/5 紅、拷問少女

 

 山間を縫い、木々が円状に開けた伐採途中の林に出てから、グレーテルは立ち止まった。

 真瀬家から十分に離れ、人目も付かない場所へ。すでに隠れる必要はなかった。

 背後に巨木をおいて、振り返ると―――神父が十メートル先に追いつく。


「逃げるのは止めたのかね、お嬢さん」


 月明かりに浮かぶ藍の神父服(カソック)。

 瞳には怒りを湛え、口元には凶気を湛える。

 右手には銀光を放つ一本の短剣、左手にはロザリオを握り締める。


 それは聖でありながら殺戮をゆくモノ。

 神罰の代行。

 主の敵対者を抹殺する狂徒の果て。

 ―――冷めた心で微笑みかけながら、少女は堂々とソレと向き合った。


「アナタ方(カトリック)は雑でいけませんねぇ。異端を罰するのなら審問するのがルールでしょう?」


 それはまったくの本心。

 昨日見た教会の虐殺の痕跡にも、少女はひどく心を痛めたのだ。

 死した血肉には抵抗の跡がなかった。ただ弁解の余地も与えられず、彼らは自らの罪を何一つ理解しないまま死んだ。

 それはおかしい。それでは信心が量れない。せめて問うべきを問わなくてならない、と。

 しかし神父はその思考を悪と断じた。


「黙れ、異端(プロテスタント)の魔女め。異端が異端を裁くなど冒涜以前の問題だ。。それが神の意思でない限りな」


 吐き捨てるように言って、神父は一歩。


「あのサバトの連中といい貴様といい―――どうにも今回の狩りは邪魔が多い。ヤツらが逃げ切っては適わないからね。早く終わらせてしまうに越したことはないだろう? お互いに」


 お互いに。神父は含みのある顔でそう言った。

 両者は互いの正体に勘付いている。

 本来、主の敵対者を滅ぼすことにおいて少女と神父の在り方にそう違いはない。

 ただ方法と―――信じる形が違うだけ。

 それが決定的な、殺し合うに足る理由であった。

 任務の最中で相対すれば、潰し合うのは必然。

 

 神父の短刀が十字を切る。

 闇の中にありて、二筋の光。


【――――解析(アクセス)。α(かの地)よりΩ(ここ)へ】


 紡がれる詩は祈りであった。

 書にある聖句ではない―――高らかなる聖唱。

 

【私はワタシに与えない】


【無知。清貧。無得なるが故に、ここに在る】


【挽き砕かれよ、我が血肉。いずれ一粒の麦のように】


【秘跡はこれ聖なる泉】


 かつて列聖者が行った奇跡。それを再現する秘術。

 教会の行する七秘跡の番外。人の身に余る秘跡の行使。

 

【〝彼女〟から〝ワタシ〟へ】

 

 ――少女の信じる書物には決して記されない人が人の意思で行使する神秘。

 

 ――故に少女はこの奇跡を認めない。

 聖人が行った奇跡であろうと書に記されない限りは、『信仰』であったとしても『真実』ではないのだから。


 少女はスゥ、と右の手を振り上げる。

 それは無音の投擲。袖から取り出した針は弾丸の如き最高速で放たれた。


を――――――っ」


 男が振り払った短剣は空を切る。独壇場で酔うルチアーノには、この一撃を退くことができなかった。

 重い衝撃と共に後方に弾かれる頭部。

 針はガラス細工を粉砕し、見開かれた右の角膜に突き刺さる。脳髄を貫通し、頭蓋の後部に至ってようやく止まっていた。

 

「なんて……コト……」

 

 グレーテルの喉から、呻きにも似た声が漏れる。

 針は止まったが。

 それだけだったのだ。

 眼球を貫かれ、脳髄を潰され、頭蓋をえぐられてなお――姿神父は笑う。

 突き刺さったオブジェをゆっくりと引き抜く。―――血の一滴もこぼさないままに。


「アハハハハっはアハハハハッ――」


 まるで逆再生のフィルムのように。残された彼の瞳には一片の傷もなかった。 

 

