第03話 このパソコンのHDDがすべて津森つかさで埋まる日が来ると良いな
隣の部屋に住んでいるのは若い女性である。たぶん年齢は僕と同じくらいだろう。髪を茶色に染めていて、なんというのか、美人ではある。とはいえ、もちろん、津森さんにはかなわない。これはあくまでも僕の判定によるもので、僕以外の人間にしてみれば、どちらも同程度の美なのかもしれなかった。
最近、風邪を引いていて、咳ばかりしているので、隣の人はうるさくて怒っているようだ。しかし、病気なのだから仕方がないではないか、と思う。それに、隣の住人は、普段から深夜に映画を大音量で見たりしているのである。こちらも壁を殴ってやろうかと何度も思った。けれど、それをしても悲しみが悲しみを生むだけである。我慢していた。それに、壁を殴っても手が痛いだけで、特にメリットもないだろう。
咳を抑える目的で、マスクを装着した。布で遮ることにより、少しは音がマシになるだろうと考えたのである。
パソコンの前に座り、考えろと自分に命令を下す。
思考をすることで大抵の問題は解決する。
現実を観察し、計画を立て、正確にシミュレートし、一歩ずつ進んでいくことで、理想に近づくことができる。
ここしばらく、まったく脳を使っていなかったけれども。
かつての僕は、もっと考えることができた。
津森つかさに、いかにして接近するか。
目をつむり、息を止めた。
十秒、二十秒と時間は過ぎていく。
様々なパターンを考えた。
そして、ひとつの案を思いつくことができた。
インターネットで、津森つかさの情報を得ることはできないだろうか。
いまは昔と違い、様々な個人情報をインターネットに載せてしまう時代である。昔と違い、随分とメディアリテラシー教育などもされているから、それほど不用意に個人情報を漏らすことはないかもしれない。それでも、調べてみる価値はあるだろう。なにせ、インターネットは無料だ。家にいながらにして調べることができる。
パソコンを開き、ウェブブラウザを開いた。
まずは、素直に津森つかさで調べてみた。このときに出てくる情報の大半は価値がない。もしも津森つかさという同姓同名の芸能人がいれば、それだけで情報を手に入れることは非常に難しくなる。しかし、津森さんの同姓同名は、ほとんど存在していないようだった。
出てくる情報の大半は、姓名判断系のサイトだった。どのような名前をつければ運勢が良くなるか、みたいなもので、ランダムに名前が組み合わされている。そのなかに津森つかさの名前があった。いろいろな姓名判断のページを見てみたが、どうやら津森つかさは幸運な星の下に生まれてきたようである。しかし、他の名前のページも見てみたが、どれも良いことばかり言っているような気がする。サイト自体の信憑性が疑われる。
そこで、自分の名前、赤瀬晶で調べてみたら、ひどいことを言われていた。絶対にやめたほうが良い名前らしい。運勢は最悪で、病気になりやすい。僕個人をピンポイントで狙って書いたとしか思えないほど悪いことが書いてあった。人に恨みを買うような真似をしていない。そもそも大抵の人に記憶されないような人生を送ってきたはずだ。それにしてはあんまりだ、と思ったけれども、占いなど所詮はバーナム効果に過ぎない。実にバカげている。
津森つかさの名前で検索をつづける。次に、市の体育大会の成績一覧表が発見された。その大会は、大阪の北摂と呼ばれる地域で開催されていた。高校時代、津森さんの住んでいた場所ではないかと推察される。そこのレースでは三位になっていた。津森さんは、なかなか運動ができるのだ。高校時代には陸上部に入っていた。僕の記憶によると、二年秋の地区大会で入賞していたはずである。
僕は体育祭などに興味はなかったのだが、津森さんの活躍を見るためだけに参加していた。彼女の動く姿が美しかった。そのすべてを映像として脳内で再生することができる。見逃さないように、じっと見ていた。体育祭に参加している誰よりも真剣に、津森さんのことを見ていたと思う。
そんな懐かしい想い出がよみがえってきた。
