/3 悪魔祓い・恋
潮風の届くほどの海沿いの一角。町の中心から外れた静かな場所に借りている一軒家。
そこが母さんと僕が二人で暮らす家だ。
グレーテルに話を聞きながら歩いて帰ったので、ウチに着いた頃には十二時近くになっていた。
僕と彼女は玄関から入って廊下の突き当たりにある木製のドアにすぐに向かった。
「お母様の寝床はこちらですかねぇ」
バンバンバン、と木を叩く音。
何か言語できなさそうな叫び声が漏れるドアの前に立って、グレーテルは訊ねてくる。
「そうだよ。でも、気をつけてくれよ。暴れだしたら、手に負えないからさ」
「いぇいぇ。おまかせです」
忠告をまったく気にも止めた様子もなく、自信有りげに言って、彼女は扉を開けた。
途端、なんとも言えない腐った酸性の匂いと生暖かく湿った風が漏れ出る。
部屋の窓から差し込む月明かりがその人を照らす。
―――ベッドの隅に両の手縛られながらも、凄まじいブリッジをしながら縁に噛み付いている女性。
頬はこけ白目を剥き、口から血の泡を吹いている。
今や見る影のない母さんのすがた。
あぁ、やっぱりだ。
怖気と寒気と―――どうしようもない吐き気。
見るに堪えない惨状。
チャカさなければ、やってられない悪夢の光景がそこにはあった。
僕はすぐに堪えかねて目を逸らしてしまった。
その気が狂ったような悪夢に。
悪魔を祓うと豪語した少女は………
「ん~、これは酷い」
いたって平静だった。
瞬き一つしない。まるでこの程度の惨状なら、見慣れていると言わんばかりに。
母さんの方にテクテクと歩いていき。向こうが瞳を動かすより早く。
「えいや!」
反り上がった胸部にチョップ。
Pga! と短い悲鳴をあげる母さん。
ピクピクと震える身体。
騒がしかった部屋は一気に静けさを取り戻し、ついで室内を支配していたジメジメした気配も消えた。
ただのチョップの一撃が、すべてを塗り替えていた。
見るに堪えない惨状が―――なんだか、すごく残念な感じになってしまった。
「え」
物理なの? 悪魔祓い(エクソシズム)って物理(フィジカル)なの?
心配になって、グレーテルさんの方を見れば。これまたあまりにも堂々とした立ち姿。
「軽いシンパイテイシ状態ですからシンパイムヨウです。ダイジョーブ」
医学的にはあんまり大丈夫そうじゃないんですが。
あと心配無用って心臓止めても良いって意味じゃないよ?
「だ、大丈夫ならいいけど……?」
たしかに悪魔祓いってハードな仕事そうだし、物理攻撃ぐらいしますよね……?
というか母さん――死んでないですよね?
最近ずっと白目剥いて痙攣している姿しか見ていないかったから、今の状態がどうなのか判別がつかない。
「というか君さ。十字架とか聖水とか。そういうアイテム的なものは使わないの?」
勝手なイメージだけど、やっぱり悪魔を祓うには十字架とかじゃないだろうか。
「うっふっふっ。はたまた、ゴジョーダンを」
グレーテルは本当に冗談だと思った様子。
ガサガサと自前の手提げカバンを漁り始める。
―――そうして、一冊の本を取り出した。
黒地に金の文字が書き記される。
まごうことなき『聖書』だ。
その文字はアルファベットらしく―――しかし、英語ではない言語で書かれているようだった。
「カノジョは十字架も聖水ももってないでしょう。だから必要ないのですよー」
「あー。言われてみればたしかに。うちには十字架も絵も飾ってないね」
母さんは心労がたたって宗教にカブれていたけれど、たしかに変な宗教グッズを買ってくるようなことはなかった。
それに俺にだって無理に神様とやらの話はしなかったのだ。ただ優しく、手垢塗れの道徳やら倫理やらを諭すくらいなものだった。
俺の母親、真瀬君枝(まなせきみえ)はそういう人だったのだ。
胸がズキリと傷んだ。
―――今、こうして眠る母さん。
どんなに変わってしまっても、この人は俺をここまで育ててくれた大切な人であることに変わりない。
もっと早くに。
もっと、必死に母さんの神様の話を聞いていれば――母さんはこんな風になってしまわなかったのかもしれない。
十字架でも聖水でもなくて。何が大切なのかを理解できたのかもしれない。
そんなことを考えている間に、グレーテルは準備を終えていた。
といっても、彼女はそこにただ佇んでいるだけだった。それだけで、彼女を取り巻く空気は変わったのだ。
聖書を左手に持ち、細長い指がサラサラとページをめくる。
「あ……すごい」
その真剣な面持ちは紛れもなく、神に仕える一人の少女。
――さっきまでのふざけた様子はない。
その横顔には清廉な雰囲気さえあった。
閑(しず)かで、澄んだ空気。
たしかに――今の彼女なら、聖女と言われても信じてしまえるような気がした。
彼女は母さんの顔を慈悲深く見つめる。
あぁ、きっと。
この少女(グレーテル)ならなんとかしてくれるに違いない。
そして、視線を聖書へと向け―――修道女の赤い唇が福音(オト)を紡いだ。
『死ね!』
『内輪で争って死ね!』
『ブタの臓物に塗れて、死ね!
