第19話 やば。ちょっと出ちゃった
考える時間が欲しかった。どうしようか、と考える。ドアを開けるか。いや、しかし。それは危険だ。女神と直接会ってしまうことになる。会いたくないのか? いや、会いたい。けれど、怖い。
「おーい」大きな声で高鳥さんが叫ぶ。「開けろぉ」
「ちょっと、静かに」と津森さんが耳元で囁いていた。
「鍵があるから、開けてちょ」
高鳥さんは、ぱたぱたと、ポケットを叩く。しかし、なかなか出て来ない。見つからないようだ。
「もう寝てるんじゃないかな」津森さんが言った。
「そんなことはない。びびってるんだと思う」
「まあ、急に来られたら、びっくりするよね」
「おーい」また大きな声。「開けないと、ここで漏らすよ。いま、もうね、わたしの膀胱、決壊寸前だから」
それはまずい状況だった。
「え……」津森さんは言った。「離れてくれる?」
「一蓮托生」
「難しい言葉知ってるね」
「うん。お酒飲むと、頭が回るんだよね。くるくるって」
そういって、高鳥さんは首を回そうとしていたが、横を向いたところで、それ以上回らなくなっていた。首のストレッチをしている状態である。
ひとまず、高鳥さんの尿をどうにかする必要があった。べつに家の前で漏らされる分には構わないのだが、いや、構うが、津森さんが汚されてしまうのは勘弁願いたかった。
「ちょっと待ってください」僕は外に声をかけた。「いま開けますから」
「早くさ」高鳥さんは、もじもじしている。
「一分待ってください」
「三〇秒」
急いで自室へ引き返した。どうすれば良いだろうか。顔をあわせるわけにはいかない。僕のような人間が、津森さんと出会ってはいけない。近づきたい。でも、近づきたくない。相反する感情が渦巻いていた。しかし考えている暇はない。高鳥さんが漏らしてしまうかもしれないのだ。
少し考えて、いい道具があったのを思いだした。
僕が高校生の頃、姉が初任給で劇団四季の講演に連れていってくれた。そのときの演目がオペラ座の怪人だったのだ。姉はその劇にいたく感動したようである。帰りに怪しげなショップに寄り、僕にオペラ座の怪人の仮面を買ってくれたのだ。使い道もないが、捨てるのも忍びないので放置していたが、まさか、こんなところで使えるとは思いも寄らなかった。
しばらく見ていなかったが、大体、あそこにあるなというのは検討がついていた。一分ほど探していたら見つかった。その仮面をつけてみる。玄関へ戻り、ドアスコープをもう一度確認するが、まだ決壊はしていないようだった。
「遅くなってすみません。いま開けます」
「はい」津森さんは言った。
隣で高鳥さんは、恥ずかしげもなく手で股間を押さえている。小学生みたいだ。
「えっと、驚かないでくださいね」僕は言った。
「わかりました。頑張ります」と津森さんは言った。
ドアを開ける。
そこにいたのは、当然のことながら、津森つかさだった。高鳥さんもいたが、どうでも良かった。視界には入っていなかった。
津森さんの美しさは減じていない。むしろ、増しているとさえ思われた。いまが、彼女の絶頂期ではないだろうか。あまりの美しさに、体が震えた。映画などで感動したときの震えに似ている。頭に、ぞくぞくっと、さむけのような痺れが走る。目元が、じんわりと熱くなった。仮面をつけていて良かった。
「うわぁ、びっくりした」高鳥さんが僕を見て声を出した。「やば。ちょっと出ちゃった」
何がだ?
僕を押しのけるようにして、高鳥さんは部屋に入り、トイレに直行した。すぐに猛烈な勢いの水音がきこえてくる。きいているこちらが恥ずかしくなってきた。
「あの、えっと、はじめまして」津森さんは言った。「環ちゃんの、お友達ですか?」
環とは誰か、と一瞬だけ考えた。知らない名前だが、推測することはできる。
「違います」そして、はじめましても違う。「僕と高鳥さんは、なんというか、なんなんでしょう。なんでもないですね。強いて言えば隣の住人です」
「随分、仲が良いんですね」
「仲が良いの定義によりますね」
混乱して、会話が自動モードになっていた。あまり考えずに話している。
「あ、定義」津森さんが楽しそうに言った。「さっき、環ちゃんが言ってたんです。すぐ、定義定義っていって、わけわかんないんだって」
「一般的には、定義がないほうが、わけがわからないでしょう」
「その、一般的っていうのも、口癖だって言ってました」
なにからなにまで話されていた。
そんな会話をしていると、背後でドアの開く音がきこえた。
「ありゃ。まだ部屋に入ってなかったの? ほら、こっちこっち。飲み直そう」
そういって、こちらに手招きをしている。
「あの、御邪魔なようなら、これで」津森さんは微笑んだ。
「いえ」僕は言った。「大丈夫です」
むしろ邪魔なのは高鳥さんのほうだった。
結局、津森さんに部屋へ入ってもらうことになった。彼女に手渡された、店の残り物をレンジで温めることになった。僕がキッチンで準備をしている間、リビングからふたりの声がきこえる。何を話しているのかはわからないが、楽しそうだった。
トレイに皿や箸を載せて持っていった。
ローテーブルで、ふたりは隣合うようにして座っていた。
その向かいに腰を下ろそうとしたところで、高鳥さんが言った。
「グラスと氷と缶チューハイ」
「はい」僕はキッチンへ戻り、取りに行った。
とにかく、頭のなかが混乱していた。どう対処すれば良いのかわからない。リビングに戻りたくないような気さえした。僕の部屋に、女神がいるのだ。とある宗教を信仰している者の部屋に、神が出現したのと同値である。混乱するだろう。頭のなかが、ぼんやりとして、思考がまとまらない。僕の知能は、普段の十分の一程度にまで下がっていたに違いない。
グラスなどを持ってきて、リビングへ戻った。
「ご苦労」高鳥さんは言った。「それで、何、その仮面」
「いえ、見せるほどの顔でもないので」
「ま、そりゃそうだけど」高鳥さんは失礼なことを言う。「このチキン」
「豚だよ」津森さんが箸を持って、酢豚をつついていた。
「知ってる」と高鳥さん。会話が混線していた。「とにかくさ、千載一遇のチャンスなわけじゃない? 意気地なさすぎでしょ」
「高鳥さん、酒を飲むと頭が良くなるんですね」僕が言った。
「違う違う。普段、隠してるの。わたし、脳ある鷹だから……」高鳥さんは言った。「でも、鷹って、普通、脳があるよね。動物だもん」
これも巧妙なジョークなのかもしれない。高鳥さんが知的な人間なのか、あるいはそうではないのか、まだ測りかねていた。
ふたりの前に座り、酢豚を少し食べた。仮面の下半分が空いているので、食事には困らない。僕が食べている間、津森さんは、じっと僕の顔を見ていた。緊張した。
「何かついてますか?」僕は尋ねた。
「仮面」と津森さんは即答する。
まあ、そりゃそうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます