第三章
第21話 パッドを入れる話でしたかね
カラオケ店に到着した頃には、歩き疲れて汗でどろどろになっていた。店には、夜中なのに、そこそこ人が入っていた。しかし、満員というわけではないようで、待ち時間なく奥の部屋へ案内される。高鳥さんはすぐに赤ワインを頼んでいた。また帰りが大変だな、と思った。
それから、高鳥さんがずっと熱唱していた。悲恋の歌ばかりを歌っていた。自分のいまの心情と、歌詞を重ねあわせているのかもしれない。号泣しながら歌っていた。僕は高鳥さんの歌をききつづけなければならなかった。幸いなことに、歌はそこそこ上手かった。きくところによると、高校時代に軽音学部でボーカルをしていたらしい。さもありなん、と思った。
始発が出る頃になったので、店を出た。高鳥さんは、グロッキー状態になっていた。そうなることを見越して、店員から袋をひとつもらっていたのだ。彼女は電車のなかで吐いていたが、袋のなかだったので助かった。一度次の駅で降りて、吐物の入った袋を捨て、高鳥さんをトイレに行かせてから、また電車に乗った。
「死にそう」高鳥さんの顔は、青白くなっていた。
「生きてください」
「なんだそりゃ」高鳥さんは微笑もうとするが、無理だったらしい。くしゃっとした、変な顔になった。「あんたもさ、昨日、死にそうな顔してたよ」
僕は何も言えなかった。
「わたしは死なない。だから、あんたも生きなよ。これくらいの辛いことって、たぶん、よくあることだよ。死ぬほどのことじゃないよ」
「そうかもしれませんね」
「本当にわかってる?」
「はい」きっと。
高鳥さんは、ぐいっと伸びをした。
「何もかも、無駄だったなぁ。千羽さんの好きな曲を調べたりとか、好きな番組を調べたりとか、いろいろしたのに」
「好きになれて、ドキドキできて。その間、幸せだったんだから、良いじゃないですか」
「そうかもね」高鳥さんは言った。「ああ、また泣けてきた。わたし、可哀想だわぁ」
「好きなだけ泣けば良いと思います」
幸いなことに、電車内はガラガラで、それほど混んでいない。皆が自身の携帯端末の画面を覗いていて、イヤホンなどをつけているため、はっきり言って僕たちは認識されていないも同然だった。皆が自分の世界にこもっている。
「これから、どうしよっか」
「そうですね」何かを言おうとしたが、何も思いつかなかった。「どうしましょう」
「あんたさ、津森ちゃんのこと、もう諦めたの?」
「諦めるというか、まあ、遠くから見守る的な……」
「それで良いの? 自分のものにしたくないの?」
「そりゃ、自分のものになれば嬉しい……と思いますけど」
言いながら、いや、どうだろうかと自分の言葉に疑問を持った。多くのものは、手に入れた瞬間、その輝きが失われる。ずっと欲しかったものなのに、なぜか、手に入った瞬間、どうでも良くなってしまうのだ。子供のころに欲しかったおもちゃなどが、そうだった。クリスマスの二週間くらい前に親に頼み、そして二週間、ずっと待っている間は楽しかった。そのおもちゃで、どう遊ぶか。そういうことをイメージして、毎日を過ごすことができた。けれど、届いてしまえば、それまでだ。もちろん、そこそこは楽しい。でも、ずっとは遊べない。次第に、他のものに興味が移っていく。基本的に、たいていのものは、手に入れる前段階で、夢想しているときが、もっとも楽しいと言える。
「寝た?」高鳥さんが、僕の顔の前で手のひらを上下に動かす。
「起きてます。クリスマスについて考えてました」
「まだまだ先じゃん」
「そうですね」僕はうなずいた。
「わたしね、千羽さんに、なんて言って断られたと思う?」
「胸が小さいからですか?」
高鳥さんは、僕の脇腹を思いっきりつねった。叫び出したかったが、公共の場所なので我慢した。隣を見ると、にっこり微笑んでいた。
「殴るよ?」
「もう、つねってますけどね」
「あのね、それ、とても失礼じゃない?」
