第04話 壁を殴って教える、というのもすごい台詞だ。バイオレンスである。

 家を出て鍵を閉める。夜はまだ涼しい。パーカーを羽織っていないと風邪を引きそうだ。いや、すでに風邪を引いているので、この表現は不適切かもしれない。


 家から歩いて二分の距離にコンビニがある。普段からよく利用している。以前、男性の店長に顔を覚えられてしまった。いつもありがとうね、などと言われたのだ。そのときは、三ヶ月くらい、わざわざ遠くのコンビニへ通ってみた。そして、そろそろ忘れてくれたかな、と思い、いつものコンビニへ行くと、しばらく来てなかったね、などと言われた。非常にうんざりして、それ以来、諦めてこのコンビニへ通っている。


 普通の人は、そういう馴れ馴れしさが気にならないのだろうか。僕はどうしても嫌な気分になってしまう。フレンドリィな接客だ。そういうのを好む人もいるのだろう。でも、僕は彼とプライベートな関係を築きたいわけではない。向こうもそんなつもりはないだろうけれど。もっとビジネスライクに、冷たく接して欲しいのだ。早くAIが接客するような時代にならないだろうか、と思った。


 幸いなことに、深夜のコンビニには、いつもの気怠げでやる気のなさそうな根暗な店員しかいなかった。眼鏡をかけていて、髪はボサボサで、顔には吹き出物が出ている。やや不潔感があった。彼は常にやる気がない。たまに欠伸をしている。声も小さい。必要最低限の会話しかしてこないし、たまに必要最低限の会話すらしてくれない。スプーンや箸をつけるかどうかさえきいてくれないことがある。それでも、僕は彼に好感を持っていた。こんな人間でも、ちゃんと社会に適応して生きているのだ、と思えて嬉しい。僕にはできないことを、堂々とやっている。そこが素晴らしい。人間って良いな、と思う。


 缶に入った酒を三本ほど買った。僕は酒を一口飲んだだけで、酔っ払ってしまう。頭が痛くなって、思考が鈍重になり、眠くなる。いわゆる下戸だった。


 僕の母も下戸で、さらに言えば祖父も祖母も下戸だった。下戸一族である。父と姉と妹は酒が飲める。僕は酒を一口飲んだだけで眠ることができる。どんな麻酔よりもよく効く。


 酒の種類はなんでも良かったが、甘そうなものにしておいた。ついでに酒のつまみも買った。僕はいかのくんせいが好きで、いつもコーラと一緒に食べている。酒と一緒に食べたらもっと美味しいのではないか、と期待するのだけれど、酒を飲んだあと記憶が飛ぶので、本当に美味しかったのかどうかは未知である。


 会計をしていると、ひとりの女性がコンビニに入ってきた。

 ちらりと顔を見ると、知っている女性だった。例の、隣に住む騒音壁殴り女である。彼女は店内を足早に移動して、ゼリーとポテトチップス、そして缶チューハイを手に取っていた。あまり顔をあわせたくない。マンションの廊下であったときも、軽く会釈をするくらいだ。ここはマンションではないのだし、お互いに知らないふりをしておいたほうが良いだろう。


 そんなことを思いつつ、会計を終えて外に出た。


 しかし、なんだか違和感があった。ふと袋のなかを見ると、いかのくんせいが入っていない。どうやら、あの根暗店員が入れ忘れたらしい。じっと見ていないのが悪かった。彼は手際が悪いので、これくらいのミスは日常茶飯事なのである。レジを打ち間違えることも多々あるので、お釣りなどをしっかり確認していなければならない。


 取りに戻る。レジでは、すでに例の隣に住む女性が会計をしている最中だった。

 入ってきた僕の姿を見て、店員は軽く頭を下げ、くんせいを差しだしてきた。


 せめて一言謝るくらいあっても良いのではないかと思ったが、そのふてぶてしさも悪くない。むしろ自分を貫いていて格好良いと言える。頭を下げただけ偉いではないか、という気もした。もっと怒ったほうが良いのかもしれないが、全然、怒りが湧いてこない。むしろ親近感さえ沸いてくるから不思議なものだった。


 コンビニを出たところで、つづけて女性が出てくる。


「やっほー。騒音咳野郎」と後ろから声を掛けられる。まさか、僕のことだろうか。

「どうも、こんばんは」

「さっきの何? なんでくんせいもらってたの? もしかして、あいつとつきあってるの?」


 そんなわけあるか、と思った。


「サービスされたわけではありません。袋に入れ忘れられていた商品を受け取っただけです」

「へぇ、そうなんだ。あいつ、そういうところあるよね。この前なんてさ、ファミチキ、注文したのに、入ってなかったことあったよ。家に帰ってから電話して、届けに来いって言ってやったけど」


 クレーマーなんですね、とは思ったけれども言えなかった。


「結局さ、夜中で人手が足りないから、自分で取りに来てくださいとかいうわけ。信じらんないよね」

「べつに、信じられると思いますけど」

「あっちは一個分無料でなあなあにしようとしたから、三個分にしてって言ってやったの。そして、その日に三個食べたんだけど、お腹が痛くなっちゃった。最悪」

「いやしい女だな」思ったことを小声で言ってみた。

「あ? なんか言った?」

「いえ、なにも」言ったが。

「それにしても、あんたって最近、咳しすぎじゃない?」

「申しわけありません」

「いや、べつにいいんだけど。肺炎とか、結核とかじゃないよね?」

「普通の風邪だと思います」

「これ以上ひどくなるようなら、病院行きなよ?」

「ありがとうございます」意外な台詞だった。「やさしいんですね」

「べつに、そういうわけじゃないけど」少し照れているようだった。


 勝手に、もっと恐ろしい人かと想像していた。しかし、意外と良い人なのかもしれないな、と自分のなかの評価を修正した。


「あんたにはね、前から言っておきたかったことがあるの」

「はぁ」間の抜けた返事をしてしまった。

「たまに歌ってるけど、あんた、キー外れてるからね。たまに、壁を殴って教えてあげてるのに、全然、直らないんだから」


 壁を殴って教える、というのもすごい台詞だ。バイオレンスである。

 そして、僕が音痴であることが発覚してしまった。ショックである。

 少し嫌味を言ってやりたくなった。


「こちらからも、ひとつ言わせてもらいますけど」反撃に転じる。

「あぁ?」と睨んでくる。


 一瞬、ひるんでしまったけれど、少しだけ頑張ってみることにした。


「あの、テレビの音量とか、笑い声とか、少し大きいので、気をつけてください」

「もしかして、あんた、わたしの生活音をきいて興奮してる人?」

「してない人です」大いなる誤解だった。「勝手にきこえてくるんですよ。壁が薄いから」

「あ、ちょっと待った。薄いとか、壁とか、そういう言葉は、わたしの前ではNGワードだから」

「なんでですか?」

「なんでも」彼女は自身の胸部を手で押さえていた。


 よくわからない。不思議なものだった。会話は難しい。


「あんた、変なやつだね」あなたには負ける。「ま、ここで会ったのも何かの縁か。これから飲むんでしょ? 一緒に飲まない?」

「遠慮します」

「じゃ、あんたの家で良い? 片付いてる?」

 

 頼むから話をきいてくれ……。

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