2. 近接遭遇
*1942年10月03日 綾瀬雪彦*
頭上に張った布にボツボツと雨粒がぶつかる音がする。ひたすらに不快だった。昨日からの待機命令が下りてからずっと雨は降り注いでいる。いい加減、我慢の限界に達していた。我々に与えられたのは防水布だけだった。天幕すら用意されていない。雨が降ることすら計画に入っていなかったような状態で、我々は敵地へ足を踏み入れるのか。
隣に目をやると皆とうに緊張の糸は切れ、ひとすらに苛立った様子だった。普通の兵科と違って我々はこういった野戦じみた経験が薄い。養成学校の科目では一通り経験したものの、それきりだった。
昨日の時点ですでに侵攻が開始されていたはずだったが、田んぼの水路の中に押し込められて丸1日。
そもそも、航空偵察隊が野営するというのはかなり無理な作戦だ。重飛行機は全天候での運用を想定しているが、軽飛行機は基本的には晴天昼間のみの運用とされているし、露天で保管しておくことも想定されていない。
なのに、我々がずぶ濡れになりながらひたすら耐えている理由は、主に航続距離の問題からだ。重飛行機械と違ってせいぜいが2~3人乗りの軽飛行機械は単機関なので最大離陸重量は大したことが無い。操縦手、無線手と観測手で2~3人(2人というのは仕事を兼ねる場合も)、主武装の12mm機関銃、レシプロエンジンと発電機、それに無線機の合計重量程度を想定して設計されている。燃料は、機関の余剰能力分で決められるから、それほど載せられるわけではないし、機体によってもまちまちだった。
しかも今回の作戦では最も重要な兵器―――200kgの投下爆弾が我々の機には装着されていた。砲弾を爆薬で打ち上げるのではなく、肉眼で捉えた目標に向かって爆弾を抱えて急降下し、爆弾を投下、すぐさま反転上昇する。一歩間違えれば自爆攻撃とも言える大胆な戦術だ。そして、この200kgの離陸重量分は燃料を減らすことで埋め合わせたために、航続距離が半分以下になった。そのために、快適な飛行場を捨ててオグラード連邦との国境付近まで出張って雨に濡れている。そういうわけだ。
この作戦がうまく行けば、我々の隊は世界ではじめての航空偵察**爆撃**隊と呼称が変更されるだろう、軍部からはそう聞かせられている。我々は栄誉ある新兵科の実験部隊として選ばれた。たかが名前だが、しかし士気に与える影響は大きかった。我々は丸々1年もの間、演習場に描かれた的に向かって模擬弾を毎日投下してきた。そしてようやく敵地侵攻という晴れ舞台、とはならなかった。雨だったから。たかが雨といえど士気を削ぐ効果は大きかった。下着まで水が染みてケツが冷たい。こんなざまで戦えるのか。
不安は他にもある。雨が投下爆弾を湿気させるのではないか。無線機も漏電で使えなくなるのでは。索敵結果が伝えられなければ後続する302連隊は動かない。暇だと悪いことばかり考えてしまう。僕の昔からの癖だった。くそっ、寒い。冷たい。気持ち悪い。
岩本が黙ってタバコを差し出したのでそれに火を付けた。よくタバコを濡らさないものだと目をやると、岩本はしっかりとタバコの箱を防水布で拵えた袋に入れていたのだった。その袋はタバコ一箱がきっちり収まるような大きさで、丁寧に縫い合わされ、口が巾着のように結ばれていた。岩本が給食部の女にでも言って作らせたのだろう。僕は、はっ、と乾いた笑みを見せると、岩本は何も言わずとも意味を察したらしく、意味ありげに口角を上ににじり寄せていた。後方のお偉方も皆、岩本を見習うべきだろう。
「明日には下命される」
「なぜ言い切れる?」
「だって、前線にはもう飯が無いからな。明日を逃せば再補給を受けてからになる。そうなれば更に3~4日後伸ばしになってしまう」
「お前、それも給食部で聞いたのか」
