かわいいネットストーカー

河東遊民

第一章

第01話 基本的に動物は自殺をしない

 口笛でも吹きたいくらい機嫌が良かった。吹いてみることにした。先週からずっと風邪を引いており、喉を痛めているけれど、まあ、いけるだろう。

 

 息を吸い込んだ。その瞬間にむせてしまう。しかし、もう少しだけ頑張って、口笛を吹いてみることにした。いまの自分にもっともふさわしい曲はなんだろうか。曲名は思い出せないが、『レザボア・ドッグス』という映画の主題歌が良いだろう。吹いてみると、弱々しい息が漏れるだけで、音が出なかった。


 僕は駅のホームに立っていた。いまは平日の昼間だが、やけに人が多かった。特に若者の姿が多い。皆、お洒落をしている。そうか、きみたちは春休みなのか、と思った。いまは三月の後半だ。詳しい日付はわからない。知らない。


 しかし、僕は、春休みよりも、もっと長い休みを手に入れることに成功した。客観的に見て、高校生たちと比べたら、恵まれた状況にあると言えるだろう。まあ、なんというか、大学を退学したのである。


 いまの僕は自由人だ。なんだってできる……というのはもちろん嘘だ。百メートルを十秒で走ったりはできない。たぶん十五秒くらいかかるのではないか。それでも、少し時間をかければ、誰でも百メートルを走ることができる。ちょっと大変だが、フルマラソンを走ることだってできるだろう。基本的には、少し時間をかければ、大抵のことはできる。


 そういうわけで、死ぬことにした。なんでもできるのだから、死ぬことだってできるだろう。何か夢があって大学を中退したわけではない。ただ、なんとなくやる気が出なくて、ダメになったのである。このままだらだらと生きていくことに意味があるとは思えなかった。社会資源を浪費するよりも、死んでしまったほうが世界のためになるだろう。


 基本的に動物は自殺をしない。レミングの集団自殺という例を持ち出して反論する人もいるだろうが、それは例外的な部類だ。それに、あれはそもそも自殺ではない。自殺と人間が認識しただけのことである。自殺ではなく自殺行為だというのが正しい表現だろう。


 なぜヒト以外の動物は自殺をしないのか。それは未来について考えないからである。動物には過去と現在しかない。対して人間の場合は未来を想像することができる。将来は、いまよりも、もっと悲惨なことになるであろうと想像し、死を選ぶのである。自殺できるというのは、人間の知性が高等であることの証左だ。


 自殺をすると決めたので、次に方法を考える。基本的には苦しまずに死にたい。なぜならば、自殺というのは、将来の苦を避けるため、余力があるうちに死ぬことなのだ。苦を避けるために死ぬのに、死のせいで苦しんでしまっては本末転倒である。


 理想は眠ったまま死ぬことだ。薬物中毒などで死ぬのが、もっとも良いと思われる。そのような薬物を手に入れることも難しくない。表だった取り引きは難しくなったが、現在、入手経路は多様化しており、買おうと思えば幾らでも買える。これは候補に入れておこう。


 もっと簡単なのは、電車が来た瞬間に線路へ飛びこむことだろう。そうすれば一瞬で死ぬことができる。痛みを感じる暇もないはずだ。なかなかにメジャーな死に方だと言える。ただ、電車に轢かれたあと、しばらく動いていた、あるいは話すことさえできたという話をきいたことがあった。やや危険度は高いと言える。


 あとは首吊りや入水なども想像する。どれもそれなりに苦しそうだ。できれば日本でも安楽死制度を整えてほしいものである。他の国で安楽死が導入されたケースもあるようだが、安楽死が許されるのは、病気で苦しんでいる人などに限られている。もっと普通の人が、カジュアルに死ぬことができれば良いのではないかと思う。カジュアルな死というフレーズは、なかなか面白いと評価できた。思わず微笑んでしまった。


 本当に僕は死にたいのだろうか、と自分にきいてみることにした。


 どう? きみは、本当に死にたいのかな?

 さあね、それは知らないよ。ただ、なんとなく、生きていく気力がわかないんだ。何もしたくない。一日中、家のなかで眠っていたい。

 それって、死ぬことと、何が違うんだろうね?


 眠りと死は似ている。眠ることの心地よさを知っている者は、死を楽しむことができるだろう。だから、死ぬ間際の苦しみというのは、死という悦楽に至るための代償なんだね。死というものが素晴らしいからこそ、そこに至るのが難しいように設定されているのさ。


 うーん、我ながら、何を言いたいのか、よくわからない。

 自分自身と会話をする危険なやつになっていた。

 死にたいというよりは、生きていきたくないというのが本当のところだろうか。


 実際のところ、何かひどい苦しみを抱えているわけではない。僕は、精神はともかく肉体的には健常で、お金に困っているわけでもない。辛いことがあったわけではない。そもそも、僕はずっとひとりで生きているので、辛い目にはあわない。人間関係のトラブルが皆無である。生きていて辛いと思うのは、多くの場合、人間関係に問題があるか、金銭的な問題があるかの二つに大別できる。


 たぶん、気の持ちようですべてが変わるのだと思う。この死にたいという気持ちは一時的なものに過ぎない。何か良いことがあれば、死にたいという気持ちは消え失せ、普通の人のように生きていくことができるのかもしれない。でも、そんなことが本当に僕の人生に起こるのだろうか?


 僕は二十二年間生きてきた。他者と上手にコミュニケーションを取ることができない。ひとりでいるのが好きだった。高校、大学までは、なんとかそれでも生きていけた。ひとりでもなんとかなった。いや、なんとかなっていないから大学を退学することになったのかもしれないが、まあ、そこまで困るようなことはなかった。


 人生の猶予期間は終わった。もう準備を終えて、社会に出なければならない。そういう時期に来ていることは間違いない。そうすると、必然的に他者と接しなければならない。それが僕にはとてつもなく恐ろしいことのように思われるのだ。とにかく誰とも会話をしたくない。ストレスを感じる。どうにかひとりで生きていきたい。でも、ひとりで生きていくことができるのは、真の強者だけである。何か、特別な才能がある人間以外にはできないことだ。


 残念ながら、僕は弱かった。何も為さないまま、何者にもなれないまま、歳だけを取ってしまった。弱者は自由を夢みてはならない。どこかの段階で自由を捨て、現実と折り合いをつけて生きていかなければならない。そうでない者は死ぬしかない。よって死ぬ。実に明晰な論理だと言える。


 さて、死ぬか。


 そんな軽い気持ちで、一歩踏み出した。


 もうすぐ電車が来るらしい。そのようなアナウンスがきこえた。


 ああ、すべてが終わるのだ。そんな風に思った。


 不思議と恐怖はない。むしろ晴れ晴れしい気持ちだ。


 いままで楽しい人生を送ることができた。


 他の人たちに比べたら、地味な人生だったかもしれない。ずっとひとりで、本を読んで、いろいろなことを考えて生きてきた。嫌なことも苦しいこともいろいろあった。それでも、なかなか良い人生だったと思う。たぶん、多くの自殺者は、幸せな気持ちで死を迎えたのではないだろうか、と思った。


 そのとき。


 ふと前方を見ると。


 そこに、女神がいた。


 見間違えかと思い、何度か瞼を瞬いたが、消えない。ずっとそこにいる。


 死ぬ間際、僕の脳が見せた幻覚ではないか、と思えた。


 しかし、そこにいたのは、紛れもなく女神だった。


 津森つかさ。彼女は、僕の女神なのだ。

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