第25話 じゃあ、抱きしめましょうか?
夕方に、高鳥さんが僕の部屋へやって来た。
夕食を準備している途中だったので、リビングで待ってもらう。彼女は寝転んで雑誌を読んでいた。
今日はオムライスをつくってみることにした。高鳥さんが、以前、オムライスが好きだと言っていたからだ。いままで、料理は自分が食べられたら、それで良いと思っていた。けれども、今日からは違う。他の人に楽しんでもらえるように、最大限の努力をしようと思った。しっかりとレシピ本も買ってきた。
ローテーブルに料理を並べる。
高鳥さんは、ただひたすらに無言で料理を口に運んでいた。
「どうでしょう?」
「ん。いける」短く答えて、また食事に戻る。
少なくとも、不味くはないようだ。不味ければ、これほどの勢いでは食べられないだろう。あるいは、本当にオムライスが好きであれば、どのような味だろうと食べられるのだろうか。それとも、その逆で、オムライスには非常にこだわりがあり、ある特定のタイプのオムライスしか食べられないという場合も考えられる。
少し読書に似ている。ミステリーであれば、なんでも楽しめてしまう読者がいる。時には、SFやファンタジーのなかにさえミステリーを見出して楽しんでしまう。もう一方は、非常にマニアックで、ミステリーのなかでも本格と呼ばれるジャンルのみを読む。一般に本格と言われている作品に対しても、これは本格じゃないと言って怒りはじめる。どちらのほうが良い読者なのかはわからないが、どちらも相応に幸せであろうことは間違いない。
そんなことを考えながら、オムライスを咀嚼した。
「食べた食べた」高鳥さんが、ふう、と息を吐く。「美味しかった」
「それは良かったです」僕は言った。「他にリクエストはありますか?」
「え? 何? えっと、カレーとか?」
「わかりました。どういうカレーが良いですか?」
「いや、べつにこだわりはないけど」
「じゃあ、明日の夕食はカレーにしましょうか」僕は尋ねた。「明日も来ますか?」
「うん。行く」高鳥さんは言った。「なんか、やさしくない?」
「僕は基本的にはやさしい人間ですよ」
「異常にやさしい人って、なんか、下心が見えて、怖いんだよね」
「異常にやさしいわけではありません。正常にやさしいです」
「正常にやさしいってのも、わけわかんないけど」
異常にやさしいというのも同じくらいわけがわからない。
「高鳥さんは、どういうときに幸せを感じますか?」
「え? うーん、急にどうしたの?」
「いえ、今後の参考にしようかと思いまして」
津森さんと高鳥さんを幸福にしたい。僕はそう考えていた。
「ふーん。幸せね。そんなこと考えるってことは、あんた、いま幸せじゃないの?」
「幸せになろうとしている最中です」
「わけわかんないけど」高鳥さんは言った。「美味しいものを食べられたら、幸せかな」
「動物的ですね」と僕は評価した。
「そうだけど、でも、大事じゃない?」
「そうかもしれません」僕は言った。「でも、最近の食べ物って、もう、ほとんど美味しいじゃないですか。コンビニで買えるパンとか御菓子だって、美味しいですよね」
「まあね。でも、ああいうのは違うかなぁ。なんていうか、味が単純だよね。わかりやすいって感じ。シンプル?」
シンプルも単純もわかりやすいも同義語だ。同語反復を起こしていた。
しかし、高鳥さんの言わんとすることはわかった。
「高級料理って食べたことありますか?」
「えっと、どうかなぁ。いままで食べたなかで、一番高いものってなんだろう?」
「僕はオーストラリアの有名ホテルでディナーを食べました。トルコ料理でしたけど。そのときの値段が、えっと、たしか二万五千円くらいでしたかね」
「オーストラリア」高鳥さんは呟いた。「トルコ料理」
「ええ、そうですけど」
「なんで、わざわざオーストラリアまで行って、トルコ料理なんて食べてるわけ?」
「わかりません。僕が決めたわけじゃありませんから」
「あんた、海外とか行くような金持ちなんだ」
「僕はお金持ちではありません。父が、とある上場企業の役員をしているのです」
「あ、そう。なるほどね。そういう感じするわ。甘ったれてる感じ」
反論はしない。事実だからである。
