3. 魔女のこと

**神室 結衣**


おばあちゃんのこの部屋が好きだった。


壁には一面、古い本。古語で書かれているから私が読むには時間がかかる。おばあちゃんの机の上にも本が積み重なっていて、いつも右側には羽ペンが刺さっていた。それで真ん中には結晶球が置いてあった。神室家で10代に渡って大事に使われてきた、古の占いに使う道具の一つだ。結晶球はガラス玉の中に特殊な水溶液が封入されたもので、おばあちゃんはそれに手をかざすことで結晶を育てたり、反対に結晶を溶液に溶かしたりすることができる。その結晶の様子を見て、昔は天気を予測したり、作付けに適した時期を決めたり、政(まつりごと)を占ったりしていたそうだ。


結晶球の作り方は壁一面の本のどれかには書かれている筈だけど、昔の職人の技術は失われているから全く同じものは作れないらしい。


この部屋にある机や椅子、本棚から、絨毯や部屋の隅に至るまで、あらゆるものが歴史を凝縮させた結晶のような尊さを感じさせる。幼かったときはまだわからなかったけど、今では見るたびに美しくなっていくとさえ感じる。歴代の魔女が、大事に使ってきた道具たち。


おばあちゃんは難しい顔をして手紙を読み、押し黙ったままだった。いつか、あの椅子に私が座って同じように手紙を読み、結晶球を撫で、おばあちゃんのようにしわくちゃになって行くのだろう。でも、おばあちゃんがこの世から居なくなってしまう時がくるということは想像したくなかった。


おばあちゃんは大きな咳をした。乾いた咳だった。どう見ても具合は悪くなっている。でも、今は声をかけてはいけないような気がして固まっていた。おばあちゃんはしばらく咳き込んだその後で、机を挟んで座る私と手紙とを交互に見つめ、絞るようにつぶやいた。


「時期が悪かったね。こればかりは仕方ない」


私は何も言わなかった。ただ、おばあちゃんの目を見ていた。窓から差し込む光と重なり、私の目を射るような目だった。


「私らはこの場所でも先祖代々うまくやっていた。昔の名前を捨てて、春日国の名前を使うようになった。そうやってこの地に溶け込んでいった。けれど、国同士が喧嘩したら、それだけで私らの努力も無駄だったということだね」


そのまま、長い時間が過ぎた。差し込む陽の光はは春から秋のそれに変わってしまったように感じた。


「私を継ぐ可愛い孫だ。でもできることなら、普通の女の子として育てて、お嫁に行かせたかったんだよ。もう魔女は時代遅れなんだ」


いまは観測気球も飛行機械もあるから、魔女に天気を尋ねる人は居ない。病気になったら病院に行って薬をもらう。薬を求めて魔女の家に人が尋ねて来ることもない。それでもなお、殆どすべての魔女は昔からの決まりを守り、こうして昔からの本や結晶球を大事にしている。でも、世間がそれを求めることはもうほとんど無いだろう。この部屋にある古く美しい家具のように、私達は歴史に取り残された一族なんだ。


でも、そんなこと―――言わないで、おばあちゃん。私は泣きたくなってくるのを堪えた。


子供の頃から、いつもお前は魔女だからと言われて育った。お母さんには魔女の力は遺伝しなかった。そういうことは昔から沢山あるらしい。


魔女の力は隔世して私に遺伝した。


魔女の家に居ながら魔女の力を持たなかった女の人がどういう扱いを受けてきたか、私には何となくしか分からない。私が4歳の時に箱の中に隠されたカードを当てた時(これは魔道士の初等訓練の一つだった)、お母さんは私を抱きしめて泣いた。「お前には魔導の力があるから、お母さんみたいに苦労することも無く生きていけるね」、少し寂しそうに笑った顔が忘れられない。


私が魔道士の訓練を進めていくたび、お母さんももおばあちゃんもとても喜んでくれた。だから魔女として生きようと頑張ってきた。お母さんを泣かせたくなかったからではなく。私が辛かったから。