谷底に落ちろ!』
『唖(おし)と聾(つんぼ)のクソ虫野郎!
言うことを聞け! さっさと消えろ、二度と汚たねェ面を見せんな!』
―――AMEN(アーメン)―――
こぼれ出る罵詈雑言。
少女はその終わりに――コホンと一つ咳払い。
パタンと閉じられる聖なる書物。
……………。
え。なに。今のなに?
これで終わり?
「いや!? なんかおかしいよね!? 全然、福(ホーリー)じゃないよね! 絶対そんなこと書いてないよね!」
「シツレイ。ワタシ日本語はフトクイなもので」
「すごく上手でしたよ? 僕よりもよっぽど饒舌でしたよ!?」
ヤクザ映画で日本語を勉強したとしか思えないほどの綺麗な悪口。
綺麗な悪口って、汚いのか綺麗なのかわからないけどねっ!
「褒められるとテレますねぇ。さすが、師匠(センセイ)の日本語コウザは役に立ちました」
僕の追求もどこ吹く風―――本気で照れてる辺り、頭イカれてやがる。
こんな女の子に暴言を教えたセンセイとやらはもっとイカれてるに違いない。
「これで悪魔が逃げ出してくれれば良いのですけど」
クソ!
なんて無垢で純粋な微笑みなんだ!
いや、もしかしてこの子。
アーメンって言えばなんとかなると思ってんじゃないですよね?
「返答はない――のですか」
と、俺の話を無視して自称・悪魔祓いの女の子は母さんの顔を覗き込む。
うーん。とそこでようやく表情を曇らせるグレーテル。
「ザンネンムネン。次に移りしょう」
「まだ何かする気かよ……」
………勘弁してくれ。
このまま一言一句に振り回されていては、こっちの体力がもちそうにない……
「ココに一本の針があります――」
と、顔をあげると彼女はどこからか一本の立派な針を取り出していた。
ハンドサイズ。氷でも削れそうなくらいに大きな。
―――それは……?
もしや聖なる釘とか言い出すんじゃないですかね。
月明かりを反射する鋭い銀色。
どこか霊験あらたかなオーラが出ている気がする。
むしろ霊験あらたかな聖なるアイテムにしか見えなかった。
それならば納得だ。言っても聞かないクソ虫野郎に実力行使というワケなのだ。
「それで母さんに憑いた悪魔を突き倒すワケだね!」
「これで悪魔のツいたお母様を突き刺すワケです!」
……母さんに突き刺してどうすんの?
いや。
「母さんに突き刺してどうすんのっ!」
ワンテンポ遅れてしまったじゃないか!
心と身体が分裂してしまったじゃないか!
そろそろ叫ぶのも疲れてきたじゃないか!
「?」
きょとん、とするグレーテル。わりと本気で刺すつもりだったらしい。
教えられた通りのことをしているのに、なぜ怒られているのかわからないという顔。
なんで今更? みたいな、そんな表情。
間違っているのは僕の方なのか!?
