第20話 寝耳に雨だったから
結局、津森さんとは何も話せなかった。高鳥さんが、何度か話を振ってくれたが、うまく返せない。緊張しすぎていた。何か面白い話をしなければ、と思えば思うほどダメになっていく。僕のジョークは滑りに滑りまくっていた。
「そろそろお開きにしよう」高鳥さんは宣言した。「眠い」
「うん、そうだね」津森さんは微笑んだ。「電車、まだあるかな」
「あるわけないよ。だから泊まっていきなよ」
「実は、そのつもりだったけど」
「ここに泊まるといいよ」高鳥さんは言った。
「ここって、ここ?」津森さんが驚いた表情をする。「それは、違いますよね」
「うん。違いますね」僕はうなずいた。「全然違うと思う」
「わたしは家に帰るから、ふたりで仲良くしなさい」高鳥さんが言った。「ただし、プラトニックにね。ここ、壁が薄いから」
「ちょっと、環ちゃん。冗談でしょ?」
「まあ、本気八割、冗談二割」
「そんなの、無理に決まってるでしょ?」
無理とか言われて少し傷ついた。いや、普通に考えたら無理なのだが。初対面で仮面をつけている人物の家に泊まれるだろうか。僕ならば絶対に嫌だ。怖い。怖すぎる。
「この前、恋人が欲しいって言ってたじゃん」
「ああ、うん、それは、そうだけど……」津森さんは僕の顔をみた。「あれだし」
「あれとか言わないで。あのね、仮面くんはね、自分の顔が醜いことに恐怖を覚えている人なの。本当は、そんなに醜くないんだけどね。そういう頭の病気なの。だからやさしくしてあげないといけないの」
そのような事実はない。本当の醜形恐怖の人に謝って欲しい、と思った。
「そうなんですか? ごめんなさい」ぺこり、と津森さんは頭を下げる。
「いえ、大丈夫です。ちょっと、恥ずかしがり屋なんです」
「ほら、環ちゃん。仮面さんが困ってるから。環ちゃんの家に帰ろう」
僕は高鳥さんには仮面くん、津森さんには仮面さんと呼ばれていた。
「戻っても良いけど、わたしの家、布団ひとつしかないし狭いよ」
「もう、それで良いよ」
「わたし、よくおねしょするけど、大丈夫?」
「それは良くないし、ちゃんとトイレでしてよ」
「ここは、布団がふたつあるから、ちょうど良いと思うんだけどなぁ」と高鳥さん。「仮面くん、女の人が好きだから、気をつけたほうが良いけどね。でも、そういうのも、ありっちゃーありなんじゃないの?」
恐らくは、僕と津森さんの関係をアシストしようとしているのだろう。しかし、完全に逆効果である。やめて欲しかった。
「あのね、環ちゃん」津森さんは、少し真面目な口調になった。「実はね、わたし、彼氏ができたから。だから、仮面さんとくっつけようとするのは、やめて欲しいな。仮面さん、性の対象が女性なんでしょう? それなら、彼氏に対する不義理になるから」
「なるほど」高鳥さんはうなずいた。「なるほど……」
「なるほどですね」僕もなぜか同じことを言っていた。
「黙っててごめんね」津森さんは微笑んだ。
高鳥さんは僕のほうを一瞬だけ見た。憐れみのまなざしだった。
やめろ。そんな目で僕を見るな。
「わたし、今日はこっちで寝るから、つーちゃん、わたしの部屋で寝なよ」
「大丈夫?」津森さんは僕の顔と、高鳥さんの顔を交互に見た。
「大丈夫。よくあることだから」
実際、よくあることなのだ。高鳥さんは飲んだあと、そのまま寝てしまうことがあった。仕方ないので、来客用に押し入れに置いてあった布団を、最近はずっと出しっぱなしになっていた。
「じゃ、これ。はい」高鳥さんは、津森さんに部屋の鍵を渡した。
玄関まで津森さんを送っていく。
僕の思考は止まっていた。放心状態だ。
津森さんが、高鳥さんの部屋に入っていったのを見届けて、僕たちは部屋に戻った。
何もする気が起きなかった。そのまま自分の布団へうつぶせに倒れこんだ。
そっと、高鳥さんがしゃがみこむ。
「ごめんて」僕の髪の毛を指でいじる。「知らなかったから」
「高鳥さんのせいではないですから」
「わたしもさ、ほら、その、あれ。なんだっけ。寝耳に雨だったから」
そんなことわざは存在しない。
「元気出しなよ」
「出るか」出るわけがなかった。
「ま、そうだよね。仕方ないよね」
高鳥さんが、そっと離れていくのがわかった。
「わたしも、もう寝るね」
そういって、高鳥さんは隣の布団へと入り込んでいく。
光が減じて、電気が消えたのがわかった。
何も考えたくなかった。
胸が苦しかった。
少しだけ死にたかった。
けれど、ひとつだけ言っておかなければならないことがあった。
「ありがとうございます」
「え? なんで?」まだ寝ていなかったのか……。
僕は答えなかった。
それから少し寝た。朝早くに、高鳥さんが部屋を出ていった音で目が覚めた。机の上に置かれた僕のパソコンが起動していて、メモ帳にメモが残っていた。わざわざ人のパソコンを使わずに、メールを送ってくれたら良いのに、と思った。
