にはふたりを愛してもらいたいのだ、というような内容だった。
「なるほどね」千羽は言った。
「どうですか?」
「うん。提案自体はね、そう、普通じゃないけれど、悪くない」しかしね、と千羽は逆接する。「ひとつ、困った問題がある」
「なんですか?」
「それはね」
彼は声のボリュームを落として、ひっそりと言った。
「実は僕、結婚しているんだ」
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