岩本はまた同じ笑みを浮かべた。
「ここで待ってるのは俺たちだけじゃないからな。軍集団全員がそうだ。あまりチンタラやってると流石に連邦も気づくだろうからな。ま、何れにせよ、明けない夜は無い。上がらない雨も無い」
「どうだろうな。引っ込みが付かなくなって今より悪い時勢で下命されるかも」
「お前は悲観的すぎるんだよ。もうちょっと気楽に考えろ。俺たちは-」
岩本がそこまで言いかけたところで、防水布を引き上げるものが居た。
「おい、誰だ!屋島か!湿気るだろうが!」
「大丈夫ですよ、小隊長殿。もっと良いところに連れてってくれるらしいす」
屋島は手で合図した。その「良いところ」、なるものが雨を完全にしのげる場所であればどこでも良いと思っていた。が、現実はそれよりも良かった。空になった家畜小屋の中に焚き火がされている。
「正気か。火を焚いてんじゃないか」
「かまやしねぇよ。どうせ見えやしねぇって。外じゃあるまいし」
「屋島、どういうことだ」
「農家のおっさんが開けてくれたんす。今は時期じゃないから家畜も居ないし、きれいにしてるからそんなに臭わないだろうって」
「ずぶ濡れで侵攻するほうが士気に関わるや。ここでゆっくりしようぜ。前線を守ってるというわけでも無いんだ」
それもそうだと思った。小うるさい連中は後方に引き込んでるだろうしな。伝令が来るとしても、夜ということは絶対にない。
僕はついに乾いた藁に座り込んだ。濡れないように手で屋根を作ったタバコを一気に吸い込んだ。ああ、乾いている、もう動きたくない。しかし立場的に寝転がるわけにも行かない。
見渡すと小隊の殆どの面々が揃っている。他の小隊からも何人か混じっているようだった。20人は居るだろうか。焚き火の煙が漂っていた。焚き火をするような構造になっていないから仕方ない、それに雨よりは煙い方がまだましであった。
目を瞑って考える。皆、緊張しているのか、話し声は聞こえない。雨がトタン屋根を叩く音と、焚き火の爆ぜる音がたまに聞こえる程度だ。
もう一般市民にも知れ渡っているという事だ。それはそうか。こんなに大集団で陣取って、いくら稲刈りが終わっているとはいえ、流石に地元民には気づかれるだろう。自国民なのだからそれはいい。しかしここは国境だ。諜報部は何を考えてるのだろうか。オグラード連邦の民もいくらかは潜り込んで居るだろう。
そういえば、まだ遺書を書いていなかった。遺書。何を書けば良いのか。何も思い浮かばない。岩本などは先日、代わりに遺書を書いてくれと言ってきていた。生き延びるつもりで居るわけでもないが、しかし、別段この世に何かこれと言って未練があるわけでもない。
藁と焚き火の熱で乾いてきた服の感触を確かめながら、暗闇の中に沈み込むのが分かった。どこかで雨漏りしているのだろうか、ぴちょん、ぴちょんと雨粒が落ちる音がする。坪のようななにか、容量のある器の中に落ちるような…。沼に沈み込むような。体が藁に沈んでいく。柔らかな綿の詰まった暗闇を抜ける。体中に闇がまとわりつく。焚き火は消えていた。
外は―――――霧だった。雨は降っていない。しかし、殆ど視界が効かない。視程は300mも無いだろう。あたり一面が水墨画のような世界であった。音もない。世界に一人だけになったようだ。
その白黒の世界から、岩本が小走りで駆けてくる。最初、岩本は笑ってるように見えた。
「岩本、外れたな。いくら何でもこの霧では今日ということはない」
「いや、今日だ。言っただろう」
岩本は、タバコを吸うか、とでも言うのと同じ調子で平然と言った。
「本日0600をもって春日国はオグラード連邦に侵攻、201中隊は連邦軍前線砲兵部隊を捜索、攻撃。」
「この霧でか!」
「そうだ。言っただろう。もう飯が無いんだから、今日やるしかない。」