小学校に入った時、いくつも年の離れた上級生のお姉さんがよく面倒を見ていてくれた。でも、夏休みに入ると急に話してくれなくなった。夏休み明け、他の上級生が「お前は魔女なのか、ホウキで空でも飛べるんか、飛んでみい」と茶化しに教室に入ってきた。体格の良い丸刈りの頭の上級生を目の当たりにして私は怖かった。戸惑う私を見て上級生が皆笑っていた。何よりも悲しかったのは、その中に申し訳無さそうな顔をした、あのお姉さんが混じっていたことだった。


その後もなにかあるとすぐ、「結衣を怒らせたら魔法で豚にされるぞ」とか、良くないことがあればいつも「結衣が呪いをかけたからだ」と言われた。それはもちろん、本気で言っているわけではないのだろうけど、今でもまだ幼い子供が小馬鹿にしているとは思えない。


家庭科の授業で作った料理を、私の班では誰も食べてくれなかったこともあった。その時は先生でさえ、「我慢して食べなさい」と言っていた。その料理は結局、私の分以外は捨てた。先生に言われて、私が自分の手で捨てた。お母さんはよく、「野菜は農家の人が作って届けてくれたのだから、大事に食べなければ」とよく言っていたのを思い出す。その日の夜、家に帰ってきてもお母さんの料理は喉を通らなかった。お母さんを心配させたくないから、無理矢理に詰め込んで夕飯を食べた。でも結局、夜に気持ち悪くなってトイレで吐いてしまった。


「我慢して食べなさい」


我慢って何なの?魔女が料理をしたら、それは良くないことなの?本当に辛かった。魔女は自らの料理を食べさせて下僕を操る。魔女の料理を食べると呪われて、内臓が抜け落ちたまま生きることになる。内臓が無いほうが魔女は下僕を操りやすいから。そういう意地悪なおとぎ話は昔からあった。でも、本当にそれを信じてるの?私が同級生を呪いで操るとでも?私は好きで魔女に生まれたんじゃない。すぐにでも学校を抜け出して一人になりたかった。私は涙を貯めて残りの時間を過ごした。


でもそれよりも、お母さんが時々部屋に閉じこもって泣いているのを見るほうが辛かった。家に帰ってお母さんが笑ってくれていれば、私にはそれで居場所があったように思えた。


私がいつものように学校から帰っているとき、またいつものように同級生の二人の男の子が、「魔女の子供は呪われた子供だ」と馬鹿にしにやってきた。でも、その日の私は少し違っていた。誰も守ってくれないなら、私が自分で家を守る。私は魔女の子だから、あんたたちに良いように言われて泣く必要はないんだって。だから、その一人が家に帰っていくのを逃さなかった。押し入って、玄関にあったホウキでその男の子をめちゃめちゃに叩いた。


もう一人には「そんなに乱暴だとお嫁に行けないぞ」と言われたので、これも家までついていって土足で居間に上がり、男の子を何度も靴で蹴った。何度も何度も。最後には私も彼も泣いていた。散々にした後で家を出てしばらく歩いたら、二階から「こらぁ!」とその男の子のおばあちゃんが顔を出して怒鳴った。私はそれを睨んだ。


子猿か野良猫を追い払うような声を出さないで。いままで私に何をしてきたか、知りもしないくせに。


お嫁に行けない?あんたたちみたいな馬鹿な人間が生まれるなら、お嫁になんて行かなくていい。そう思った。その後しばらくしていじめはぴたりと止んだ。


小学校を卒業した日に、いじめっ子の一人の母親が、私のお母さんに伝えてきたらしい。


「うちの子が、ずっと結衣さんをいじめていたみたいで。本当にすみません」


なぜお母さんに伝えたの?ずっと私は耐えていたのに。お母さんに知られないように黙っていたのに!悪いと思ってるなら、なぜ、私に謝らないの?いじめられていたのは私なんだから、私に謝まればいい。


あなたは、自分の子供が魔女の家の子供を、神室家の子供をいじめた。世間体を考えて居心地が悪かっただけなんだ。しかも、その謝ってきた母親は学校の先生をしていた。先生は、いや、大人は子供を守ってくれない。自分と、自分の子供だけが大事なんだ。私は魔女として、強くならなきゃいけない。お嫁に、なんてこちらから願い下げだ。


