第26話 抱きしめられた。ぎゅっと。
夕食のあと、しばらく僕と高鳥さんは別行動だった。僕は部屋の隅で小説を読んでいたし、高鳥さんは僕のノートパソコンを使っていた。
「誰かに愛されたいとか、思わないの?」高鳥さんは不意に尋ねた。
「愛されることに、意味がありますか?」
「意味とか、よくわかんないけど。愛されたら、嬉しいじゃない?」
「まだ、誰からも愛されたことがないので、わかりませんけれど」
「可哀想」憐れまれていた。
「誰かに好きになってもらうことで、得をすることがあるか、と言い換えましょう」
「損とか得とか、そういう話? そうじゃなくてさ、愛って、もっとね、こう、なんというか、ぐわっときて、じーんときて、きゅんとなって。そわそわってして……。まあ、そんな感じ」
さっぱりわけがわからない。
「愛されて、どうしたいんです? 性行為がしたいのですか?」
「うわぁ、それ、ちょっと、セクハラじゃない?」
「真面目な質問です」
「まあいいけど」高鳥さんは言った。「まあ、抱かれたいか、抱かれたくないかで言えば、抱かれたいよね。抱きしめられたら、じわじわっと幸せな感じになるし。それに、わたしの体で気持ち良くなってくれたんだって思ったら、ぞくぞくってするし」
オノマトペ過多だった。
「僕は性行為をしたことがないので、よくわかりません」
「薄々、そうじゃないかとは思ってたけど」思われていたらしい。「まともな恋愛をしてないから、いろいろ考えて、よくわかんなくなるんだよ。誰かに抱きしめられたいって思ったりしない? つーちゃんが相手ならどう?」
「ええ、まあ、なんというのか、畏れ多いですね」
神を抱きしめたい、あるいは神に抱きしめられたい、と思う人がいるだろうか。まあ、いるかもしれないけれど。
「人の温もりって良いよ。安心するよ」
「そうなんですか」
僕には、そのような経験がない。だが、それを羨ましいとは思わなかった。
「うーん」高鳥さんはうなった。「嫌だけど、でも、そうだな、可哀想だし……」
またしても憐れまれているようだった。
「ちょっと、こっち来て」そう言って、高鳥さんは立ちあがった。
高鳥さんの指示に従い、近づいていった。
そっと近づいてきて。僕が抵抗する間もなく、抱きしめられた。ぎゅっと。背中に手を回される。体が密着した状態だ。温かい。
「これは、その、そういうあれじゃないからね。可哀想に思って、仕方なくしてるだけだから。勘違いしないでね。ボランティアみたいなものだから」
「よくわかりませんが、わかりました」自分で言っていて、どっちだろうと思った。
「オムライスもなかなか美味しかったし、その御褒美だから」
しばらくの間、抱きしめられていた。
たしかに、安らかな気持ちになれた。
女性の体が、こんなにも柔らかいものだとは思わなかった。
自分の体は、こんなに柔らかくない。
高鳥さんが体を離した。少し名残惜しさを感じた。
「さっきのは、親愛のあれだからね。性的なやつではないので、勘違いしないように」
「大丈夫です」
「大丈夫ってのも、なんか、気になるな……」高鳥さんは言った。「わたしの幼児体型では興奮できないってか?」
「幼児体型というほどでもないでしょう」膨らみは少ないけれども、充分に大人だ。
「どうだった?」
「ええ、少しだけ、幸せについてわかったような気がします」
「それはなにより」高鳥さんは言った。「でも、本当に、勘違いしないようにね」
何を、どう勘違いしてはいけないのか、ということが不明瞭ではあった。
会話のあと、一時間後に高鳥さんはバイトへ出かけていった。
僕も近いうちに、どこかで働く必要があるだろう。誰かを幸福にするためには、資金が必要だ。どんな仕事だろうと構わない。できれば、僕に向いた仕事であれば効率良く稼げるだろうけれど、それほど大金が必要なわけでもない。
以前はまったく働く気が起こらなかった。それは、僕には生きる目的がわからなかったからだ。働いて、生きて、命を長らえさせて、そのことになんの意味があるのだろうか、と思わずにはいられなかった。
でも、いまは違う。僕は明確な人生の目標を発見することができた。
ふたりのために生きる。そう考えれば、働くのもそれほど辛くはないだろう。嫌なことがあっても我慢ができる。ふたりのためだ、と思えばどのような苦難にさえ耐えられるような気がした。これは、もしかしたら宗教に似ているかもしれない。ヨブは、艱難辛苦を乗り越え、神に仕えた。そういう生き方は理想的だと言えた。
どういう職業が向いているだろうか、と思考する。あまり他人と関わらない職業のほうが向いているように思われるが、そのような職種は少ないだろう。ひとまず、力仕事は向いていない。筋力が足りない。よって、どちらかといえば頭を使うような仕事のほうが向いていると思われる。大抵の仕事は、誰にでもできる。だからこそ仕事として成立しているのだ。そうでないもの、特定の人間に頼るしかないようなものは、もはや仕事とは呼べない。ある種、芸術にも似ている。
だから、多少の不満を我慢しさえすれば、どこであろうとも働くことができる。それは間違いのないところだった。給料は高ければ高いほど良い。自分の時間を持ちたい、とは特に思わなかった。僕には、何かしたいことはない。夢のようなものは持っていない。趣味さえないのだ。強いて言えば読書くらいだが、できなくなっても、少しさびしいだけである。だから、自分の時間は必要なかった。ただ、津森さんと高鳥さんの幸せな姿を、少しだけでも見ることができれば良い。
そんなことを考えながら、眠りに就いた。
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