第35話

 鼻のむず痒い感覚に何度か嫌がりながら、シュウは目を開けた。カーテンのない窓からは光が直接差し込んで、シュウの目を痛める。目に入る光に違和感を覚えながらも、シュウは白い世界を眺め続けた。

 何が感覚を狂わせるのか。どこから違和感が来るのか。寝起きの頭の動きは鈍い。理解に行き着く為の情報の収集能力が極端に低下していた。

 横向きに寝たところに窓から溢れんばかりの光が差し込んでくる。身体はベッドの上にあって、上掛けが掛けられている。

 ――そういえば、何故、光が?

 シュウの頭の中では、まだ外は雨が降っている。けれど、現実には光の洪水である。

 そして今の状態。昨晩はシキが寝ている脇のベッドの余った部分に座っていたが、いつ横になったか記憶がない。横にはシキが寝ている――筈。

 手を付き未だ怠い身体を起こす。軋む音がしそうな首を回して、シキの方を見た。

「えぇ?」

 思わず声にした。脇に誰も居ないどころか、自分がベッドの真ん中に寝ていたのだ。台所の方にも気配はない。外は晴れ。

 シュウは目眩がするのも構わずに飛び起きた。机の上の銃を取ろうとすると、シキの銃は既に無い。一つ残されたシュウの銃を手に、一応残りの弾丸を確かめて予備をポケットに詰めると、生乾きのコートを羽織ってドアを蹴った。

 この街の雨は一度降ると短くても三日は止まないのが常であったのに、次の日の今日には憎らしい程の良い天気になっている。天は彼らに数日の猶予も与えてくれなかった。たった一晩。呆気ない程の短い時間しか用意したくなかったらしい。こんな時に限って、とシュウは舌打ちした。

 そしてシキが居なかったことも気が気でなかった。いつから外が晴れていたのかは分からない。今は昼近くだろうが、シキは一体いつから居なかったのか。晴れたら行こうと言ったのはシュウだったが、こんなに早く晴れることはシュウの予想外だった。それを寝坊の理由にすることは出来るが、シキが一人で行くということも考えていなかった。もし始まってしまっていたら。もし全てが終わってしまっていたら。考えるたびに心臓に一筋ずつ傷が刻まれるようだった。

 ――どうか間に合ってくれ!

 信じてもいない癖に、神にも縋りたいような気持ちで階段を飛び降りるように下った。

 最後の踊り場に着いたとき、シュウは下の階を見て足を止めた。階段を下りきったアパートの入り口近くの角に、シキが膝を抱えて座っていた。ちゃんと乾いていない赤のハーフコートを羽織り、心持ち寒そうにしていた。

「シュウ。起きんの遅すぎ」

 言ってから踊り場に立ち尽くしていたシュウをシキは見上げた。そのシキを見てシュウは膝から力が抜けそうだった。

「悪い」

 いつもの口癖と笑みで誤魔化すと、シュウはゆっくり階段を降りた。一歩一歩踏みしめながら、今までの焦りを忘れ昨晩心に決めたことを思い出した。そして誓い直す。強い決心を、更に揺るがないものにする為に。

「こんな時に限って一日しか降らないなんてな」

 シキが降りてきたシュウを脇に、座ったまま言った。扉の隙間から差し込む光を忌々しそうに見ながら、一息ついた後立ち上がった。軽くコートの裾を払う。そしてシュウを見上げた。

「終わりにしに行こう」

 清々しささえある笑みで、シキは言う。昨晩まで熱で赤い顔をしていたのに、今は青白くさえある。瘴気はシュウがはっきりと感じ取れるほどに強い。恐らく熱は上がる一方であるだろうに、シキはそんな様子を微塵も感じさせない。綺麗に上がった口の端が、現実が嘘であるかのように現状を描いてしまった。

 シュウは隠れて拳を握り締めた。シキの言葉に頷いて返すが、その奥歯は密かに力を入れている。

 シキは両手出入り口の扉を開けた。冬の日差しが溢れ込んでくる。シキは痛みを覚えたように僅かに顔を背け眉を顰めたが、それでも躊躇わずに外に歩み出た。

 シキを先頭に、雨上がりの路上に足を踏み出す。

 その時、ごう、と頭上で大きな何かが過ぎっていくような音を聞いた。そんな気がした。同時に微妙な影を感じた。不安さえ呼び起こす、そんな影を背後に感じる。

 シキが最初に空を見た。つられてシュウも上を見上げる。

 二人とも息を呑み、僅かに口を開けたまま空に見入った。

 今の状況を忘れたわけではない。しかし、見ずには居られなかった。心を縛られずには居られなかった。

 太陽が丸い影に喰われ始めていた。じりじりと影は太陽を覆い、光を削り取ってゆく。

 日蝕だ。

 月が太陽を喰い、そしてやがては辺りを闇に変える。ほんの一瞬のことだが、光が無くなる。その現象を二人は初めて目の当たりにした。

 神秘とも魔性とも言える光景に終焉を感じざるを得なかった。



 良い予感は過ぎらなかった。初めて見る蝕。寒さの所為にもしたくなる震えが、背筋を這い上がっていった。

 シキは始めて空が恐ろしいと思った。空に対してこんな感覚を抱いたのは初めてだ。憎らしく羨望を向ける先であっただけの空が、今は恐ろしい姿を曝している。恋さえした太陽が、移り気な月に蝕まれていく様を見ていることが苦痛になった。

