(四)続・病室ニテ
精神世界の 「わたし」は饒舌
物質世界の わたしは透明
精神世界と 物質世界
二つの世界の 関係性は
いつも並行 それならいっそ
わたしの心で 暮らす「あなた」を
殺して了っていいですか
こんな拙い詩を書き終えた後、私は本当に、殺して遣ろうと思いました。
**大学付属病院─。ここの第二病棟八階にある病室に、今私は入院しています。お医者様に診ていただいたところ、血液凝固に関わる血小板という物質が、私の場合、普通の人に比べてかなり少ないということでした。よって、その血小板を正常な数へ戻すお薬の投与等のため、約一ヶ月の入院を言い渡されたのでした。
この症状が私の体にどう影響してくるかと申しますと、例えば怪我などをした時には血液が固まりにくく出血が多量になったり、体にあざができやすくなったりするのだそうです。将来的には、出産時の大量出血やリウマチなどの病気の可能性もあるそうです。
と、こう私の病気のことをとやかく説明していても意味などないのですけれど。問題は、なぜこの病気が発覚し、私が入院するに至ったのか、その経緯にあります。
それには私の夫が大きく関わっていました。
病気が発覚する前から、私は足や腕のあざに悩まされ続けていました。軽くぶつけただけですぐ大きなあざができてしまうものですから、その時から体に何かしら問題があるのだということは自覚しておりました。
それでも、あざができやすい体質なのだと思えば、日常生活に何の差し支えもございませんでしたので、お医者様に診ていただこうという考えは持ちませんでした。夫が私の顔に、この大きなあざを作るまでは─。
私のあざの中には、もちろん軽い転倒などによるものもあったのですが、その多くは夫の暴力によるものでした。
元来短気な人だったため、夫は何か気に入らないことがあればことあるごとに私を殴りました。
それに加えてあの人は、ひどく世間体を気にする人でした。
人前では、勤勉で実直な愛妻家を演じて、周囲の評価を得ていたのです。確かに、仕事場ではそれ相応の能力は発揮していたのだとは思います。けれど、家の中ではとてもではありませんが愛妻家などと呼べる人間ではなかったのです。
そんな夫による度重なる暴力によってできた私の体のあざですが、夫は私に、夏場でも肌が隠れるような服を着せることでそれを隠そうとしました。よくできた夫を演じるためには、妻の体のおびただしい数のあざが周りの目に触れることは不都合だったのでしょう。
ある時でした。私がいつものように夕飯を準備して夫の帰りを待っておりますと、電話の呼び出し音がなったのです。急いで受話器を取りますと、相手は私の知らない女性でした。
聞くとその女性は私の夫と交際しているというのです。そうして彼女は私に夫と別れてくれと言ったのです。私は訳が分からずにしばらく唖然としておりますと、相手はそのまま何も言わず一方的に電話を切ってしまいました。
衝撃でした。もしも女性の話が本当であれば─。そう考えると私は急に眩暈を感じてその場にしゃがみこんでしまいました。
いくら暴力を振るう夫とはいえ、彼が愛しているのはこの私ただ一人だと信じていました。どんなに殴られ、倒されたとしても、それは全て夫による愛情の裏返しだと思っていました。
私はある種の、マゾヒストだったのかもしれません。
暴力を振るわれても、夫を憎むようなことは一度もありませんでした。これが夫からの愛なのだと、そう信じていました。だから私も、それと同じ量の愛で夫に応え続けてきました。
評判の良い夫。そんな夫が愛する妻、私。そういった、一見すると恵まれた地位を与えられていた事実も、私が夫を憎むことなく愛し続けていられた要因の一つだったのかもしれません。そういう意味では、私も世間体を気にする人間だったのでしょうか。
しばらくして、夫が勤め先から帰ってきました。私はすぐに夫に詰め寄りました。電話の女性、彼女のことは本当なのかと。
夫も、まさかその女性がうちにまで電話をかけてくるものだとは思っていなかった様子で、ひどく驚いた顔をしていましたが、すぐに冷静な顔つきに戻って「お前は気にしなくていい」と言いました。
夫の表情とその言葉だけで、私はあの女性の電話がただの悪戯ではなく事実であったのだと悟りました。私は夫の不義を知ってしまったのでした。
私は泣きました。声をあげて泣きました。それから先はよく覚えていません。ただひたすら、泣きながら夫にすがりついていたように思います。私はどうなってしまうのか、このままこの人の妻でいられるのか、それを考えると恐ろしかったのです。
気づけば夫もかなり激昂していました。また殴られるとも思いましたが、その時ばかりはそうされたって構わないと思っていました。
そうして次の瞬間、夫の今まで以上に強力な拳が私の顔に向かって飛んできたのです。
左目周りの鈍痛と共に、私の体は夫から切り離されました。そうして床に尻餅をついた瞬間、私の中で、初めて夫への憎しみの念が沸き起こったのでした。
次の日、鏡を見ますと、夫に殴られた左目の周りは青紫色の大きなあざになっていました。腕や脚であれば服で隠せたのですが、顔にできたとなるとそうはいきません。
そのあざを見た夫は、私をすぐに病院へ連れて行きました。もちろん、世間体を気にしてのことです。
お医者様には、転倒して顔をぶつけたと説明しました。もっとも、夫がそう言うように私に命令したのですけれど。
そこで私は、血液中の血小板が減少しているために体にあざができやすくなっているのだと診断を受け、一ヶ月入院するよう言われたのでした。