『昨日は本当にごめん。いまから、つーちゃんを送ってくるから。またあとでちゃんと話そうね。本当にごめんね』
僕は、高鳥さんに対して怒りの感情はなかった。津森さんと会わせてくれて、感謝さえしていた。結果は残念だった。けれど、あれだけ美人なのだ。彼氏がいてもおかしくはない。むしろ自然だ。いままで彼氏がいなかったのがおかしいのである。
津森さんのことを思うと、また少し苦しくなった。息がしづらい。精神の不安定さが、身体にも影響を及ぼしているらしい。ああ、僕はこんなにも、津森さんが好きだったのだな、とわかった。
何も考えなくて良いように、ひと眠りした。
気がつくと昼だった。隣の部屋から、キーボードを叩く音がする。
布団から起き出して行ってみると、高鳥さんが、僕のパソコンをさわっていた。
「おはよ」
「おはようございます」僕は言った。「自分のパソコンを使えば良いと思うんですけど」
「こっちのほうが性能がいいから。使う? それなら貸してあげるけど」
「いや、大丈夫です」貸すじゃなくて返すだろう、と思ったが、些細なことだ。
「あのさ、昨日は、本当にごめんね」
「気にしないでください。高鳥さんが悪いわけじゃないですから」
「うん。まあ、そうだよね」あまり気にしていないようだ。「そこでさ、わたしも、あんたを見て、あちゃあ、やばいなって思ったんだよね」
「僕がやばいってことですか?」
「違う違う。そうじゃなくて。なんていうか、告白しないと、手遅れになるっていうか」
「そういうことですか」
「そうそう。千羽さんに、告白しようかなって思って」
「いいんじゃないでしょうか」もはやどうでも良かった。好きにして欲しかった。
「だから、いまね、どうやって告白すれば良いか、調べてたんだけど」
背後に立っている僕に、画面を見せてくれる。
「どこが良いと思う?」
女性にされたい告白スポット十選、みたいなページだった。
「どこでも良いと思います。成功率に大差はないでしょう」
「そうかもしれないけど、でも、ほんの少しでも成功率を上げたいから」
「大丈夫です。安心してください。高鳥さんは可愛いですから」
「あのさ、そういうのって、わたしにはさらっと言うけど、昨日、つーちゃんには言ってなかったよね」
「言えるわけがないでしょう」言葉に出せないほど美しすぎるのだ。
「ふーん、まあ、わかんないけど」高鳥さんは言った。「頑張ってみるね」
「いつ決行するんですか?」
「今夜」
「早いですね」
「善は急げって言うでしょ?」
「急いては事を仕損ずるとも言います」
「良いから。黙って」黙ることにした。「仕事の終わりに、告白する」
「頑張ってください」
「頑張る」素直だ。
僕は失敗してしまったが、高鳥さんにはうまくいって欲しい、と思った。それは素直な気持ちだった。
これからどうしようか、とぼんやり考える。
何もすることはない。何をしても良い。何もしなくても良い。
何かをしたほうが良いのかな、とは思う。
けれど、したいことは特にない。
もう少しだけ、津森さんのことを見ていたいと思った。たとえ、誰か他の人のものになったとしても構わない。もともと、僕のものになるはずもない。僕は、彼女を見ていられるだけで幸せなのだ。少しばかりの悲しさはあるけれど。それは、時と共に癒えるだろう。津森さんが幸福なのを見届けて、それから死のうと思った。
その日の夜のことだった。時刻は一時を過ぎた頃。
僕の携帯端末が鳴った。基本的に、家族以外に誰にも教えていない。僕は個人情報を漏らしたくないほうなので、携帯端末の番号が必要な会員などにはならない。ポイントがつくようなサービスにも加入していない。
誰だろう、と思ってみたが知らない番号だった。そもそも、知っている番号がない。
無視していたが、しばらくずっと鳴っていた。
もしかしたら、親が携帯端末をなくして、新しく買い換えたという連絡かもしれない。それにしては時刻が遅いな、と思いつつ通話ボタンを押した。
「赤瀬くん?」
「赤瀬ですけど」声で、誰かわかった。高鳥さんだ。しかし、赤瀬くん、などと呼ばれたのは、はじめてのことである。「高鳥さんですか?」
「わたし、もうダメかも」
「どうしたんですか?」
「泣いて良い?」
「もう泣いてません?」電話口からきこえてくる声は、震えていた。
「実はね、そうなの。泣いてます」
「酔ってます?」
「これが、酔わずにいられますか」
「何かありました?」
「あったよぅ」語尾が少し可愛かった。「あのね、もうね、死んじゃいたい感じ」
「死なないでください」
「どうして?」
「どうしてでしょうね」不思議なものだった。「もう話せないとなると、さびしいからだと思います」
自分は死ぬつもりなのに、他の人には死んで欲しくないと思うだなんて矛盾しているな、と思った。
「いま、どこにいるんですか?」僕は尋ねた。
「N駅の時計台の近く」