 空から顔を背け、シキは次の一歩を踏もうとした。

 だが、結果として一歩目もまともに踏めなかった。呼吸を奪うものが鳩尾に食い込んだ。空の影に気を取られ、目の前にそびえた影に気が付かなかったのだ。

「なんで……」

 薄れ行く視界の中にシュウを見た。把握できたのはそれだけだ。遠退く意識をどうすることも出来ない。



 答えを聞く間もなく、シキは気絶して崩れた。落ちるシキをシュウは片腕で支える。

「悪いな。死にに行くようなおまえを、連れてく訳にはいかないんだ。俺は、おまえをトイに殺させたくない。それよりも、何があっても、おまえを死なせたくないんだ」

 シュウはシキを抱き抱えると、アパートに戻った。シキを彼の部屋の彼のベッドに寝かせると、上掛けを掛けて窓を開けた。柔らかな風がそよいでいる。

 シュウはシキの額に触れた。白い顔からは想像が出来ない程に熱い。燃え上がりそう体温に堪えきれず、シュウは大した時間手を置いていられなかった。このままではシキの身体が壊れるのも時間の問題。しかし、シュウは彼を連れて行かないことを選んだ。前の晩から決めていたことだ。

「ゆっくり休んでていいからな。来るんだったら、全て終わってからでいいから」

 優しく声を残し、シュウはそこを後にした。振り返ることは一度としてしなかった。

 向かう先に迷いはない。

 トイが選べる場所は一つしかない。

 シュウは欠け始めた太陽を背に、荒れた道を急いだ。だが、走ることはしなかった。

 シキが憎悪する大地。それを詰るように踏みつけて歩いた。


   *


 トイは窓の下で足を伸ばして座り込んでいた。マルクの部屋だ。あれから一歩も動いていない。

 外の異変に気付き、顔を上げて目を窓の外にやった。

 欠けた太陽が目に入った。欠け始めて少し時間が経っているようだったが、今までそれに気が付かなかった。少し目を細めただけで、トイは手元に視線を戻した。足の上にはまだマルクの頭蓋の残骸が散らばっている。その欠片の一つを手に取った。

「今日がきっと終わりの日になるだろうから、見守っててよ、マルク。俺をまた人形にしたいなら、ここで笑ってればいいさ」

 手にした欠片を適当な方へ放った。それは灰や泥水に紛れて姿を消した。

 トイは立ち上がるとズボンに残った骨を払い落とした。全身が湿っていて気分が悪いが、これはどうしようもない。

 首を一つ回して、トイは歩き始めた。シュウの出迎えの為と、何かの終わりに向けて。

 焼けた廊下を行く。この廊下が長く感じたのは今が始めてであった。あの頃は感じなかった。束縛への道であっても、あの時はそれが生きる為の鎖であった。それが今は長い。終わりは恐くない。けれど、自由は恐い。心の何処かで万が一の自由を恐れていた。

 水溜まりに足を入れては水の跳ねる音がした。炭を踏んでは崩れる音がした。それら一つ一つが異様に耳に付く。

 かつて溜まり場だった部屋の横を通った。足を止めることはしない。トイ自身は使ったことのない部屋だったが、昔のシュウの幻影をそこに見た。

 シュウと居たときだけは人間であった気がする。

 声がする。笑っている声がする。シュウの笑い声。そして自分の笑い声。

 どうしていつもあのままで居られないのか。自らの声の責めに、トイは唇を噛んだ。

 ――仕方ない。俺は創られてしまっている。そうしないと生きられないように創られているんだ。どう足掻いたって逆らえない。創り直すには、一度分解バラさなきゃならないんだ。変わるには、そうするしかないんだ。

 背につきまとう過去を振り切るように頑なに前を向いた。

 正常な痛みさえ感じないこの身体は、何処をどうすれば壊れるのか。そんなことを考えながらも、生きることが頭の中を占めている。生きたいという欲望が、死の考えを切り捨てていく。

 階段を上り、また降りる。向かっているのはエントランスだ。階段を上り下りしているのはただの時間稼ぎ。本当は、辿り着きたくないのだ。

 ぐずぐず。ぐずぐず。

 下へ向かう階段を降りながら、一度壁を思い切り殴った。焦げてはいるがコンクリートの壁だ。崩れることはなく、痛覚を与えてきた。トイに表情の変化はない。痛みは感じている。だが、痛みを感じた意味は感じていない。擦り剥けて血が滲む手を見やることもなく、トイは階段を下った。

 エントランスに出る階段を下りきったとき、目の前の入り口からシュウの姿が現れた。シュウ一人だけであるのを確認し、トイはほんの僅か口の端を上げた。



「良く来たね。覚悟は、してきた?」

 その声でシュウは初めて目の前のトイの存在に気が付いた。無機質な表情をしたトイは、昔のままだ。

 シュウは拳を握り、爪を手の平に食い込ませた。

「おまえを壊す為に来た。どのみち、後には引けない」

「俺に銃を向けられる?」

 嫌味なまでに造作した笑みがシュウを威圧する。違う理由で引きそうになりながらも、足を踏みしめる。威圧が圧してくるのではない。

「一度向けた。これから、もう一度向けるさ」

「あの時は距離があったし、あの暗がりだ。俺だって認識してなかっただろ? シュウは俺の力以前に、俺というものに銃は向けられないんだよ。俺が、一番よく知ってる」

 言葉で言うよりも見せつけようとして、シュウは既に銃を手にした腕を上げようとした。だが、手首が僅かに上を向いただけで腕自体はびくともしない。どんなに力を入れても、誰かに押さえつけられているかのように動かせない。シュウは自らの右腕を掴んだ。爪を立て、痛覚を呼ぶ。感覚はある。けれど、運動神経はまるで機能していないかのようだった。