この一ヶ月の入院は、夫にとっては好都合だったかもしれません。顔のあざが治るまで、病院関係者以外の目には触れることがないのですから。
さて、こうして私はこの病室に一ヶ月入院することになったのですが、そんな私を夫はしばしば見舞いに訪れます。妻を献身的に支える良き夫を演じるためです。
夫の不倫を知った瞬間から、この病室でもずっと夫への憎しみは持ち続けているのですが、心のどこかでまだ夫を愛している自分もいるのです。
そのどっちつかずの心に、私はここ数日の間苦しめられていました。私は夫を憎んでいるのか、愛しているのか、それともそのどちらもか。そんな愛憎の念が入り乱れた心の私は、少し前から、自分の精神に逃げ込むようになりました。
現実から切り離された精神の世界。そこは、私の理想が全てまかり通る場所です。ある時は夫と幸せに愛し合い、またある時は憎しみから夫を殺してしまう。こうして私は精神の世界において夫への愛と憎しみを同時に消化することに成功したのです。
その心地よさは、精神世界をまるで現実と見紛うほどでした。いえ、そこが現実の世界だと、信じたかっただけかもしれません。
そうです。所詮は妄想なのです。ですが毎日夫に虐げられ、家事だけをこなすただの機械も同然であった私にとって、こうした苦しい現実からの乖離というものは快楽以外の何物でもなかったのです。
現実世界─。それは物質世界とでも言った方が良いのかもしれません。私という単なる物理的現象の置き場には、もはや私の求める「現実」など存在しないのですから。
人の主観というのは実に不思議なもので、時として世界を如何様にも変えることができるのです。むろんそれは、その主観のみでしか捉えられない独自の世界なのですけれど、世界というのは実は初めからそういうものであって、人の、ひいては生きとし生けるものの数だけ世界は存在しているのではないでしょうか。
よって私にとっての世界とは、夫への復讐に成功し、かつ夫への愛を遂行する美しい「わたし」が存在する精神の中の世界なのです。物質世界の私が透明人間のような存在であるならば、精神世界の私は饒舌で、より私が理想とする存在でしょう。
こんなことを申し上げれば、私が気を違えた精神疾患患者とでも思われるかもしれません。ですが、私にとっては精神世界にいる私こそが本当の私なのです。今更この物質世界にいる私が狂人扱いを受けようがどうでも良いことなのです。私は本来なら、この病棟の八階ではなく、三階の精神科に入れられるべきなのかもしれません。
さて、これから私は、長い長い精神世界への旅に出ようと思います。それは、私達夫婦をモデルとした男女の物語の世界です。この男女も一組の夫婦であり、その世界において私の主観を司るのがその女性、そして私の夫役がその男性ということになります。
仮に私であるその妻の名を藤村多江、そして夫の名を信二郎とでもしておきましょう。
物語の内容ですが、彼ら(と言っても女性の方は私なのですが)は私達夫婦とは全く逆の状況にあると言って良いでしょう。なぜなら夫信二郎が精神病者、そして妻多江が夫に対して不義をはたらいた女であるからです。
物質の世界と精神の世界、その二つの世界の境界線の曖昧さに苦しむ信二郎は、記憶喪失のまま精神科での暮らしを続けます。しかしそこもまた自宅の和室にいる自分が創り出した精神の世界。その中で多江に新たに恋をするわけですが、実は多江は元々彼の妻であり、そして自分の実の兄と不義を犯したのだということを思い出してしまいます。
そんな精神病者の彼が書いた恋文も、多江は恐ろしくて読まずに燃やしてしまうのです。
そうです。私は精神の中で、夫が私にした仕打ちをそのままやり返してやるのです。そうして夫に、愛する者に裏切られる苦しみを、味わわせてやるのです。
残念なのは、夫のことを殺すことができないことです。殺してやりたいほど憎いのですけれど、それでも死んでしまっては私の愛を十分に表現できないのです。愛と死とは、両立できぬものなのですね。
信二郎と恋をし、その心を、辛い過去の記憶の回復によって打ち砕く、そんな物語─。これほどまでに完璧な愛憎の表現が他にあるでしょうか。
嗚呼、そんな世界を想像しただけで心が躍るようです。どのように物語を展開させていこうか、それを考えると、今すぐにでも精神の世界に飛び込んでしまいたい気分です。
でも今は焦らずに、しっかりと精神世界への旅の準備をしましょう。と言っても、特にすることなどないのですけれど。心を整えて、精神世界の快楽に十分浸れるようにしておくことくらいでしょうか。
病室の寝台の机の上。そこに白詰草の花と四つ葉のクローバーが置かれています。そっと手にとってみました。これは私が以前病棟の外を散歩していた時に見つけたものです。
世間体を気にし、周りの目にはとても良く映っていた夫に裏の顔があったように、綺麗なお花にも裏の顔というものはあるのです。
白詰草─。その花言葉は、復讐。私もこれから、精神の世界に閉じこもって愛する夫に復讐をします。
情熱的な想い、そして復讐。愛憎相半ばする物語が始まります。
これは、私という、或る一人の精神病者が徒然なるままに想起する不埒な夢芝居、或いはただの白日夢です。
それにしても、もしもこんな物語がどこかの誰かの中で本当に現実になっていたとしたら……考えただけで、空恐ろしいものですね─。
或る精神病者の徒然 詩憂零太 @4youlater
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