第02話 津森つかさは僕の女神である
しばらく呆然としてしまった。思考が停止していた。ホームに電車が入ってくる。僕のすぐ前に車両が止まる。そのときに起きた風が、全身に吹き付ける。人が車両から出てくる。入り口に立っている僕を邪魔そうに見ていた。
僕は、ようやく我を取りもどした。
幻覚を見ていたのだろうか。それとも、あれは現実か。
急いで隣のホームへ向かおうかと考えた。しかし、つづけて反対側のホームにも電車がやって来る。もう間に合わない。
僕はひとつ息を吐いた。冷静になる必要がある。ひとまず来た電車に乗った。それほど混んではいないが、座るスペースはなかった。ドアの近くに立つ。向かい側のホームを見たが、電車で遮られて見えなかった。ガラスに自分の顔が映る。ひどい顔をしていた。眼の下の隈がひどい。最近、なかなか眠れていなかった。眠れても、すぐに目が覚めてしまう。
息を止めて思考をはじめる。僕の癖だ。何かを深く考えたいとき、息を止めて自分のなかへ潜る。そうすることで思考が研ぎ澄まされていく。
あれは間違いなく津森さんだった。彼女の姿を見たのは、高校の卒業式以来だ。最後に会ってから四年ほど経過している。しかし、何も変わっていなかった。いや、髪型や、雰囲気などはたしかに変わっていた。少し大人っぽくなっていた。それでも、彼女の表面に現れる神々しさなどは、不変である。
津森つかさは僕の女神である。僕のという所有格をつけているが、実際に僕が所有しているわけではない。僕が勝手に崇めているというだけの話だ。僕が出会ったなかで、もっとも美しい女性。それが津森つかさである。ただひたすらに美しい。なぜ美しいのか、と幾度も考えたことがあるけれど、答えは出ない。美に理由はないのだと思う。愛に理由が必要ないのと一緒だ。
僕と津森さんは、大阪の緑川高校という学校に通っていた。一年から三年まで、ずっと同じクラスだった。入学式の日に、一目見た瞬間、背筋が冷えた。その美しさは怖いほどで、見ているだけで、涙が込み上げてきた。
結局、高校三年間で、津森さんと話をすることは一度もなかった。
東京の大学に進学する、という話はきいていた。もちろん、直接津森さんの口からきいたのではなく、津森さんが友だちと話していたのを盗み聞きしたのである。だから、僕もなんとなく東京へ進学することに決めた。もちろん、会うことなどできないだろうけれど。少しでも近くにいたいと、そう思ったのだ。
それから四年が経過し、僕はすっかりダメになっていた。
生きる目的がわからなかった。
これから先、もっと辛くなる前に、人生を終わらせようと思った。
けれど、それは違った。
僕は、生きる目的を忘れていただけだ。
それを、思いだすことができた。
僕には、津森さんという女神がいたのだ。
止めていた息を吐く。
期せずして深呼吸をすることになった。
電車内の生温い空気が肺に充満する。少し気持ちが悪い。
でも、悪くない気分だった。
まだ、もう少しだけ生きていけるような気がした。
いつの間にか、最寄り駅だった。上石神井駅。練馬のクソ田舎にあるベッドタウンだ。僕はここで四年間を無為に過ごしてしまった。大学にもほとんど通うことなく、ひたすらに孤独を満喫していた。良い想い出もなければ悪い想い出もなかった。
自殺しなくて良かった、と思った。よく考えてみると、高田馬場駅ではすべての電車が止まる。停車しようとしている電車に飛び込んでも、上手に死ねないかもしれない。自殺するならば、特急が通過するような駅でするべきだろう。そんな単純なことさえわからないくらい、僕は追い込まれていたということか……。
なぜか足取りが軽い。寝不足と治りかけの風邪で体調は悪いはずなのだが、楽しかった。思わず笑みが込み上げてくる。止められない。いまの僕は、かなり変な人間だろう。頭がおかしいと思われているかもしれない。まあ、実際におかしいのだけれど。
そのまま家へ戻った。上石神井駅から歩いて三分の距離にある、五階建てのマンションである。そこの四階が僕の家だった。間取りは2Kで家賃は7万円。四年分の埃が積もりに積もっている。なんというか、そこに居るだけで絶望的な気分になる部屋だった。とにかく、すべてのやる気が失われていく部屋なのだ。
この部屋に引っ越してきたときは、そうではなかった。大学生活に夢を描いていた。小中高とほとんど友だちはできなかったが、大学に入れば、何か変わるかもしれないと思えた。けれど、もちろん、そんなことはなかった。たとえ環境が変わっても、自分が変わらなければ、世界は何も変わらない。結局はいつものようにひとりになった。
部屋が可哀想になった。こんな部屋にしたのは、他でもない僕だ。
窓を開ける。これ自体が久しぶりのことだった。ふたつの窓を開けて、風通しを良くする。それだけでも、少し爽やかな気分になった。
何か新しいことをはじめよう。
素直にそう思えた。
目標もできた。
僕は津森さんに近づきたい。
それが物理的なものなのか、あるいは精神的なものなのかはわからない。ただ、ぼんやりと、津森さんという高貴な存在に接近したかったのだ。それだけで、随分と僕の魂は救われるような気がする。
そうと決まれば作戦を練る必要があった。
いかにして津森さんに近づいていくか。
まず、もっとも簡単なのは駅で張り込みをする手だろう。彼女を見かけた高田馬場駅で、じっと待つ。もちろん確率が低いことはたしかだが、この広い東京を闇雲に探すよりは幾分かましである。
さきほどの記憶を探る。
彼女は普通の服装をしていた。
旅行者という感じではなかった。小さなカバンを手に持っていた。
西武新宿線の沿線に住んでいるのではないか、と想像する。もちろん、西武新宿線に友だちの家やバイト先があるということも考えられる。けれど、大体そんなところだろう。
向かいのホームにいたということは、津森さんは西武新宿駅へ移動したということになる。高田馬場駅の次は、終点の西武新宿駅しかない。もし、いまから高田馬場駅に行き、待っていたとしても、会えるとは限らない。たとえば西武新宿線沿線の家から、高田馬場へ出てきた。そのあとに、新宿に用事ができて移動したという場合は、わざわざ高田馬場に寄らずに最寄り駅へ戻ることができる。
どうしたら津森さんに近づくことができるのか。
難しい問題ではある。けれど、考えていて楽しい。
しばらく使っていなかった脳が、フル稼働している。
随分と機嫌が良くなっていたようで、歌いたくなった。息を大きく吸い込んだら、むせて咳が出た。咳は連鎖し、なかなか止まらない。
そのとき、隣の部屋の壁を叩く音がした。
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