 そんなシュウを見て、トイは声を立てて笑った。似合わない乾いた声だ。

「シュウが俺に銃を向けられるなら、とっくの昔に殺してるよ。シュウが、か、俺が、かは判らないけど」

 綺麗に造られすぎた人形の笑みがシュウを蔑む。

 決心とは別の所でこの身体は動かないらしい。正体の見えなかったそれに、シュウは今になって気が付いた。トイに銃口を突きつけられない理由は、一つには確かにトイの力というものがあるのだろう。だが、最も根底にあるのはもっと単純なことだった。気が付いて泣きそうにさえなる、そんな感情が奥底に佇んでいた。

 顔を歪め、震えそうになる唇を一度固く結んで堪える。

「やっぱり俺、おまえのことが大切なんだよ」

「〝大切〟や〝好き〟じゃ生き延びられないよ?」

 トイは同じ表情のまま、シュウに歩み寄った。立ち尽くしたままのシュウを見上げる。十センチ近くの差がある為、かなりの上目遣いになる。トイの左手は銃に手を掛けたシュウの右手に触れた。

 シュウに凭れているトイの口は耳元にある。耳に食いつけそうな位置で、トイは囁いた。

「俺を憎めよ。俺はあんたをメチャメチャにしてやる。どんなに大切なものでも、端から奪い去ってやるよ。あんたの目の前で。残酷に。そうだなぁ。こういうのはどうだろう」

 何を言おうというのか。嫌でも神経が耳に集中する。

 たっぷりと間を持って、耳元で口が開く水音がした。

「……俺があんたの大事なシキを殺したとしたら……?」

 シキの名に、シュウの表情が動いた。反応を知ってか知らずか、トイはそのまま続ける。

「足の骨を割り、肩を砕いて抵抗を抑えた後、ナイフでじっくり屠ってやった。銃を握る手の筋も、内臓も、あんたを見る瞳も、あんたを呼ぶ声も、全部切り裂いてやった。……殺したのは、俺だ」

 造られた現実がシュウの脳内で構築されていった。嘘であると言うことは誰よりもシュウが一番よく分かっている。だが、トイの言葉は魔力を持つかのようにシュウの頭に響いた。さも現実のようにせせら笑いながら語る言葉に、真実を突き破って怒りが溢れ出た。

「わかった? 今のあんたの感情が、一番強い感情だよ。解りきった嘘にも、あんたはそうやって反応する。あんたの一番は俺じゃない。自分でも解ってるんだろ? 俺は生きる為にあんたを殺す。殺してやるよ」

「トイ!」

 シュウの動作を察してトイは飛び退いた。トイの肩口に、銃口を突きつける。息を上げたシュウが、微かな震えを持つ手で銃を握り、トイに向けていた。

「やれば出来るじゃん。これで引き金引ければ上出来」

 何処までも見透かしたようにトイは言う。向けられた銃身を掴み、自分から外す。

 シュウは呼吸を乱したままゆっくりと腕を下げた。突発的な自分の行動が信じられず、トイの言葉も素通りしそうだった。

「さ。ゲームを始めよう」

 不敵にトイが笑った。

 これが現実だと、シュウは唇を噛んだ。逃れようも逆らいようもない現実。それが容赦なく襲いかかってきた。


   *


 日射しが目に痛く、シキは痛む身体を庇いながら起き上がった。胃酸が戻ってくる感覚に顔を顰め、思わず口を手で覆う。

 あれからどれくらい経ったのか不安になり、シキは窓から首を出した。

 太陽は半分くらいが黒く覆われている。割と早く気が付いた方だが、それでも時間のロスには違いない。

 シキは立ち上がって腰に手をやった。銃はそこにある。周到そうに見えてこういったところでシュウは抜けているところがある。銃がなければ、シキはトイ相手には戦えないのを知っている筈なのに。本当に戦わせたくないのか、シキは少し疑問だった。

 制止する。邪魔をする。けれど、いつも徹底していない。余地を残して、何処かで期待しているようにも思える状態にして、中途半端に散らかしていく。

 この状況にシキは言い様のない不安を覚えた。置いていかれた。コウの時も一人置いて行かれ、追いついたところでコウを失った。もしこれが本当に〝また〟であるなら、今度失うのはシュウだ。トイと戦わせることか、シキを失うことか、とにかく何かを恐れてシュウは一人で行ったということはシキにも分かっている。だが、シキに感じられたのはシュウの喪失だけだった。

 ――大切なものは全て奪われてきた。何一つ、残らずに。

 身震いの後、シキは駆け出した。おかしくなった体温のことなど気にも留めずに走った。引くことのない熱のことを考えたところで始まらない。予感としての終幕を取り払う為に、全ての想いを込めた。

 太陽が背を灼く。だが、太陽を失い始めた大地は徐々に熱を奪われていく。凍える大地は、やがて凍てつく大地へと変わる。

 気温さえ無視できる自分の発熱に、シキの心臓は壊れそうなほど激しく動いていた。どんなに足を回転させても、宙を浮いている感覚しかない。確実に前に進んでいるのに、足にはその実感が来ない。目眩もする。耳は音を集めることをやめている。普段ならこの程度の運動で息が切れることはないシキの呼吸は、今は乱れきって熱い吐息を白く吐き出していた。

 ――失いたくない。もう、失いたくない。

 燃えるような身体を引きずる力は、その想いだけだった。無音の中を駆け巡る想いが、感覚を無くした身体に鞭打っている。掻き慣れない汗が流れ、目に入って酷く染みた。拭い去る手はカサカサに乾いている。崩し去る前のコウの手に似ていた。

 自分の成れの果ては知っている。暫くすればこの苦しさは消える。汗も掻かなくなる。一切が限界を超えて、後は破壊への道しかない。そうなる前に辿り着きたい。そうなってしまっても失いたくない。