心臓が拍動するのが触覚で感じられる。上は何を考えている?この霧では捜索もなにも無い。迷って帰投できない機も増えるだろう。普通に考えれば撤収の後改めて展開…いや、僕は知っていた。判断に躊躇し、どうにもならなくなってからの侵攻がなされるはずだと。一度国境に展開した軍を大本営が引っ込める訳がない。意地の張り合いなのだから。くそッ。
いや、そうだ、落ち着け。また過去のことを考えている。それも僕の手が及ばないところを。たとえ最初に気づいていたとしても、それを止める手立ては無かったはずだ。いましなければならないのは―――――
「時間は」
「あと1時間と無いぞ。すぐに叩き起こせ」
延々と決断を先延ばしにして、最後に残されたのは1時間に満たない時間。しかし、我々にはそれで十分であった。この日のために幾度となく訓練を重ねてきた。声を上げると一斉に兵が集まり、飛行機械の発電機が回り始めた。整備班は手慣れた様子で推進用発動機を始動させる。愛機の発動機は温まるまでは安定しないし、少し無理をさせるとすぐに音を上げる外れ玉だったが、今日は不思議と寒空の下でも滑らかに回っているような気がした。
状況は最悪だった。視界は効かない。今日以降の補給もどうなるかわからない。302連隊はどこまで進出できるのか。
我々が勝てる道筋は一つだけだった。オグラード連邦国境を過ぎてすぐの師戸大橋を確保すること。そのためにはすぐに前線の砲兵隊を片付けないとならない。連邦軍も国境沿いに砲兵隊を展開している。
しかし、いくら虎の子の偵察爆撃隊といえどオグラード連邦砲兵大隊を壊滅させるほどの爆弾は準備していないし、軽飛行機械の数も限られている上、稼働率はそこまで高くなかった。201飛行中隊が空から混乱させている間に、302連隊が機甲部隊で前線を抜いて砲兵隊を蹂躙し、後続する歩兵大隊が師戸大橋を確保しなければならない。
奇襲で敵の前線を突破できなければ、あとはジリ貧で押されるしかない。我々が連邦軍に勝っているのは、軽飛行機と機甲車両の数だけだ。今日中に橋を確保できなければ、川向うからオグラード連邦の砲兵隊が嫌というほど砲弾の雨を降らせて我々は近づくこともできないだろう。
そうなると取れる手は限られてくる。砲兵隊と工兵隊が決死で橋をかけるしかない。本当は、空軍が重装航空艦隊を引き連れて砲兵隊を潰すのが最も合理的なのだが。しかし空軍は絶対に出てこない。生き残っている高射砲陣地に突入していくのだし、連邦の航空艦隊位置もつかめていない。間違いなく嫌がるだろう。
そもそも軽飛行機偵察隊は、空軍がまともに偵察や弾着観測もしてくれないから陸軍が独自に創設した隊だ。空軍は航空艦隊同士でドンパチやるのが華で、衆民もその姿を国威そのものだと思っている。そうしてチンタラやっている間に、連邦軍は準備を整えて攻勢に出てくるはずだ。国家軍の総力では、連邦が春日国を圧倒しているのだから。
つまり、本日がすでにこの戦争の山場だ。大本営は本当にそれを理解しているのだろうか。
コックピットに深く腰を下ろす。座り心地は最悪だ。鉄が露出している椅子なのだから。自分が機械の一部になったような気さえする。調子が良いということか。
「屋島、航法、無線良いか」
「オーケーす」
後ろの屋島も、大したものだった。初陣だと言うのに言葉に落ち着きが感じられる。準備は整った。意識的に思い切り息を吸い込み、静かに吐き出す。続いて(単縦隊で続け)の合図を手信号で送る。完全な奇襲となすために無線は攻撃開始まで封鎖することになっている。
僕は発電機のスロットルを目一杯押し込み、同時に発動機のスロットルを少しずつ押し込み前進した。発動機が唸りをあげて追従する。