「そうですね。ごめんなさい。セクハラでした。元気づけようと思って」
「信じられない。それで元気になるわけないでしょ?」
「えっと、悲しんでいる状態よりは、元気かな、みたいな……」
「はぁ……」深々と溜息を吐く。「やっぱり、そうなのかな。わたし、魅力ないかな」
「慎ましいのが好きな人もいるのでは?」
「どこにいるの? そんな人」
「いえ、知りませんけれど」
「あんたは? どう? 大きいほうが好き? 小さいほうが好き?」
「サイズなんてどうでも良いです」
「強いて言えば?」
「まあ、なくて困るものではないですね」
「ほら、やっぱり」
「何も言ってませんよ」
「いや、あんた巨乳派だね。つーちゃんも大きいもんね」
「胸のサイズで好きになったわけではありません」
「どうだか」
高鳥さんは、どうも胸部の薄さがコンプレクスらしい。そこまで気にすることでもないのでは、と思うけれど。男性の陰茎よりも、女性の乳房のほうが視認しやすいため、コンプレクスになりやすいのかもしれない。学生時代から、ずっと同性や異性から揶揄されつづけたのだろう。そう思うと可哀想になってきた。ちなみに僕は極々平均的なほうだ。
「頑張ってください」心の底から、そう思った。
「なんか、励まされると、それはそれで辛いんだけど」ややこしいものだった。「えっと、それでなんの話だっけ?」
「パッドを入れる話でしたかね」僕は冗談を言った。
「違う違う。そんな話してない。えっと……そう、なんて言って断られたか、なんだけど。これがね、あんたと同じなの。彼女ができたからごめんって。傑作だよね」
べつに傑作というほど笑えないな、と思った。
「本当かなぁ。怪しいよねぇ。いままで、ずっと、他のバイトの子が尋ねたときも、彼女はいないって言ってたんだよ。おかしくない?」
「隠してたのかもしれませんね」
「本当に彼女っているのかな?」
「嘘を吐く理由がありますか?」
「ほら、それは、なんていうか、わたしを傷つけないように、嘘を吐いた、みたいな」
「それはあるかもしれませんね」僕はうなずいた。「でも、嘘でも、嘘でなくても、大差ないでしょう」
「大差あるよ。本当に、彼女がいるから振られたのか、それとも、彼女はいないけどタイプじゃないから振られたのか。それは全然違うって」
「結局、つきあえないのだから、同値では?」
「違う違う。全然違う。彼女が本当にいるんだったらさ、ほら、破局したら、わたしにも可能性が出てくるわけじゃない? 奪ったりもできるかもだし」
「タイプじゃなかった場合は絶望的ですね」
「なんで、そんなひどいこと言えるの?」
「現実を冷静に観察した結果を言っただけです」
「怒らせようとしたって、もう、その手には乗りませんから」高鳥さんは、バーカ、と耳元で囁いた。なんだか、ぞくっとした。「ひとまずね、次の作戦を寝る必要があるよね」
その言葉には、素直に驚いた。
「諦めないんですか?」
「諦めないというか、諦めきれない」
それほどまでに、千羽という男を好きなのか。
「次の作戦って、どうするんです?」
「わかんないけど」高鳥さんはつぶやいた。「ストーキングとか」
「振られて、さらにつきまとうって、完全にやばい人ですよね」
警察沙汰になってもおかしくない。
「バレなければセーフでしょ?」
「どうでしょう。まあ、ぎりぎりセーフかな……」
「千羽さんに本当に彼女がいるのか。それを確かめるだけで良いから。お願い。協力して」
そう言って、拝むように手をあわせる。
「僕にできることは、大してありませんけど、まあ、良いですよ」
「ありがとう」高鳥さんは微笑む。「あんた、いいやつだよね」
「さあ、どうでしょうね」
ストーキングの片棒をかつぐのは、たぶん、悪いやつだろう。
その日は僕の家に帰って、ふたりで隣に並んで眠った。
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