「暑い!」

 季節と真逆の感覚を叫び、青白い顔に汗が浮く。

 下がり行く気温とは裏腹にシキの体温の上昇は際限がない。

 湿っていた服はいつの間にか完全に乾き、裾をはためかせている。

 頭の中では古い地図が広げられていた。行くべき場所の見当は付いているが、まだ一度も近付いたことのない場所だ。大体の位置は知っていても、細かいこととなると怪しくなる。不鮮明な地図に目を凝らし、虫眼鏡を近付ける感覚で道を辿っていった。

 時間が経てば経つ程運動量もかさみ、体温の上昇も勢いを増した。夏に倒れた時の比ではない。あの時の体温はとっくに超えてしまっている。ぐらぐらと沸き立つ頭からも汗が流れ、不快感が一層募った。

 焼けた巨大な建物が視界に入ってきた。どうやら古びた地図は役に立ったようだ。

 太陽は半分以上隠れてしまっている。気温もだいぶ低くなった。その気温の低さもシキには何の影響もない。夏の猛暑よりは格段にマシであるには違いなかったが。

 辺りはしんとしていた。焼けたコンクリートに手を付き、中に顔を覗かせる。同じく焼けた光景があるだけで、誰も見あたらない。

 間違えたかと不安に駆られ、建物の中に一歩踏み込んだ。見るところ一面全てが焼けこげている。

 シキはまだこの建物が焼けた日の夜を覚えていた。小さかった炎は瞬く間に大きくなり、周りも巻き込んで燃えさかった。闇夜が焼け落ちるのではないかと思う程炎は高らかに上がり、真昼のように明るくなった。シキはその光景をコウと二人で窓辺に立って眺めていた。関係ないと思いながらも、その光景を自分の何かと重ねて見ていた。今になって脳裏に甦る。

 あれだけの炎だったのだ。壁しか残っていなくても無理はないと、シキはエントランスに足を進めながら天井を見上げた。

 突然、シキは身体に痛みを感じた。特に胸が締め付けられるように痛み、押さえ込んで身体を折った。呼吸がままならない。自らの熱を中からだけではなく外からも感じ、熱に包まれる苦しさに喘いだ。

 思わず膝を付きそうになったとき、一発の銃声が耳に入った。熱の所為で空耳がしたかと疑って顔を上げると、もう一発聞こえた。

 空耳ではない。

 シキは銃声のする方へ足を進めた。走りたかったが、身体が言うことをきく状態ではない。足を引きずるようにして出来るだけの速度で歩いた。

 だが、途中から違うことが頭を支配し始めた。

 ――暑い。身体が燃えそうだ。少しでいい、冷やしたい。水が欲しい……。身体が熱い……!

 頭の中は暑さと水を求めることで一杯になった。理性を失う一歩手前まで来ていることに危機感を覚えるも、苦痛は耐え難い。

「熱い……。熱い……!」

 譫言のように繰り返しながら、いつの間にか壁を伝って歩いていた。巧く歩けなくなっている。あれから銃声は何度も聞こえた。恐らくトイとシュウが撃ち合っているのだろう。止んでいないということは、まだ勝敗はついていない。

 暫くそうしているところに、水が細く流れ落ちる音が耳に入った。しかもたっぷりと水が溜まっているところに落ちている音だ。聞こえた来たのは前方の部屋の中。引きずり込まれるようにシキはその音へ向かった。

 行き着いたところは浴室だった。穴の空いた天井から下の浴槽に水が流れ落ちている。聞こえたのはこの音だ。浴槽に溜まった水は溢れて床に広がっている。雨の度に同じ事が起きているらしく、水はそれ程濁っていない。

 シキは両手をその中に浸けた。感覚が甦り、冷たさに頬が痺れる。一度手に水を掬い、顔につけた。心地よさが体中に染み入ってくる。知らずと昂揚し、半ば恍惚とさえしながら、シキは大きな浴槽の中に身体を浸していった。目を閉じ、息をするのも忘れて頭まで全身を沈めた。

 シキは腕を縮め胸の前に寄せた。足も浴槽の幅が許す限り曲げ、いつも眠る姿勢と同じになった。今は水の中。まさに羊水に漂う胎児のようになった。

 既に苦悶の表情はない。むしろ穏やかな顔をしている。

 心地良さに、意識を遠ざけた。


   *


 不毛な鬼ごっこはまだ続いていた。残弾数が心許ないので二人とも無闇に撃てない。

 シュウはどうにか引き金は引けるものの、きちんと狙うことが出来ないで居た。そんなシュウをからかうようにトイもまともに狙ってこない。いずれ決着を付けるつもりでいる者同士の撃ち合いではなかった。

「何やってんだよ、シュウ。それで俺を殺すつもりなら絶交するぞ」

「古い言葉、場違いに使ってんじゃねぇよ。おまえこそ、元のおまえに戻りたいならさっさと俺を殺れよ。掠りもしてこないんじゃ、俺だって殺る気が失せら」

「その強がり、いつまで保つかなぁ?」

「本気になるまでな」

 言ったシュウの耳元に弾丸がめり込んだ。鼓膜を強烈に刺激されてシュウは耳を押さえた。甲高い音がする金物を耳元で打ち鳴らされているようだった。残響が消えずに耳鳴りとしていつまでも続いた。

「本気じゃないのはシュウの方だろう?」

 耳鳴りに混じってトイの声が聞こえた。シュウは銃弾がやってきた方に顔を覗かせた。トイの緊張感の無い不敵な笑みがあった。シュウはそれに合わせるように苦み混じりの笑みを返す。

「おまえ相手に俺が手ェ抜くわけないだろ」

「俺相手だから手抜きになるんだろ」

「ついでにその捻くれも直してやらなきゃな」

 トイの笑みが静かに消えた。形の上ではまだ笑っている。だが、少しも笑っていない顔になった。

「いい加減さ、現実見ろよ、シュウ。そんなコトしてても、痛いだけだよ?」

 トイの言葉が突き刺す現実に、シュウは嘔吐感を覚えた。未だに逃げようとしている自分を見せつけられ、呼吸が詰まる。

 トイと笑い合った過去がよぎる。過去は消せないものだが、現実も変えられないものだ。どちらも受け入れるしかない。そうなってしまった以上、手の施しようがない。

 ――解ってる。解ってるけど……!