我慢できなくなって、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。おばあちゃんは少し驚き、すぐに察したようにハンカチを差し出してくれた。


「世の中がもう少し平穏だったら、盟約を変えることもできたんだよ。中央会議ではそういう意見も毎期出ていたんだ。むやみに女を戦場に出すような時代じゃないってね。でも、今は春日国がああだからね。特に葉山州は旧春日国領だから、出征しないと示しがつかないと考える長が多いんだ」


「分かってる、大丈夫だよ。私はもういつまでも泣いている子供じゃない。古の盟約に従って国と家を守るために従軍する生き方も、そこまで悪いと思ってないし。未練があるというわけでもないしね」


そう言い切ると、不思議と気持ちは落ち着いていた。もうずいぶん前から従軍する気持ちの準備はできている。私はもう立派な魔女なのだと、自分自身でそれが分かった。


魔女の家は連邦の要請に応じて従軍しなければならない決まりがある。それぞれの家は少なくとも一人ずつ、魔女を軍に差し出さなければならない。


連邦議会の1/3は魔道士の家からの出身で、残りは衆民(と言っても殆どが資産のある家――――多くは財閥系)で占められている。この国での魔女の数を考えれば、1/3という数はいびつと言えるほどに大きい。魔道士が政治でも大きな力を持つのは、古くは地域で占いごとや医師業を続けて権力があったからだけど、近代では相応の血を流してきたからという理由が大きい。


魔女の力は戦場では大いに役に立つものだそうだ。初めて魔女が戦場に登場したのは、60年前の東方領鎮定戦争で、そこで旧オグラード帝国砲兵隊は春日国連合を圧倒した。この国では今も砲兵隊は魔女精鋭部隊の象徴でもある。これは学校でも何度も何度も教わった。魔女の地位を向上させるために、魔女が血を流して勝ち取った連邦議会の議席。それは大事にしなければならない私達の権利なのだと、おばあちゃんやお母さんはよく言っていた。しかしそれは同時に、自分の血を継いだ子供を戦地に送り出すことの裏返しでもある。


おばあちゃんは二度も戦争に行った。大砲の弾が落ちる場所を何度も正確に当てて祖国を救ったのだと周りからは聞かされてきたけど、おばあちゃん自身がそれについて話すことは殆どなかった。小さい頃、おばあちゃんの部屋の引き出しをこっそり探り、大きな勲章を何個も見つけたことがあった。子供の頃はおもちゃだと思っていたけれど、多分本物なんだろう。他の家では、正装する時に魔女が勲章を付けているのをよく見たけど、おばあちゃんはそういうことはしなかった。お母さんも魔女では無かったけれど、一度従軍した。


戦争に行くかもしれない。その時は少し怖かったような記憶があるけど、どこか他人のような気持ちでもあった。おばあちゃんや、他の魔女も今までやってきたことなら私にも何となくできそうな気がした。


そうして私は中等教育課程を終えてからすぐ、連邦陸軍の士官学校に入った。士官学校では厳しい教育が待っていると思っていたのだけど、私にとってはそこまで苦痛ではなかった。そこでは魔女だからという理由で意地悪なことをする同級生は居なかったし、そもそも、魔導教練隊の同期生も教官も殆どは魔道士だった。魔道士の指示の通りに生活して、言われたことをやればそれで評価されたのだから、私にとっては楽だった。初年の教官は、金浦大尉。男の魔道士だった。男の魔道士が居るというのは知っていたけど、見るのは初めてだったから驚いた。


金浦大尉は魔女という言葉を嫌った。魔道士には女も男もいるのだから、魔女と呼ぶべきではないのだそうだ。だから、私はできるだけ魔道士と呼ぶようにしていたのだけど、「魔女」の方がずっと短いから、未だに「魔女」と言ってしまうことのほうが多い。


金浦少尉は熱心に指導してくれた。砲兵隊の運用から、魔導による弾着観測、偵察、通信の傍受まで。戦場において魔道士がどうあるべきか、どう振る舞うべきかを教えてくれた。「私は職業軍人として生きることを選んだ魔道士だが、君たちの多くは盟約従軍だ。いずれ家に戻ることを忘れないよう」と言ってくれた言葉が忘れられない。