インターネットには、津森さんの痕跡がある。こういう些細な情報を集めていくことで、少しずつ津森さんに近づくことができるのかもしれない。個人情報の取り扱いに厳しい昨今、いつページが削除されてもおかしくない。僕はウェブページを画像形式で保存することにした。こうしておけば、いつ消されても大丈夫だ。このような重要文化財は僕のような善人が守ってあげる必要があるだろう。
デスクトップに津森フォルダをつくった。少し考えて、津森さんというフォルダ名にした。なんだか恥ずかしくなって、女神フォルダという名前に変えた。これでも恥ずかしいが、パソコンを開いてすぐに津森さんという名前があるよりはマシだ。津森つかさという名前は美しすぎる。心臓に悪い。見ているだけでどきどきする。高校生の頃、消しゴムにマジックで津森つかさと書いて、恥ずかしくなって、その場でゴミ箱に捨てたあと、親に見られたらまずいな、と思って近所の公園へ埋めにいったのをなぜか思いだした。思いだして叫びたくなったが、そうするとお隣さんから怒られそうなので、布団に顔を埋めて叫んだ。なんだかとても恥ずかしかったが、微笑ましいというか、くすぐったい感じの恥ずかしさだった。悪くなかった。生きているという感じがした。
ある程度叫んで正気に戻ったところで、ウェブでの捜索をつづける。いや、すでにこの行為が狂気の域にあるのは理解している。なにが正常でなにが異常かというのは難しい問題である。また、正常であることに大した価値はない。
津森さんが進学した大学の名前を入れてみると、彼女が所属していたと思われるサークルや、ゼミの情報が出てきた。津森さんは、とある大学の外国語学部に進学していた。サークルのTwitterアカウントが発見されたので、昔のデータを必死に掘り起こす。そうしていると、サークルの飲み会の画像などが載っていた。
どうやら、津森さんは美人であるため、サークルの勧誘員として重宝されていたらしい。美人なお姉さんがサークルにいますよ、というような紹介がされている。完全にセクハラだ。僕は津森さんの写っていた画像をひとつひとつ保存し、女神フォルダへと放り込んだ。少しずつ、僕のパソコンに津森つかさが詰まっていく。大切なもので満たされていく。いつか、このパソコンのHDDがすべて津森つかさで埋まる日が来ると良いな、と考えてみたが、客観的に自分を観察して、ちょっと気持ち悪い思考だな、と思った。ちょっとどころではないかもしれない。
ずっと画面を見つづけていたので、少し目が疲れた。そろそろ眠ろうかな、と思う。眠れないかもしれないけれど。いや、どうせ眠れないのだ。また朝方まで、ずっと布団のなかで悶々とすることになるのだろう。そして、一時間とか、二時間眠った段階で目が覚める。日中も、何時間かに一度眠くなり、数分間眠ったあと、また目が覚めてしまう。
病院に行ったほうが良いのかもしれないが、面倒だ。それに、僕は自分の頭がおかしいと思っているけれど、それを正式に認めたくないという矛盾した気持ちもあった。実際に病院へ行き、薬を処方されたら、正式に頭のおかしな人間だということを認定されたことになってしまう。それを恥だと感じてしまうのだ。
一瞬でも自殺を決行しようとしたのである。
僕の頭は、相当程度におかしくなっているのかもしれない。
しかし、いまは頭の調子が良い。まったく死にたくなどない。むしろ生きたい。
生きて、津森さんの情報を摂取したい。
さて、今日も布団に挑戦しますか、と考えたところで隣の部屋から声があがった。どうやら笑っているようだ。バラエティ番組を見ているのではないか、と推察される。この時間帯は、彼女、いつもそうなのである。とにかく楽しそうに笑っているのがわかる。幾ら壁が薄いマンションとはいえ、この防音性能はいかがなものだろうか。このマンションは、以前、静音性の低さが原因で、殴り合いの喧嘩があったという噂が掲示板に書き込まれていたけれど。
なかなかうるさい。このまま布団に潜り込んでも、気が散って、眠れないだろう。
起きていても良いのだが、しっかりと寝て、明晰な思考を取りもどしたかった。
最終的にはいつも後悔することになるのだが、酒の力を借りることにした。
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