 理解と行動とは全く別の思考にある。シュウは銃を抱え、優柔不断な自分を呪いながら悩んだ。悩み抜いた結果の行動の筈だ。身を切るような思いをしながらシキを置き去りにし、ここに足を運び、銃を抜き、そして引き金を引いた。だが、まだ結果がない。

 振り切ってきた迷いが、本心の磁力によって引き戻されてくる。凄まじい勢いで集まってくる惑乱に頭を振った。

 抱いた熱い銃身が、冷えた身体に熱を与えた。熱を奪う熱を抱き締める。

「いいよ、トイ」

 シュウはしっかりと銃を握り、顔を上げた。

「本気で行こう」

「やっとだな」

 二人とも笑む。だが、質は違う。

 口角の角度は同じ。

 意味は真逆。



 トイはシュウの表情の意味を知っていたが、敢えてそこは突かなかった。少しのことでも際限なく悩むシュウが、簡単に心を決められるとは思っていない。迷いを忘れようとしているだけだ。忘れたことにしたまま、考えないで居るだけだ。シュウの造られた涼しげな顔に、トイはそう思った。

 彼の本当の本気は、きっとどちらが死んでも発現することはないのだろう。

 それにしても自分も覚悟がない。

 トイは思って、グリップを握り直した。

 本当に殺し合う気であるならば、相手が本気になることなど待たずにさっさと殺してしまえばいいこと。それをしないということは、甘えているこということだ。

 今まで、何があっても一つだけ捨てないことがあった。

 今でも捨ててないと思っていた。

 けれど、――

「やっぱり、終わらせたいのかもな……」

「ん? 何?」

「いや、何でもない」

 呟きを聞かれなくて良かった。怪訝な顔で見てくるシュウを笑い飛ばし、銃口を正面に突きつける。底のない暗闇が見据えるは、もう一人の覚悟のない男。

 撃てよ。

 自分が言う。

 撃たせろよ。

 自分が言う。

 本心は、どちらだ。



 仕切直しの一発をトイが放った。シュウはすんでの所で頭を下げ、難を逃れる。今までシュウの額のあった場所に穴が空いた。本気を見せつけてられる。

 ぱらぱらと落ちるコンクリートのクズを見下ろし、シュウは銃を握り直す。崩れる音が止んだところで、シュウは前に蹴り出した。

 柱の影を渡りながら牽制し、威嚇し、姿の欠片を見るだけで発砲した。端から見れば闇雲だった。しかし、狙いは定かだ。

 一発の弾丸の着弾音がしなかった。その代わりに短く息を呑む声がした。シュウは柱に身を隠し、息遣いを観察する。致命傷ではないにしろ、浅い傷とは思えない。

「利き腕撃ってくるなんて、最ッ低」

「どうせ利き腕なんてあってないようなモンだろ。いちいち騒ぐなよ」

「へぇ、知ってたんだ」

「シキを左で撃っただろ」

「それ、遅すぎ」

 乾いたトイの笑い声が響く。

 まだ遊んでいるつもりのような笑い。彼の本気と遊戯との境は、昔から見分けにくい。

 でも、知っている。

「そんな風にしながら、いっつもおまえは本気なんだろ?」

 笑い声が止んで、トイの居場所が分からなくなる。

 マガジンを捨てる音がして、新しい物を装填する音がした。トイの位置は変わっていない。同時に、溜息が聞こえた。

 シュウは音を殺しながら弾丸の残りを確かめる。心許ないが、まだ戦える。

「本気だよ。呼吸一つにも、全部本気」

 言い終わるとトイは柱から飛び出した。シュウの居る場所を正確に狙い、別の場所へ身を隠す。

 それが収まると同時に今度はシュウが柱から飛び出す。向かう先がトイの前を過ぎると分かっていて敢えてその道を辿った。

 トイの顔が見えた瞬間、シュウは引き金を引いた。狙いは正確だったはずだ。だが、トイに傷を与えることはなく、逆に左肩を吹き飛ばされたかと思う程の衝撃が来た。シュウは瞬時に腕を庇い、近くの部屋に身を隠した。押さえた手の下では上腕の上部を撃たれ、貫通していた。