いや、実は鍼治療なんてこともあるかもしない。
人体のツボを刺激する感じのアレならば、悪魔だって逃げ出すぐらい健康になれるのかもしれない。
この修道女は東洋の神秘をもマスターしているのかもしれない。
………いや、あるいは。
でも。
もしかすると。
つまり。
そうならば。
ここまで来てありえないとは思うけど。
彼女は本当に―――ただの変人なのかもしれない。
「………もういいよ」
ふぅ、と深く息を吐いて。
僕は床に座り込んだ。
もう疲れた。
ポジティブに解釈するのも限界だったのだ。
途端に、すべてがバカらしくなってしまった。
「もういいんだ」
どうかしていたんだ。
たくさんの霊能者たちに断られてきたから、感覚がマヒしていたんだ。
自転車でコケて、頭を打ったか何かをしておかしくなっていたんだ。
よく見ろよ、十瑠。
今目の前にいる小柄な女の子が、悪魔を退治できるように見えるか?
外国人だからって贔屓して見ていたんじゃないか?
「そうはいけません!」
こんなヘンテコな言葉を使う子が、海の向こうから一人で貨物船に乗り込んできたなんて信じるのか?
―――本物だって信じるのかよ?
「………」
心の声はずんずんと積み重なって――もう、立ち上がれそうにもなかった。
やっぱりこんなのは無茶だったんだ。
名前がメルヘンな時点で疑うべきだったんだ。
「君には無理なんだろ? 成り行きとはいえ、付き合わせて悪かったよ」
「いぇいぇ。まだそうと決まったワケでは……」
僕の顔を覗きこむ少女。
その表情に嘘はない。善意しかない。
ほんとの本気で、心配してくれているのだ。
彼女は必死だった。必死に何かをなそうとはしているのだ。
それはわかるけれど―――わかるからこそ、無性に腹が立った。
「いいから帰ってくれよ! インチキ宗教は間にあってるんだ! お前に払う金なんてないからな!」
「ワタシは――」
そこでグレーテルは何かを言いかけて、やめた。
一瞬、とても哀しそうな顔をしたけど――それを飲み込んで、俯いた。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
僕はそれ以上、何も言えなかった。
静寂に包まれる室内。
さっきまであんなに騒がしかったのに。今はもう、心音が痛いと感じられるほどに静かだった。
悪魔が現れてから、この部屋から失われていた音のない世界。
長い長い。夜の沈黙。
「―――いいのよ。トオル」
その沈黙は、しわがれた声に破られた。
変わり果てていたけれど、知っている声だった。
「母さん!」
立ち上がり、ベットに駆け寄る。
そこには横たわる母さんがいた。
顔面は蒼白で、口元には乾いた血がこびりついていて、苦しそうに眉を寄せていたけれど。
それは悪魔なんかじゃなくて、僕が知っている母さんそのものだった。
「―――正気に戻ったの!? 本当に!?」
まさか、さっきの罵倒が効果を発揮した……?