「わたしは、なんだろうなぁ。でも、やっぱり旅行のときに食べたご飯かな。えっと、そうそう、イカの刺身がたくさん出てくるところがあってね、そこが、五千円くらいだったかな」
「それは美味しかったですか?」
「うん。あんまり詳しくは覚えてないけど、美味しかったと思うよ」
「どれくらい美味しかったですか?」僕は尋ねた。「たとえば、今日のオムライスと比べたら、どちらのほうが美味しいですか?」
「いや、そんなの比べられないでしょ。ジュースとコーラ、どっちが美味しいかってきくようなもんじゃん」
「コーラはジュースに含まれるのでは?」
「うん。例えが悪かったね」素直だ。「どっちも美味しいけど」
「今日の僕の料理は、たぶん材料費を考えたら五百円も掛かっていないでしょう。イカの刺身は、僕の料理の十倍の美味しさがありましたか?」
「そんなことはないんじゃない? まあ、あったとしても、精々、二倍くらい。でも、本当は、二倍も美味しくないよね。味を数字にするのって難しいけど」
「自分のセンサーがどれだけ鋭敏かにもよりますけど、料理は、ある一定のところを過ぎると、値段と味が比例しなくなります。僕は、かなり舌がバカですから、大体、千円を越えるとほとんどの料理を美味しいと感じます。それ以上のものに差が感じられない」
「まあ、そんなもんかもね。それに、料理ってたくさんは食べられないじゃない? どれだけ美味しい料理でも、お腹いっぱいなら、もう、全然ダメ。吐きそうになるし。だから、ほら、よく言うじゃない。空腹は最高のスパイクとかなんとか。そんな感じで、もしかしたら絶食したほうが美味しく感じられるかもね」
スパイクではなくスパイスだと思ったけれど、それくらいの言い間違いは日常茶飯事である。スルーしてあげることにした。
「じゃあ、明日のカレーは美味しくつくりますから、昼飯は抜いてきてください」
「うん。わかった」驚くべき素直さである。「楽しみにしてるからね」
料理を頑張ろう、と心に決める。
「他には、どんなときに幸せを感じますか?」
「わかんないけど。えっとね。ちょっと待ってよ。考えるから」そういって、高鳥さんは三十秒ほど考えていた。「抱きしめられたりしたら、幸せかな」
なるほどな、と思った。
「じゃあ、抱きしめましょうか?」
「は? 何言ってんの?」
高鳥さんは眉をひそめる。
「いや……ダメダメ。違う。そうじゃない。誰でも良いわけじゃない。好きな人から抱きしめられたいの」そして高鳥さんは言った。「べつに、あんたのこと、嫌いじゃないけど、でも、そういうのじゃない」
そういうのとは、どういうのだろう、といつも思う。
「僕は、高鳥さんのことを幸せにしようと思うんです」
「え? ちょっと待って。え?」
「ちょっとって、どれくらいですか?」冗談を言ってみた。
「えっと……。ちょっと待ってくださる?」やけに丁寧な口調になっていた。なかなか面白い。「少し頭のなかを整理しますからね。あの、あなた、赤瀬さんは、津森さんのことを、愛していらっしゃるのですよね?」
「愛している、という言葉が適切かどうかは知りませんが、崇拝しています」
「なんか怖いな」高鳥さんはつぶやく。「じゃあ、なんでつーちゃんじゃなくて、わたしのことを幸せにするとか言うわけ? それ、プロポーズのつもり? どういうこと?」
「ああ、いえ、違います。プロポーズではありません。それに、津森さんじゃなくて、高鳥さんを幸せにするというわけでもありません」
「もう、わけわかんない。頭おかしくなりそう」
「説明します」どう伝えるか、少し考えた。「僕は自分の人生の目標を、津森さんを幸福にすることに決めました。津森さんは、僕のなかでもっとも崇高な存在だからです。彼女に奉仕する。そして、僕のなかで、二番目に大切な人間は、高鳥さんです。だから、津森さんに奉仕した余力で、高鳥さんのことも幸せにしようと考えたわけです」
「うん。なんか、嬉しいような悔しいような、変な気持ちだわ」
「そういうわけで、どういうことをされたら幸福になるか、考えておいてください」
高鳥さんは、いつものように深々と溜息を吐いた。
「あんたって、本当に、変なやつ……」
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