「やられたな」

 シュウは一人苦笑いをして、血の付いた手を拭っう。止血の手だてはない。もとより止める気はなかった。

「これでだな」

 シュウは銃を持ち直し、トイを窺いながら言った。

「莫迦言うなよ。死んだらなんて無しなんだよ?」

「そりゃそうだ」

 二人は同時に身をさらけ出した。手負いとは思えない軽い身のこなしで、隠れたり出たりしながら、様々に位置を変えて撃ち合う。

 トイは銃を左に持ち替えていた。それでも狙いは正確。扱いに違和感はなく、全てが右手と同等。本当に利き手などあってないようなものらしい。大したものだ。

 撃ち合うこと数分、トイの右腕とシュウの右太股が撃たれたのはほぼ同時だった。

 シュウは衝撃で倒れ、やっとの事で壁に凭れると傷に手を当てた。どす黒い血が指の間から次から次へと溢れ出る。あっという間に右足が血塗れになった。

 トイは二カ所も撃たれた右腕をぶら下げて、その場からシュウを眺めている。

「もう、終わり?」

 嘲笑にも似た笑みを浮かべてシュウは苦痛混じりにトイを見上げた。殆ど暗くなっている外の僅かな光を背負ってトイは立っている。その光がやけに眩しく見えた。

 トイは笑みを消し、真正面にいる。かける言葉はこれ以上ないと言わんばかりに僅かに首を傾げ、緩やかに左腕を上げた。手には銃。外しようのない距離と位置にシュウは居る。

 銃口は静かにシュウの瞳を見つめていた。暗い奥底から放たれる死を纏った弾丸が、シュウの生を狙っている。

 トイが引き金に指をかける。シュウは目を逸らさない。

 その時、遠くから足音が聞こえた。トイは引き金を引くことをやめて音の方を見る。

 コツン コツン コツン

 靄を背負ったような影が、彼らに近付いていた。

「まさか……」

 シュウは思わず声にした。

 まさかと思ったのはトイの方が強かったようだ。やってくる影に対して口元を引きつらせている。

「生きてるのが、そんなに不思議か?」

 現れた影に驚愕するトイに、低く声が放たれた。

 荒い吐息を押し殺して、シキがゆっくりと歩み寄る。靄を背負っているように見えるものの正体が、二人には暫く分からなかった。コートの袖からは水が滴る一方、肩口からは白いものが立ち上っている。

 ――蒸発してる……?

 シュウは思ったが、有り得ないことと頭を振った。けれど、そうでもしなければシキの身体から出ている靄の説明が付かない。

「躊躇ってるから二回も撃たれるんだ。……ばぁか」

 懐かしい口調だ。

 シキは呆れ顔でこちらを見ている。

 確かに、見せられる様ではない。そして、シキが言うとおり、躊躇った結果がこの負傷だ。

 置いていったことを咎められても当然であるのに、彼はそうしない。優柔不断を莫迦と言い、立ち去ることなく、そこにいる。



 安堵した様子のシュウに対して、トイは表情を凍らせたままだ。

 無理はない。

「シュウからこの力のこと、良く聞いてないみたいだな。あの程度の傷じゃ、俺は死なない」

 は、とトイは苦笑した。

「その割に、身体、辛そうだね」

「事情はいろいろあるんだよ」

 その事情は上手く飲み込めないまま、とやかく考えるより、結果を導く方がわかりやすいと踏んだらしい。銃を手にしていないシキを見やり、トイは何の前触れも無しにシキに発砲した。

 シキは不機嫌と激痛を露わにし、溢れて仕方ない瘴気を更に意図的に発した。弾丸は例の如く消滅する。だが、トイの銃口にまで集中力を向けることが出来ず、機能停止に追い込んだのは発射された弾丸だけだった。

 トイは上手く理解できないことに苛立ちながら懲りずに二発目を撃った。それも同じように塵に変える。

「化け物か、あんた……」

 トイが珍しく畏怖の表情をした。そんなトイを嘲笑うように、苦し紛れではあったが、シキは口角を上げた。

「似たようなこと、誰かにも言われた。けどさ……」

 やっとの事で抜いた銃を、トイに向ける。誰も知ることはなかったが、シキの視界には霞が掛かりしっかりと見開いた目にも的はぼやけて映っていた。

 狙われているという気配がして銃声がするから、殺意に向けて瘴気を放っていただけだ。

 半透明の膜が掛かったかのような景色が鬱陶しい。意識して取り払えないその障害を外すには、ただ一つ。

 臨界を知るしかない。

 だが、前方百二十度の映像はぼやけたまま。

 ――まだ、超えてない……。

 シキは内心舌打ちをして、震えそうになる手を堪えながら引き金に指をかけた。

「この痛みは、人間だよ」

 それ以外の何であろう。

 この苦悩。そして激痛。

 シキが一撃を放った瞬間、刹那遅れてトイが一撃を放つ。

 裏を掻かれた。そう思ったが、もう遅い。ここで瘴気を放てば、自分は守れても、相手に向けた銃弾まで消してしまう。自分の身を守るか、相打ち覚悟で相手に攻撃を加えるかのどちらかしかできない。

 的が霞んでいるシキに対して、敵の視界は良好だ。狙いは正確だろう。シキは相手の弾道に嫌な気配を感じ、出来うる限りの回避に努めた。

 回避しようと思って行動が取れるだけで人外なのだ。この力に今は恨み言は言うまい。

 やや右寄りに殺意の鉛玉は空気を裂いてやってきている。自慢の瞬発力に望みを託して左方面に跳んだ。

 取った行動は正しかった。だが、僅かに初動が遅かった。

 向かってきた弾丸はシキの首を掠って右頸動脈を破り、後ろの壁に着弾した。

 噴き出す血を左手で押さえながら、シキはシュウの脇に倒れた。

 シキの弾丸もそれ程的外れではなかったらしい。小さな呻きが聞こえた。トイは左脇腹を押さえ、何処かへと走り去っていく。

「シキ!」

 シュウの声がする。

 眼は開いているのに何も見えない。首がじわじわと痛む。しかし、それもやがて遠退いていった。同時に、視界も戻ってくる。掛かる靄も少し薄くなったが、まだ消えない。

 一度死んだようなものだ。恐らく、瞳孔が開いてしまったのだろう。それで見えなかったのだ。

 呆気にとられているシュウを余所に、シキは上半身を起こした。押さえていた場所に、傷は既に無い。溢れ出た血液だけが残っている。

 シキはもう一度撃たれた首筋に手をやり、鼓動を確かめる。嫌と言う程強い脈が規則正しく打っていた。

 傷の治りが異常に早い。

 死にはまだ遠いらしい。

 血で汚れた手を見た。横目でシュウの傷も見る。

 手で触れるだけで傷を治せる。血で塞げばもっと早いだろう。そして、この血なら、殺せるのだろう。

 それも、いいかもしれない。



「シキ……」

 眼を伏せた様子が気になり声を掛けると、青白い顔が前を向いた。

 シキは無言のまま、血塗れの左手を伸ばすと、シュウの太股の傷の上に置いた。程なく傷は塞がり、残ったのは出血の跡だけ。シキはまた自分の首筋に手をやると、そこに付着した自分の血液を手で拭い取った。血を採る意味を解りかねているシュウを無視して、シキは今度は左肩の傷に手をやった。シキはそこに手を置いたまま、見上げてきた。