そんなことがあるとは思えないけど、それがなんであれ、もうどうでもいい。
急いで身体を助け起こそうとしたが―――それを母さんの右手が阻んだ。
「いいえ。これは一時だけのことよ。一時だけの猶予が与えられたの」
「そんな……」
「いいのよ。ありがとう。私のために頑張ってくれて」
今にも死にそうな顔で。
母さんは気丈に笑った。母さんはそういう人だった。
でも、その頬は濡れていた。俺もいつのまにか、泣いてしまっていた。
「―――貴女もありがとう」
そして、その視線はもう一人へ。
悪魔祓いの少女に向けられる。
「………よかった」
わずかに安堵の表情――それを無理矢理に引き締めて、少女は問う。
「泣いているのですね」
はい、と母さんは頷いた。
答えを聴き終えた修道女は、似つかわしくもない厳粛な表情で続けた。
「ならば、ダイジョウブ。アナタが信じた主(しゅ)を信じてください。かつて彼らがそうしたように。今、アナタがそうしたように」
はい、とまた母さんは頷いた。
「次に目覚めるまで、アナタは信じ続けなくてはならないのです。いいですか?」
はい、と頷いた。
そうして、母さんは俺の手を握り―――それは酷く弱々しいものだったけれど―――
「母さん、頑張るから。トオルはもう少し待っていてね」
そんな言葉を最後に残していった。
僕はもう、何も言えなかった。
目の前の光景に、ただ圧倒されてしまった。
母さんはまた、ゆっくりと眠りについた。
顔は相変わらずの土気色。気味の悪い空気は絶えず、部屋に渦を巻いている。
それでも。
その横顔には強い意思が感じられた。
きっと眠りの中で戦っているのだ。悪魔と。
あるいは、自分の心と。
部屋の入り口まで出て、グレーテルは大きく息を吐いた。これで応急処置は済んだ、といったところのようだった。
「トール。ワタシにできるのはココまで。あとはお母様自身の問題となるのです」
うん。と素直に頷いた。
眠りついた母さんの表情をみれば、それは納得するしかないことだった。
「だからどうか。手を握っていてあげてください」
「わかった。今夜はそうするよ」
素直に頷いた。頷くことしかできなかった。
「そのさ」
この頭の片隅には、罪悪感。
彼女は本当に悪魔を懲らしめてくれたというのに――僕はなんて酷いことを言ってしまったんだろう。
いや、本当は彼女の方法が完璧に正しかったとは思ってないけど。
それでも、悪魔を一時的に祓うだけの意味はあったんだ。
なら、彼女はホンモノだ。インチキ霊能者なんかじゃない。ホンモノのエクソシストだったんだ。
「さっきは疑って悪かったよ。君は本物だった。だから、ごめんよ」
その言葉に。いぇいぇ。と彼女は首を横にふった。
「お母様の信心(ココロ)がホンモノだったのです。それを思い出してもらっただけなのですよ」
そういうものなのか?
―――きっと、そういうものなんだろう。
だから。うん。
「ありがとう」
「いぇいぇ」
お礼を言うと―――グレーテルは照れたように笑ってくれた。
さて。
これで悪魔が消え去ったわけじゃないけれど、事態はきっと好転している。
それはグレーテルのおかげに違いない。
彼女にはどんなお礼をしたらいいだろう?
こんな一生分の恩はすぐ返せるはずもない。
きっと、お金も受け取ってくれないだろう。
お金なんて貰えない、と断ってしまうに違いない。
いや、そもそも大した額は用意できないんだけど。
―――あ。そういえば。
「泊まる所ないんだろ? 夜も遅いし、ウチに泊まってけよ」
我ながらナイスアイディア。
母さんの様子も見てもらえるし、一石二鳥だとも思った。思ったが、それは失敗だった。
「それはありがたいお話ですねぇ」
少女は表情を曇らせたのだ。
「この近くに教会があるのでしょう? お母様が通っていたトコロです」
そういえば、丘の上の教会については彼女には話していなかったんだっけ?
「あー。うん。でも、今は誰もいないよ。夜も遅いし、それに……」
今、君にいなくなられると。不安だ。
それに、すごく寂しい。
もう少しだけでも傍にいて欲しかった。
そんな思いは―――口には出せないけれど。
「ワタシ、アイサツにいかなくてはなので」
仕事だからと断られる。
でも、申し訳なさそうにしている辺り―――芽がないわけではなさそうだった。
なら………!
「じゃあさ。また明日、来てくれよ」
口をついて出た言葉。
自分でも、こんなに思いきった事が言えると驚いたほどだ。こんな積極的な言葉を女の子に言うことなんて、一生ないと思っていたくらいだ。
それはヘタレすぎるって? 知らんがな。
グレーテルは、うーん、としばらく唸って。
「ムズかしいですねぇ。でも、頑張ります」
と、答えてくれた。
それでまた、僕は嬉しくなってしまった。
「トール。では、また」
「うん。また明日」
そうして最後に。
廊下を抜けて、玄関を出て。
月明かりをバックにした金髪の修道女は―――まるで童女のように歯を見せて、ニッと笑った。
これには一番参ってしまった。
まったく、勘弁して欲しい。
あやうく恋をしてしまうところだったじゃないか。
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