第29話 普通であることに、何か価値がありますか?

 津森さんが去ってから数分後、ドアの開く音がした。もしかしたら、忘れ物でも取りに来たのだろうか、と思った。しかし、そうであったとしても、津森さんならばチャイムを鳴らすだろう。勝手に家に入ってきたりはしないはずだ。それに、ちゃんと鍵をかけておいたはず。そのようなことを考えているうちに、環さんがリビングに入ってきた。


「ねえ、どうだった?」


 環さんは、そう言って、さきほどまで津森さんの座っていた場所に、腰を下ろす。


「どうだったって、何がですか?」

「つーちゃんの話。何か、相談された?」

「ええ、されましたけど」

「どんな話?」

「それは言えません」

「ケチ」

「津森さんと環さんは、一緒にこちらの駅へ来たのですか?」

「ん?」首を傾げる。「環さん?」

「何か問題がありますか?」

「いや、べつにないけど。どういう心境の変化?」

「津森さんが、環ちゃんと呼んでいたので、移ってしまいました」

「ふーん。なるほどね。まあいいや」環さんは言った。「つーちゃんがね、なんか、あんたに相談したいことがあるっていうから、一緒に帰ってきたの。いまは、わたしの部屋で寝てる」


 つまり、今日も環さんはこちらの部屋に泊まるということだ。


「どんな話だったの? 教えられる範囲で教えてよ」

「えっとですね」頭のなかで、思考を整理する。「提案なんですけれど、僕たち、つきあいませんか?」


 直球を投げてみた。


「え……無理」無理ときたか。「どうしたの? 急に。つーちゃんに振られて、やけになった?」

「振られるも何も、津森さんには、すでに彼氏がいますからね」

「だから、妥協してわたしってこと?」

「妥協というか」どう答えれば、成功するだろうか。「僕たちは、随分と長い間、一緒にいますよね。同じ時間を過ごしている間に、愛情が芽生えたわけです」

「なんか嘘臭い」

「僕は嘘を吐きません」という嘘を吐いた。「環さん、僕ではダメですか?」

「いや、あのさ、あんたのこと、そんなに嫌いってわけじゃないんだけどね。でも、やっぱり、恋人とかってなると、うーん、違うというか、なんというか、想像がつかない」

「僕もです」

「いや、そこは想像してよ」環さんは言った。「つきあいたいって、どういうこと? わたしのことが好きってこと?」

「そうですね」まあ、好きか嫌いかで言えば好きだ。

「どういうところが?」

「えっと……」その質問は想定していなかった。「顔ですかね」

「嬉しいような、嬉しくないような」複雑なことを言う。「普通さ、顔って言う? 心とか、やさしさとか、なんか、そういうこと言わない?」

「じゃあ、やさしさですかね」

「心がこもってない」

「こめてませんから」環さんに告白する作戦は無理があったな、と思い直した。「実際のところ、僕は環さんのことが世界で二番目に好きです」

「一番目は」

「津森さんです」即答した。

「だよね。そうだと思った」と溜息をつく。

「環さんには幸せになってもらいたい。そういうわけで、どうしたら環さんが幸福になれるのかを、いろいろ考えているわけです」

「ありがとう」素直だ。「だから告白したの? ちょっとは嬉しかったけど、でもなぁ」

「津森さんと千羽さん、つきあっているらしいですよ」

「はあ?」環さんはそう言って、五秒ほど固まっていた。「はあ?」

「二度も言うほど驚きました?」

「うん……驚いたというか、うーん、なるほどな、みたいな感じ。言われてみれば、みたいな。え? それが、つーちゃんの相談?」

「そうです。失恋した環さんを慰めて欲しい、みたいな依頼でした」

「余計なお世話っていうか。それ、本当?」

「概ね本当です」

「ずるくない? わたしのほうが先に好きだったのに」

「べつに、先に好きになったほうに占有権があるわけではありませんからね」

「最悪。幻滅。最低」

「津森さんを悪く言うのはやめてください」

「いや言うよ」と環さん。「言わせてよ」

