第05話 この世界のすべてのことは、まだまだ考える余地があると思いますよ

 なぜか僕の部屋のなかに女性がいる。これは、なかなか不思議な状況だと言えた。いままでの人生では、家族を除けば一度たりともない。もともと、友人はほとんどいなかった。皆無といっても良いかもしれない。小学生の頃に、ひとりだけ、仲の良かったと僕が勝手に思い込んでいる子はいるけれど、相手はどう思っていたかは知らない。その人は、引っ越してしまった。


 女性は僕の座椅子に勝手に腰を下ろし、首をあちらこちらへ動かしていた。どうやら僕の部屋を観察しているようだ。


 僕は、彼女と向かい合うような格好で席に着いた。


「あんたの部屋、なんもないね」

「少なくとも空気はあります」

「怒るよ?」


 もう怒っていますね、と言ったら、もっと怒るだろうな、と思った。


「殺風景過ぎ。砂漠みたい」


 わけのわからない表現で、面白かった。


「砂漠って、行ったことあるんですか?」

「ないけど。想像。悪い?」

「悪くないと思います」


 不思議な会話だった。成立しているようで成立していない。お互いに同じフィールドにいるのだが、違う競技をしているかのようだった。


 女性は缶チューハイを飲みはじめた。一気に、ぐいぐいと飲んでいく。ぐびぐびかもしれない。どちらにせよすごい勢いだった。もしも僕が同量を飲めば、一瞬で倒れてしまうだろう。そして、酒を飲んでいるのに、まったく表情が変わらない。赤くなったりしないのだ。


「あんた、飲まないの?」

「飲むと、すぐに眠くなるので、もうちょっと後にします」

「そう。くんせい、開けないの?」

「開けます」


 袋から取りだして、封を開いた。そのあとテーブルの上に置いたら、すぐに女性の手が伸びてきて、いかくんせいを食べはじめた。なんというか、自由な人である。驚いた。これは窃盗なのではないか、と一瞬だけ考える。


「あ、これ、美味しいね」

「ええ……」僕も一口食べた。うん、美味しい。

「でもさ、これ、歯につまるから、あんまり好きじゃないんだよな」


 そんなことを言いながら、いかくんせいをどんどん食べていく。一気に半分ほどが奪われた。僕も必死に取ろうとするのだが、女性のほうがペースが早い。勝てない。仕方ない。


「あんた、名前は?」

「赤瀬です」

「赤瀬ね。赤瀬赤瀬。なんか覚えづらいなぁ」


 失礼な。


「わたしはね、高鳥。高鳥環(たかとり たまき)」

「高鳥さんですか」

「知らなかった? お隣に住んでるのに?」

「お互い、表札を出してませんからね」

「まあね。プライバシー的なあれだよね」


 東京でひとり暮らしをしている人ならば、ほとんど表札を出していないのではないだろうか。女性の場合は、特にそうだろう。防犯の理由としては順当だが、宅配業者の人は困っているだろうな、と思った。


「赤瀬くんは、何者?」


 くん付けで呼ばれることはあまりないので驚いた。


「えっと、人間だと思います」

「それは知ってる」知られていた。「まさか、幽霊じゃないよね? なんか、そんな感じの陰の薄さがあるけど」

「僕は、自分のことを人間だと認識しています」

「うーん」高鳥さんは唸る。「なんか、あんまり会話が人間らしくないんだよね。ロボットみたい」

「ロボットと話をしたことがあるんですか?」

「ないけど」即答する。「想像で言ってみた」


 ロボットであれば、感情がないので楽に生きることができるだろうな、と思った。あるいは、将来的には、感情という機能さえもプログラムされるのだろうか。どちらにせよ、感情というのは、人間という観測者がいてこそ見える、あるいは勝手に見てしまうものだ。幻想に過ぎない。


「怒った?」高鳥さんは、少し甘えた声で言った。

「いえ、全然、まったく……」あまりにも予想外の質問だったので、驚いた。

「ああ、そう。なんかさ、ロボットみたいって言ったから、怒ったのかなって」

「ロボットみたいって、褒め言葉だと思いますよ」

「褒めてないよ。貶したの」わざわざそれを僕に言うか?「ほらさ、きみも飲みなよ。お酒。美味しいよ」

「はぁ、わかりました」

「わたしのお酒が飲めないって?」


 急にパワハラをしてくる。べつにどちらのパワーが上というわけでもないので、パワハラというのは、正確な表現ではない。就職したら、上司にこういうことを言われるのではないか、という想像をして、それが連想されたに過ぎない。


「高鳥さんのお酒は飲みません。僕は、自分のお酒を飲むので大丈夫です」

「当たり前じゃん。あげるわけないじゃん」


 僕のいかくんせいは勝手に食べたのに、と思った。

 缶を開ける。カルピスサワーと書かれていた。僕はカルピスが好きだし、カルピスソーダも好きだ。カルピス味のアイスなどがあると、つい買ってしまう。新しい味のカルピスが出たときも同様だ。でも、結局、普通のカルピスが一番美味しいな、と思う。結局は、このシンプルさが最高だ、ということを確認するために、さまざまな亜種を試しているのではないか。


「どうしたの? 飲まないの?」

「カルピスについて考えていました」

「え? 何? いまさら、カルピスについて考えることなんてある?」

「この世界のすべてのことは、まだまだ考える余地があると思いますよ」


 そう言って、僕はカルピスサワーを一口飲んだ。あ、普通のカルピスソーダみたいだ、と思ったのは最初の三十秒くらいだった。すぐにアルコールが回り、体がぽかぽかしてくる。手のひらを広げてみると、赤くなっていた。


「うわ、すごい。茹で蛸みたい」

「赤い風船みたいでしょう?」

「いや、そこまでは言ってない」


 なるほどな、と思った。そろそろ頭痛が来るだろうな、と予想した段階で、急に思考が良くなった。いろいろなことが考えられるようになる。いまならばどんな問題だって解決してしまえそうな気がした。ああ、そうだ。いろいろと考えなければならないことがあるのだった。


 僕は、机の上に置いてあったノートパソコンを開いた。

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