「いや、驚かせてすまないね。ホントウにすまない。すまないよ、ごめんよ」


 投げ捨てられる審問の針。からん、と虚しい反響を残して地に転がった。


「それが、アナタの……!」


 あまりの光景に喉を震わせる少女。

 事実、それは紛れもない再生の奇跡であった。


「そう! これこそが唯一絶対の神が私に与え賜おうた零番目の秘蹟」

 

 傷一つない身体で、神父は与えられたその権威(ちから)の名を謳(うた)い上げる。


「無色なる水源――【】」


 即ち、再現された奇跡は聖女ベルナデットの聖泉発見譚。

 傷癒す聖母の涌水。

 治らぬ傷、治せぬ痛みを取り除くことこそ奇跡の本懐。

 フランス南部、イタリアとの国境の町ルルドには聖母が湧き出させた泉があるという。そして、その地は教会において第一級の聖地に定められた。

 その泉を産湯として生まれ落ちたこの男は、体内水分の三割を聖水へと置換し、自らの聖別したのだ。


「痛みなど感じぬよ糾弾者(プロテスタント)? この私には無原罪の加護があるのだから」


 故に、傷つかない。内側から流れでる加護により、彼の身体は恒に最高のポテンシャルを維持し続ける。

 異端との戦いにおいて、彼は心的、肉体的ともに極限状態であり続けるのだ。

 これは闘争でもなければ審問でもない。

 秘跡執行者――聖堂騎士が行うのは

 短刀を軽くふり、余裕の態度を示すルチアーノ。

 その再生した眼球が見下した先で。

 少女は大木に背を預けて、小刻みに震えていた。


「………ふ」


 小さく、小さく。もう堪えきれないというように。

 

「うふふふふふふふふふふふふふうふふふふうふふふふふふふふふふうふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふフフフフふふふふふふふふふふふっふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふうふふふふふふフっふふふふふふふふふふふふふうふふふふふふっふふふふうふふふふふふふふっふふふふっ―――――――」


 こぼれ出る哄笑。

 まったくの予想外に得られた罪状の自白に、彼女は歓喜していた。ソレはあどけない少女が発するには、不気味すぎほどに熟成していた。

 

「どうした、何がおかしい! 気でも狂ったか!」


 その余裕が癇に障る。

 神父の激昂に、少女はいぇいぇと首を横に振った。


「アナタは首を切られても、腕をもがれても、針で刺されても血を流さないのですねぇ」


 針で刺されても苦痛を感じず、血も涙も流さないこと――それは中世ヨーロッパにおいて、ある一つの罪過(つみ)を暗示している。


 それは異端異教の申告。

 人ではないモノの証明。

 だから少女は男の言葉を哂っていたのだ。

 一頻り笑った少女はその笑顔を無機質に変える。

 一つの道具に、成り果てるように。

 

「では、」 


 生ぬるい夜風が修道服をはためかせた。


「――針(Spitz)――」


 呟きと共に――少女の両袖から閃光が奔る。審問の針―――左右三本ずつ。


「バカが――そんなモノが……!」


 傷つく事を恐れない聖堂騎士はその針の群れに果敢にも飛び込んだ。


「我々(パラディン)に、通用すると思うかね!」


 両の手を盾に攻めに転じる神父。突き刺さる痛みなどものともせず、ただ風となり、刃となる。

 二人の距離は一瞬にして詰まり――振り下ろされた短刀が少女の修道服を袈裟に切りつけた。


「―――ッ」


 間一髪で少女は左手をその軌跡上に配置する。

 重く鋭い衝撃と金属音。少女の正装は袖から腕までを斜めに裂かれ―――ゴトン、と。

 一撃で粉砕された鉄製の針が二本こぼれ落ちる。

 だけでなく。

 