同じ魔女の同期生や金浦大尉のような教官と共に過ごしたのは私にとって幸せであったが、一番は文佳さんが居てくれたことだった。


従軍する魔女には同じ家系から従士が付くきまりになっている。古くは10人も従えたというが、最近では魔女の家はどこも小さくなっているから一人か二人がせいぜいということだった。私には横堀家から文佳さんが来てくれた。文佳さんは私の5つ上で、立場的には私の方が上だったけれど、「お姉さん」という雰囲気だった。


従軍する魔女は魔導衣を纏うことになっていた。体を覆う一枚布で、頭に被せるフードが首に付いていた。色は白と昔から決まっていて、背中には神室家の家紋が入っていた。文佳さんも従士の証として、同じ家紋が入った魔導衣を着る。士官学校に居る時は、魔女がみんな自分のところの家紋が入った魔導衣を着ているから、顔を覚えるよりも家紋を覚えるほうが早かった。新しい場所で、同じ服を着た二人が居たのは心強かった。文佳さんは私よりもずっと頭が良くて、なんでも教えてくれた。野戦教習で初めて外で夜を明かしたときも、ずっとそばに居てくれた。まるで私が従えているようだった。


でも軍隊は色々な面倒な決まりが多かった。まず、文佳さんは私の副官、という扱いだった。立場が上の物が下のものと同期のような喋り方をするのはだめだと怒られたので、他の人がいる前では「横堀副官」と呼ばなければならなかった。私が初めて「横堀副官」と言った時、文佳さんは「はい、神室少尉」と真顔で応えて、そのあと堪えきれなくなって二人で大笑いした。私はまだ少尉ではなかったけど、ふたりで真面目くさった顔をして見つめ合っているのが耐えられず、ふざけあっているとしか思えなかった。


士官学校に居た時はあまりにも居心地が良くて、いずれ戦争になるかも知れないとはあまり考えなかった。本当は心の中では意識していたけど、見えないふりをしていたのだと思う。


その頃の春日国の新聞は気分が悪くなるので、あまり読まないようにしていた。何かにつけて「科学の夜明け」が訪れて魔導の力は時代遅れになるのだと書かれていた。春日国の科学技術がいかに優れていて、一方でオグラード連邦が前時代的な価値基準に固執する古い教義国家だとこき下ろしていた。


確かにそうかもしれない。魔女は前時代的で、いずれ世界から消え去ってしまう運命にある古い存在かもしれない。でも、魔女は、魔導は、魔道士は文化の一つでもある。何世代も人々が魔道士を頼ってきたのは、人々が魔導の力を信じ、それに生活を依存してきたからだ。古来より続く風習はいつしか世代を超えて人々の心に根ざし、いつしか文化となる。魔女は文化だ。科学が隆盛するとき、魔女はそれと相容れない存在ではない。


けれども、春日国は相容れないものとして自国領土からの魔女の排斥運動を進めている。そこには政治的な思惑が渦巻いているプロパガンダであることは明らかだった。けれど、長年の経済恐慌によって恐怖の感情を受け付けられている春日国民にとっては、生活に直結する利害だと認識したんだろう。


国民の国に対する不満を近隣諸国にぶつけて、自分の政治体制を維持する。それに、春日国民もオグラード連邦の民も、巻き添えを食っている。


けれど、ここ葉山州ではとりわけデリケートな問題を孕んでいる。葉山州は150年前に西方戦争で連邦が春日国から奪った土地だった。連邦の統治は穏健で、国民が春日国の名前を名乗ることも許したし、「葉山州」という春日国由来の名前を付けたことからも分かるように、地元民の統治権を重視していた。連邦は学校を建て、魔女を送り、医療も教育体制も整備した。しかし、それでも彼らにとって私達は侵略者のままなんだ。


私は春日国の名前を持ちながら、オグラード連邦の旗を持って、春日国の人たちと戦わなくてはならない。言葉も同じ、名前も同じ、同じご飯を食べる人たちと。

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Factory on the Moon: 1940 yuri makoto @withpop

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