「痛く……ない?」

「そりゃあ、おまえが傷上に手ェ置いてるんだ。少しは痛いさ」

「まだ、ダメなんだな……」

 その会話の間にシュウの肩の傷は塞がっていた。

 事実、触れられたこと以外の痛みは感じていない。他に感じたことは、服の水分が蒸発する程の熱。沸点を超えているとは思いたくないが、あの現象を他に説明できない。けれど、触れられてそこまでの熱は感じなかった。理解に苦しむ。

 その間にシキは辺りを探って手頃なガラスの破片を手にしていた。

 用途を問う前にシュウは左手を掴まれ引き寄せられると、手の平に深く一筋入れられた。傷口は大きく開き血が溢れ出た。

 流石にこれは痛い。

「何すんだシキ」

 怒気さえ含んで尋ねるシュウに、朦朧とした笑みが返ってきた。

 その表情の意味が解らない。

 シキはシュウの手を放すと、左手首を胸の前に持ってきて右手に持ったガラスの破片を当てた。

「二本目は、の為だ、シュウ」

「待て! シキ!」

 シュウの制止の声も動作も間に合わず、シキは深々と手首を切り付けた。噴き出す血を覆うようにシュウは左手を傷に被せる。丁度傷同士が交差した。

 シキは力無く倒れ、横になる。

 シュウはシキの血が入り込むような奇妙な感覚を覚えていた。血管を伝い、侵入されているかのようだ。

「何のつもりだよ、シキ」

 コウが二度と掴みたくないと言った血塗れのシキの手首を、何故自分が掴んでいるのか。疑問ばかりで何も解らない。

 彼の顔色は悪いが、死に行く者の表情とは違っている。

「シュウと俺の傷が塞がる頃、狂気はもう死んでる。痛みを感じるまで、離すなよ」

 そう言うとシキは目を閉じた。それでも呼吸はしっかりとしている。

 半信半疑でただシキが死なないことだけを祈って手首を両手で握っていた。骨の細いシキの腕は、軽く手で覆ってしまうことが出来る。

 太陽の明かりは残り僅かのようだ。寒さが舞い上がってくる中、影が両腕を広げている。

 血色の悪いシキの顔を見ていると、シュウは突如として身体中に激痛を覚えた。あまりの傷みに驚いてシキから手を離し飛び退く。左手を確認すると、シキの言った通り傷が塞がっていた。シキの手首の傷も同じだった。

 感じたことのない痛みを受けて、まだぴりぴりとした感覚が残っているように感じる。

 これが、瘴気の痛みなのだろうか。焼き鏝を当てられるのと針のむしろに包まれるのとが同時にやってきたような痛みだった。

 にわかに信じられず、シキにもう一度近付こうとした。

 再び全身を針で突かれたような痛みがシュウを襲うと同時に、シキの目が開いた。

「早くあいつを殺すか、あいつに殺されるかして来いよ。後味……悪くなるだろ」

 本当に狂気が死んだのかは判らない。しかし、感じたことのないこの痛みが、嫌と言うほど真実を知らせてくる。

 シキにはもう、激痛無しには触れられない。

 突然生まれた距離に、シュウは戸惑った。

 掛けたい言葉も問いも沢山ある。シキの押し殺した表情を見ながら、シュウはそれら全てを飲み込んだ。



 シュウは何か言いたそうにしていたが、唇を噛むとトイの所へ向かうべく背を向けて去っていった。

 遠ざかっていくシュウの背を横になったままシキは見送った。霞んだ視界は徐々に良好になりつつある。限界点が見える。そこに手は届いていた。後は思い切り身体を引き上げるだけ。そうすれば一時の安息の後に終わりが来る。本当の終わりだ。

