第36話
……?
何故ここに居るのかが、そもそも解らない。
昼と夕方の中間のような明るさ。見慣れた街並み。そして、土砂降りの中。
シキはびしょ濡れになって立ち尽くしていた。
いつから。どうやって。どうして。
考えても何も浮かばなかった。
永い眠りから目が覚めたような感覚に、頭がまだぼんやりとしている。
不思議だ。
見慣れて、よく知っている筈の街なのに、初めて訪れたかのような違和感がある。視界に入って認識したものは受け入れられるが、その先にあるものがまるで解らない。
知っているのに、知らない。
ここは、本当にかつて住んでいた街なのだろうか。
出会いと別れの殆ど全てが詰まった街。その筈なのに、違うようにも思う。
身震いをした。いつから雨に当たっているのか解らないが、全身は冷えきっている。
夢を見ているのだろうか。もしかしたら、そうなのかもしれない。何故なら、この空間に、シキ以外誰も居ないのだ。
聞こえるのは雨の音だけ。耳について、ノイズのようにも聞こえる。
「うう……」
不安を覚え、腕を抱いた。
すぐ近くの建物まで歩き、壁に背を付けて俯く。
寂しい。
シキはその場に座り込んだ。膝を抱え、頬を載せる。
雨の日は嫌いだ。誰かに出会うが、出会った者はみんな居なくなる。別れると解っているなら、初めから会いたくない。得る苦痛は辛すぎる。
晴れて欲しい。そして、青空が見たい。
空。
帰れると、確かに思った筈なのに、まだこの大地に居る。そもそも、あの後、どうなってしまったのだろう。シュウと空を見た後、気が付いたらここに居た。
「あ……」
瘴気がない。
はっとして顔を上げ、反射的に両手を見た。そして眼に入った左手首を凝視する。
傷がない。コウの力を持ってしても消えなかった古い傷痕が、綺麗になくなっている。
「なんで……」
それらが無くなったこと自体は構わない。しかし、何故無くなったかが問題だ。
呪いも過去も消えたこの場所は、一体何だ。
色を失って手の平を眺めていると、正面に影がかかった。
「やっと見つけた。こんなトコに座り込んで何してんだよ」
聞き間違いか?
疑問を抱きながら、シキは恐る恐る顔を上げた。
「……シュウ?」
にやけた自称キス魔がそこに居る。今思い返せば、自称しているだけで実はそれほどでもない。それはさておき。
「なんだ? 忘れちゃったか?」
「いや……でも、なんで……」
混乱は極まる。
「おまえ寝ぼすけだから迎えに来てやったんだよ」
ほら、と手が差し伸べられる。
触れて大丈夫だろうか。躊躇っていると、改めて手が伸びてきた。
「ほーら」
「……うん」
指先で、彼の掌に触れる。待ちくたびれた手に突如として掴まれ、引き上げられた。
無理矢理立たされても、その後どうすればいいか解らない。
「どこか行きたいところ、ある?」
突然聞かれても困る。まずは現状を把握したいのだが、尋ねてまともに返ってくるかどうかがそもそも怪しい。
「色々わかんないだろうけどさ、後にしようぜ。それより、何処か行こう」
「後で、ちゃんと説明しろよ」
「約束する」
期待しておこう。
それよりも、行きたい場所の候補地が一つも思い浮かばない。選択肢を上げようにも、上げるだけの場所を知らない。知っている場所も、わざわざ行きたいと思うような場所ではなかった。
行ったことが無くて、行ってみたい場所。
一つだけ、候補があった。
「海……」
「ん?」
「海に、行ってみたい」
シュウにとっては嫌な場所だろう。断られる可能性はある。
しかし、見てみたかった。空よりも濃い青が広がるというその場所。きっと綺麗なものに違いない。
「よし、決まり。ちょっと遠いけど、連れてってやる」
「いいのか?」
「何だよ。行きたいんだろ? それとも、俺のこと気にしてんの?」
「そりゃあ、気にもするよ……」
なにせ、実の親に殺されかけた場所だ。それによって狂気が生まれた。このことについて本人は悪く語ったことはない。しかし、普通に考えてそんな所にすすんで行きたいとは思わないだろう。
「じゃあ、気にすんな。俺は別に何とも思ってないし。久しぶりだな、位にしか」
「本当?」
「信用ねぇなぁ……。まあ、仕方ないとは思うけどさ……」
少しだけ、シュウは俯いた。
「いいよ。信じる」
全ては過去のこと。一段落ついた今になって昔のことを言っても意味がない。
「案内してくれるんだろ?」
「勿論」
肩を並べて歩き出す。
坂を上り、古巣を横目に、今、知らない場所へと向かっている。
歩いている間に雨脚は弱まり、やがて止んでしまった。切れ始めた雲間から申し訳程度に覗く太陽が、冬の雨に冷えた身体をゆっくりと照らし始めている。
いつの間にか、口元が綻んでいた。笑っている。楽しい、嬉しいと、心の底から思っている。
瘴気のない生とは、こんなにも平穏なのか。
第一に、果たして今、生きているのかどうかもよく解らない。若しくは、そう表現して良いのかどうか。
もしかしたら、夢を見ているのかもしれない。
それとも、今までが夢だったのだろうか。
これが現実か。それとも、夢か、はたまた死後の世界か。
――どっちでもいいや。
こうして笑うことが出来る。
それだけで充分だ。
D.G. タカツキユウト @yuuto_takatsuki
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