 などなど。

 

 どこに隠していたのかと思えるほどに大量の道具。

 それはすべて、


「なん―――だと」


 歴戦の騎士ですら、わずかに思考を凍らせるほどの異様。身の毛もよだつ人間の善意(アクイ)の結晶。

 何よりも。それらは直前に使われた形跡があったのだ。

 本来ならば鉄さえも砕く一撃に、少女が竦みあがるのが道理。しかし、動きをとめたのは神父であり―――その間隙にグレーテルは駆け出していた。

 左裾から伸びる鎖。

 ―――その先端の爪が隣の木の枝をしっかりと噛む。それを振り子として、手近な木を駆け上がり、枝の一つに飛び乗った。

 追いすがろうとする神父を空中から針の投擲で牽制する。

 それぞれには迫る神父を足止する力はなかったのだが、鎖の先端――木々を噛む彼の戦意を大幅に削ぐ。


「貴様はぁッ! まで使ったのかぁぁぁ!」


 神父は怒りとともに慟哭する。

 それほどまでに、その道具が持つ名は残酷だった。

 最も苛烈だったスペイン異端審問において使用された刑具の一つ。生皮一枚で人間を釣り下げ、男の腹を引き裂き、処女の乳房を抉った魔の道具。

 拷問を目的としたモノでありながら、その出血量からあまりに多くの人間を死に至らしめ、即座に使用を禁じられた拷問器具の中でも極めつけの一品。

 それ即ち、スペインの――

 

「――蜘蛛(Reiben)――」

 

「――――おのれぇぇっぇぇッ!」

 

 ルチアーノは顔面に飛来したソレを反射的に右の腕で庇った。

 かばって、しまった。


「――し、まっ」 


 その瞬間、右腕の骨身にまで到達する巨大な四つの鋭い牙。

 内側のギミックにより牙はさらに喰いこみ、それは肉食動物の牙のように喰らいついて離さない。

 これまでの戦いで再生する身体に依存していた彼は、咄嗟に自らの身体を投げ捨ててしまった。

 それが致命。

 蜘蛛に噛まれてしまえば、最後、獲物は動きを殺される。

 ブチブチと音を立てて断線する肉の繊維。勢いよく引き上げられる身体。そして、空中で入れ違いに――鋸を振り下ろす少女の姿。

 それ自体が一つの処刑道具のような。鋭利な呟き。

 

「――鋸(Zacke)――」

 


 †††



 この後、語るべきことは多くない。

 それは闘争ではなく審問。

 そして拷問。

 そして処刑。

 ルチアーノは治癒し続ける身体を鋸に摺り刻まれ、鉤爪に裂かれ、四肢の骨を砕かれ続け、その身体が再生しなくなるまで削られた。

 四本の針が関節を打ち抜き、まるで虫の標本のように。大木に縫い付けられていた。

 その作業を、少女は顔色一つ変えずに行ったのだ。

 