通常、軽飛行機は敵からの発見を極力遅らせるために匍匐飛行、つまり、地形に追従して這うように低高度を飛行することを基本とする、というのが教科書的な運用であった。しかしこの霧では危険すぎる。初陣で初の被害が山に激突して墜落となったのでは情けなさすぎる。高度を取る他ない。
下を見ると整備班の面々が帽子を降っていたので、機体を左右に振ってそれに応えた。
出撃してしばらくは霧で殆ど周りが見えない。やはり高度を取るしか無かった。しかし幸いだったのは、高度をとっても相手側からもこちらの機影は視認されにくいということだった。もっとも、発動機の音は聞こえるから完全に隠密性が保たれるというわけでもない。
―――――でも、魔女なら察知するかもしれない。そう思うと寒気がした。
しばらく飛ぶと、霧が薄らいできた。日が差し込み、徐々に霧が晴れていく。朝日が杉林の輪郭を切り取って、霧に影を落としていた。オグラード領内ももうすでに稲刈りを終えたのだな、と思った。田園風景が続き、ポツポツと農家が分散している。給水塔の影が朝日を浴びて長く伸びている。平和な光景であった。まだ誰もこれから起こる惨事を知らない。
地形は頭の中に叩き込んだ地図と完全に一致している。どこに居るかが航空地図を見なくとも手に取るようにわかった。――――あれだ。前線部隊の掩蔽壕。
「綾瀬さん、砲兵では」屋島が怒鳴るように言う。
「いいや、もう少し奥だろう。先に進む」
何人かは小銃をこちらに向けて発砲するような仕草をしていたが、この速度ではまともに当たらないだろう。何故か子供の頃、蟻の巣にいたずらしていたのを思い出した。
目標の砲兵隊は前線を過ぎて数分の位置に見つかった。簡単な偽装がされているが、軽航空機の高度ならば肉眼でもはっきりと位置がわかる。ぎりぎりまで射程を伸ばそうと出張ってきたのだろう。勇敢な指揮官なのか、自信があるのか。単に馬鹿なのか。
いよいよ始まる。やるべきことは決まった。
「第一小隊、単縦隊のまま急降下爆撃に移行。隊長機に続け」
何百回の訓練と全く同じように、現実感を感じさせないまま操縦桿を押し倒した。対空砲の一つすら撃ってこない。完全な奇襲だった。すべてが思い通りになっている。
「高度800…700…600…」
屋島が高度を読み上げるのに合わせて、爆弾を投下した。機から分離した爆弾は偽装された幕を突き破り後ろで炸裂した。続けて後続する機が放った爆弾が次々と炸裂する。人のような形をした物体が空中に放り投げられるのが見えたような気がした。
「第一小隊、隊長機は旋回し砲撃指示に入る。援護しつつ、可能ならば機銃掃射で地上部隊の行動を阻止。無理はするな。屋島、諸元伝えろ」
「準備できてます。――――2022より301G、砲兵隊発見。試射、1-1-0、8300」
しばらくして師団砲兵隊の爆撃が連邦砲兵隊の陣地にまばらに届き始めた。後方では岩本小隊が前線の速射砲を攻撃している報が入る。僕は陣地を緩やかに旋回し、屋島に任せておくだけだった。僕の興味は一つだった。ここまで進撃してきたのだから、一度肉眼で見ておきたかった。
そして目が釘付けになった。掩蔽壕から飛び出してきた、明らかに他とは違う軍服を着た人間。白い外套を羽織った、軍人にしては華奢な印象をうける人間。この距離でもその目がまっすぐ僕の機を射ているのがわかる。朝日に照らされて、彼女は臆することもなくゆっくりと進み出て、僕を見つめていた。この世のものとは思えない、何か畏怖のようなものを身にまとっているような。不吉な存在。魔女だ。あれが、魔女の率いる軍隊だ。
「HE、効力射」
屋島がそう告げてしばらく経つと、魔女は爆炎の中に姿を消した。
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