「気持ちはわかります」嘘だが。

「わかられてたまるか」

「気持ちはわかりません」僕は正直に言った。「しかし、諦めるのはまだ早いです」

「どういうこと? いまさら、もう、無理でしょ。あぁ、バイト、行きたくない。やめちゃおっかな」

「大丈夫です。僕に考えがあります」

「どんなの? 略奪とか、そういうの?」

「いえ、違います。もっと根本的にすべてを解決する、良い方法があるんです」

「あんまり期待できないけど、言ってみて」

「津森さんも、環さんも、どちらも千羽さんの彼女になれば良いんです」

「は?」環さんは混乱しているようだった。「いや、わけがわかんないんだけど」

「逆転の発想です。ひとりにつき、ひとりの恋人というのは、正式なルールではありません。どれだけ恋人がいようとも、法律に違反するわけではない。単なる、ここ数十年の間にできた、なんとなくの社会規範でしかない。好きな料理が幾つあっても良いように、べつにひとりの男が、ふたりの女とつきあっても良い。そうではありませんか?」

「頭おかしいの?」

「はい」僕は言った。「でも、こうするのが、もっともふたりを幸せにする方法ではありませんか?」

「うん、まあ、奥の手ではあるな」環さんはうなずく。「でもさ、やっぱり、恋愛ってそういうのじゃないよ。誰かとシェアとかできないって。わたしは独り占めしたいの」

「それは我が儘ですね。少しは我慢することを覚えてください」

「我慢とか、そういう問題?」環さんは机の上に置かれたコーヒーを飲んだ。「ぬるっ」

「ふたりでひとりの人間をシェアする。そうすることで、どちらかが幸福で、どちらかが不幸になるのではなく、お互いに、そこそこの幸福を得られるわけです。どうでしょう。なかなか良い考えだとは思いませんか?」

「ひとつ言って良い?」僕の答えを待たずに環さんは言った。「とてつもなくバカらしい」

「そうですか? 良い考えだと思ったんですけど」

「いま負けてるわたしは、まあ、ぎり許せるかもしれないけど。いま、つーちゃんは千羽さんを独り占めできてるわけじゃない? シェアなんて、認めるわけないって。ほら、日本も、韓国と領土問題とか起きてるじゃない? あれもさ、普通に考えたら、お互いにシェアすれば良いわけじゃん。でも、そうはならないよね。そんな感じだと思う」


 恋愛の問題に領土問題を絡めてくるのはやめて頂きたいものだった。

 僕は政治に関しては意見がない。アナーキストである。


「一度、ダメもとでも提案してみましょう。まあ、津森さんにしてみれば許しがたいことかもしれませんが、男の側から考えるとメリットがあります」

「どんな?」言って、すぐに思いついたのか、口を開いた。「ふたりいたほうが、飽きないっていうのはあるかもね」

「そうですね。幸いなことに、津森さんも、環さんも、なんというか、非常に、肉体的な面で言えば、役割分担がしっかりしているわけで」

「わたしが貧乳担当だって?」眉を寄せる。

「そこまでは言ってません」仄めかしはしたけれども。「どうですか? 結構、魅力的な提案ではないかと思いますが」

「うーん。でもさ、やっぱり、それって、普通じゃないよね。たぶん、受け入れられないと思う」

「普通であることに、何か価値がありますか?」僕は普通じゃない。「各個人が、本当に幸せだと感じるように行動すれば良いんです。法律に違反していなければ、それで良い。もちろん、津森さんは独占欲が強いかもしれませんし、千羽さんは津森さんを愛しており、他の女性には目もくれない、ということも考えられます。でも、提案してみるのは無駄ではありません」

「うーん」と、うなる。「ちょっと考えさせて」

「三十秒で良いですか?」

「なんでそんなに早いの。せめて一週間くらいちょうだいよ」

「仕方ないですね、三日あげましょう」

「ありがとう……」環さんは言った。「あれ? なんで、あんたに決定権があるわけ?」

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