N駅は、僕らの住む上石神井から、電車で3駅くらいだ。駅の周辺だけが流行っているが、夜中になると真っ暗になる。そろそろ終電だ。もう電車はないかもしれない。
「どうするんですか?」
「わかんないけど、どうしよう」
「いままで何してたんですか?」
「泣いてたの」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけないでしょ」
よくわからないが、情緒不安定なようだった。
「わかりました。いまからタクシーでそっち行きますから。落ち着いてください」
「落ち着けないよぅ」
「深呼吸をして」
「うん」
「吸って」
すー、という音がきこえた。
「吐いて」
ふぅ、と強い息の音。
素直な人だ。
「落ち着きました?」
「なんか酸欠で頭痛くなった」
それから僕は家を出て、駅前のタクシー乗り場へ向かった。三台のタクシーが並んでいて、その近くでタクシードライバーたちが談笑している。三人は男だった。仕事の休憩中かもしれないと思った。僕は、成人男性が怖い。幼い頃のトラウマだろうか。本当に嫌だったけれど、高鳥さんのためだから仕方ないと思い直し、声をかけてみた。すると、快く引き受けてくれた。
N駅へ向かう途中、ずっと電話をしていた。
会話はいつもにも増して支離滅裂だった。内容を把握するのは困難だったが、断片的に伝わってくる情報によると、どうやら高鳥さんは千羽に振られたらしい、ということがわかる。正直言って、意外だった。普通の男性であれば、高鳥さんのアプローチを断ることはないだろうと考えていたのだ。
駅に着くと、高鳥さんが時計台の近くに座り込んでいた。周囲に人はいない。時計台の上方にあるライトが、ぼんやりと周囲を照らしていた。近づいていくにつれて、アルコールの匂いが強くなっていった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫そうに見える?」
高鳥さんは、そう言って顔をあげた。目元が真っ赤になっている。
「泣いたあと、目を手で拭ったでしょう」
「うん」
「こすると腫れますから、流しっぱなしにしたほうが良いですよ」
「もう遅い」
「次の教訓にしましょう」
「ああ、泣いた」ぱたぱた、とスカートを叩いて立ちあがる。「もう、一生分泣いたかも」
「すっきりしましたか?」
「うん。便秘のあとみたいにすっきり」
例えが下品だ。また、僕は便秘になったことがないので、どれくらいすっきりしたのかはわからなかった。
「帰りましょうか」
「うん」
「元気出してください。また他に良い人がいますよ」
「いないよ。千羽さんより良い人なんて」
僕のあとについて、とぼとぼと歩きはじめる。
「どうやって帰るの?」
「タクシーで帰りましょう」
さきほど僕を乗せてくれたタクシーは、料金の精算中に無線が入り、どこかへ行ってしまった。N駅はそれほど栄えている駅でもないので、駅前にはタクシーがいない。携帯端末でタクシーを呼びだすしかないだろう。
「あのさ、どこか泊まってく?」
「やけになってません?」
「やけの定義によるけど」
そういって、高鳥さんは微笑んだ。ジョークを言えるくらいには回復したようだ。
「カラオケいこっか」高鳥さんは言った。「隣駅にあるから」
隣駅までは歩いて十分か十五分くらいだろう。N駅の周辺にはまともな施設が何もない。仕方なく、僕と高鳥さんは歩きはじめた。夜の大気は、さっぱりとしていて気持ち良かった。湿度は低く、過ごしやすい。
隣駅へ向かう道中、ずっと高鳥さんの愚痴をきいていた。
「断るなら、あんな思わせぶりな態度取るなって感じだよね」
「どんな態度か知りませんから、僕には判断できません」
「新人の頃、優しかったし」
「そりゃ、新人に厳しくしても、すぐにやめられてしまいますからね」
「わたしがじっと見てたら、微笑んでくれたりしたんだよ」
「ずっと見られていて、怖くて、顔が引きつったんじゃないですか?」
「あのさ、さっきから、わたしを慰める気ある?」
「悲しみよりも怒りのほうがマシかと思いまして」
「もう」高鳥さんは、演技めいた溜息を吐いた。「なんか、あんたと話してたら、何もかもどうでも良くなってくる」
そういう技なのだった。
本質を常にずらして答えることで、相手をするのがバカらしくなる。真剣に悩んでいたのがバカみたい、と思わせる手法だ。僕への好感度は下がるが、その分、冷静さを取りもどしてもらえる。
「わたしたち、振られちゃったね」高鳥さんは、ぽつりとつぶやいた。
「僕は振られてませんよ」そもそも、告白すらしていない。
「強がるなって」ぱたぱた、と肩を軽く叩いてくる。「今日は、飲もう」
「いつも飲んでませんか?」
「それは、まあ、そうだけど。今日のは、別腹だから」
「ビール腹ですか?」
高鳥さんは、結構強めに僕の尻を叩いた。ばちん、と良い音がした。痛かった。
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