 ―――秘跡を扱うモノが、ただ一人のニンゲンに翻弄される。

 だが、なんらおかしなことはない。

 強者であり続けた神父とは対照に―――単純に、少女は自分より優れた生物を殺すことに慣れていたというだけのこと。

 いつかと反対に―――ただ脳髄だけを活かされた神父は途切れそうな意識の端で声を聞く。

 喉を潰されていたおかけで、無様な呻きを漏らすことだけはなかった。


「一つ、アナタのカンチガイを正します」


 神父の無事な左目が敵を捉える、諭すような修道女の姿。血に濡れてなお輝く金色の髪が、美しかった。


「ワレワレが極東にいるアナタを捕捉した時、教皇領(ヴァチカン)に問うたのです。なぜあんなものを野放しにしておくのかと――。カレらの返答はシンプルでした」


 神父は片目で機会を伺っていた。

 四肢はダメだが、まだ脳髄が動く。顎の筋は動く。

 無様であろうとなんだろうと、神に仕える騎士はこの敵を前に止まってはならない。

 せめて道連れに。喉元に喰らいつこうとしていた。

 その姿を嘲笑うことすらなく、グレーテルはただ真実を教え諭す。


、と」


 その言葉を聞いた瞬間―――。

 ルチアーノからは表情が消えた。すべてに納得して、全身の覇気が抜けた。


「どうやら【異端】はアナタの方だったようですねぇ」


 単純な話。男は神の尖兵として駆り出され、同時に扱い切れぬと棄てられたのだ。


「アナタは越えてはならない幾つもの柵を越えてしまった。教義(チツジョ)の枠をはみ出してしまった」


 それは追放。正統から外れたということ。

 神の法の外にあって力を行使するモノは誰であっても赦されはしない。彼はすでに『境界を越えたモノ』――即ち、忌むべき魔女(Hexen)に成り果てた。


「それを狩るのがワタシの任務なのですよ」


 その言葉が終わると同時に、内より出でる最後の聖水の一滴がルチアーノの喉を癒し、舌を蘇らせた。


「……やは……り、な。貴様はドイツ聖書中心主義(エヴァンジェリッシュ)――」


 彼らは同胞にして宿敵。

 存在自体が暗闇の、狂信し熱狂する一つの信仰の暗部。

 カトリックにおける闇を背負うのが彼のような秘蹟使いであるのと同じように、プロスタントが秘蹟を用いず、人の手によって魔を滅ぼそうとした結論が彼女のよ

うな異端審問官だった。

 十字架も聖水も、教会の奇跡も、聖人の加護も――すべてを否定し、ただ聖なる書物のみを信じた結果がその在り方だったのだ。


 ――通称、鏖殺(みなごろ)し裁判所。歩く拷問室。

 あるいは中世、


「特務審問会………【鉄の鎚(Hexen hammer)】、か」

 

 乾いた声で呟く。

 なるほど―――神父自身も狂徒の自覚はあったが、人の身で練り上げたプロテスタントの連中の方がよほど方法に狂っている。

 ガサゴソと、鞄を漁る気配があった。


「ナニカ言い残しはありますか?」


 問いと共に神父の頭に降り注がれる半透明の液体。

 それは香油などではなく、液体火薬の匂い。

 最早、異端者の末路は明白だった。


「……。私も貴様も。この結末は私のソレが貴様より早かっただけのこと。我々は同類だ。堕ちる場所は同じだろうよ」


 存じてオリます、と少女はやさしく呟いた。

 ならばいい、と神父は口元だけで朗らかに笑った。

 そして潰された右目で虚空を捉え、届かない彼方へと語りかける。


「あぁ、セシリア。プロテストに程度で死ぬとは、なるほど互いに情けない。どうせ人形に過ぎない君のことだ。死出も行路に迷うのだろう? 待っていろ。すぐに行く。我らの敵を教えてやろう」

 

 焼ける喉の痛みを越えて出たコトバは、壊し壊されてしまった憐れな女へと囁くもの。

 その言葉の終わりに合わせて、少女は手にしたマッチに火をつける。右手から滴る血の一滴。


「アナタの黄泉路に。父と子と聖霊の導きのあらんことを」


 祈りとともに。

 魔女殺しの少女(グレーテル)は、魔女を業火(かまど)へと投げ入れた。

 

「―――AMEN(アーメン)―――」

 

 爆発的に燃え上がる異端者の血肉。

 最早、聖泉も枯れ果てた。

 焼け崩れていく原型。壊れていく信仰の形。

 その中で。


『センパイとして一つ助言だ、お嬢さん! ! アレは――

 

 ニヤリ、と。

 黒い影が嫌らしく笑ったのも束の間。


『――――AMEN!!』


 声なき声で、神父はたしかに――そう叫んで地獄(ゲヘナ)へと消えた。

 

 碧い瞳は何も語らず、その炎が消えるまで見つめていた。

 

 

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