「あいつ、大丈夫かなぁ」

 シキはシュウが殺されることは想像していなかった。本気になればシュウの方が強い。シキはそう踏んでいた。死が見えるのはトイの方であった。あの男は死にたがっている。

 まったく、死にたがりばかりだ。こちらは生きたくて仕方がないというのに。

 シュウの敗北という結果への心配がゼロかと言えば嘘になる。しかし、本当の心配は違う方にあった。

「トイを殺して、俺が死んで、あいつ一人になって、やってけんのかな」

 それに、

「あいつ、莫迦だしなぁ……」

 何もなくなったら自壊してしまいそうな男だ。

 結局、放っておけないらしい。

 シキは眼を閉じた。急に気道を締め付けられるような感覚に耐える。

 そして大きく息を吸いながら身体を縮めると暫く動くことをやめた。

 太陽が時計の針を刻むようにじりじりと削られていく。

 その時が近づきつつある。

 何もかも正常に戻るようなフリをして、異常は極まる。命が脈打っている。一旦は息もつかない程早かった音は、通常を取り戻しつつある。

 シキは腕を胸の前に寄せ、足を折り、精一杯身体を丸めた。

 ――生まれ変わりたいなんて思わないけど、もしそんなことがあるんなら……。

 突然、縛り上げられていた気道は解き放たれ、苦痛も熱も嘘のように晴れた。晴れないでいるのは気分と空だけ。

 ゆっくりと身体を起こし、壁に手を付いて身体を立てる。すると、手を付いた場所が、ばらりと脆く剥がれ落ちた。声もなくそれを見て、手を離す。

 意図しなくてもこの有様だ。力に意識を集中させたら、一体どういうことになるのか。

 答えは簡単。壊れるだけだ。何もかも、崩れて無くなってしまうだけだ。そう思い至るだけで、感情は全く伴わない。

 眉を寄せたシキに銃声が届いた。間をおかず次々と聞こえてくる。

 シキは気を取り直して自分の銃を拾うと、駆け出した。

 ――もう一度くらいは、この大地でもいいかな。

 最後の一筋の光を受けて、シキは真っ暗に近い建物の中を急いだ。


   *


 二人は銃を向け合っていた。

 シュウが始めてトイというものの実態を知った場所。シュウとトイとが決別した場所。その場所に二人は居た。

 シュウは右脇腹を撃たれ、トイは右の脛と左肩を撃たれていた。トイは傷の数こそ多いが、行動の制限は生まれたもののいずれも直接命に関わるものではない。シュウの傷の方が深刻だった。

 トイは窓辺に立ち、頭蓋の残骸を踏みつけている。それが誰のものか、シュウには判っていた。

 シュウは入り口側の壁に凭れている。寒さが爪を立てて襲ってくる。陽の光はゼロに近い。深まる寒さと傷。相俟ってシュウに別の苦痛を与えていた。

「さっきと似たようなパターンだな。今度は、助けて貰えるかな?」

 そう言ったトイはもう笑わない。シュウはいつものように軽く笑みを乗せている。

「ああ……。そう、だな」

 シュウは大きく息を吐くと壁に背を付けたまま座り込んだ。それ以上長く立っていることが叶わなかった。

 シュウは細かく深い呼吸と共に白い息を吐く。脇腹に生まれたもう一つの鼓動は、寒さに紛れて消えかけていた。傷は左手で押さえたまま、座り込んでも尚トイに向ける銃を降ろすことはしなかった。銃口のその先にはトイの眉間。

 トイの銃口の先も同じであった。微笑しながらも睨み上げてくるシュウの眉間を狙っている。


   *


「なんて莫迦でかいんだ……!」

 息も切らさずに走りながら、シキは思わず怒鳴った。

 最後の銃声を聞いてからまだ数秒しか経っていないが、焦りは急速に加速していった。この建物に関して全くの無知であるシキには迷路と同じ。聴覚だけが頼りだ。

 すると、一本の渡り廊下に行き着いた。

 他の階では見られない廊下で、恐らく向こう側の建物への唯一の通路であろう。銃声を辿るには、ここを通るほか無い。

 不思議と自信があった。迷うことなく廊下を駆け抜ける。扉の跡いくつかを通り過ぎているうちに、ある所でぞくりとする寒気を感じた。以前にも覚えのある感覚だった。その独特の感覚を忘れるはずがない。シュウと似て、それでいて全く別物の冷たい殺気。

 立ち止まると中から微かに声がする。

 ――まだ終わってなかったのか。

 銃を握り直し、扉を潜る。部屋に入ってすぐ右にある扉の枠の向こうに、座り込んだシュウの姿を捉えた。

 銃を持った腕は伸び、的を狙っている。

 まだ生きている。


   *


 太陽が、世界が闇に染まる前の最後の凄絶な光を放っている。

 またすぐに光は戻るのに、まるでこれが今生の別れであるかのように美しく輝き、希な現象を見せている。

 その光景を三人は知らない。

 太陽を愛せない、愛してはいけない者達に、月に喰われる太陽のことなど気に留めるべき対象ではなかった。ただ、その闇に染まり行く真昼が、何かの暗示のようにのし掛かってくる。

 喰う者、喰われる者。蝕まれる光、虚栄でしかない闇。

 一時の漆黒が、真昼の空を支配した。


   *


「あんたの負けだ」

 シキは銃を構え、シュウをトイから庇うように前に立った。

 どういう力か知らないが、不死身かと疑いたくなる。時折見せる不思議な現象と、並はずれた身体能力。創り主に愛でられているようにしか見えない。しかし、当人はそうは思っていないようだ。

「頸動脈撃たれたくせに、ケロッと現れて貰ったんじゃ、誰だって負けるさ」

 無表情で言いながら、トイは構えたままの銃をシュウからシキへと移すと、そのままの流れで撃った。

 だが、今回はシキを中心とした風圧も何もなく、彼の胸に着弾する手前で弾丸は消滅した。

「なに……?」

 撃ったはずだ。間違いない。発砲した。

 それなのに、弾丸はまたしても消えた。シキを何かが護っているかのようだ。

 殺意を殺げない上に、攻撃手段も粉砕される。

 もう一度引き金を引こうとしたとき、シキが口を開いた。

「やめとけよ。その銃じゃ、次は暴発するぜ」

 その言葉に驚き、トイは咄嗟に自分の銃の銃口を見た。そして目を見開いた。

 銃口が溶けている。

 この男は、敵にすらならない。

 そう思うと、全ての気力が失せていった。

 銃を捨て、表情を無に戻す。いつもの顔。慣れない笑顔を作っていた所為で、頬が痛い。

「たとえあんたがシュウの大事なモンでも、俺はシュウを殺させない」

 シキが引き金に指をかけた。

「……おまえが、終わらせてくれるんだな」

 誰も引いてくれなかった引き金を、ろくに知りもしない男が引く。

 あんなにも固執していた生を、手放す気になったのは一体いつのことか。

 そんなことはもうどうでもいいか。

 安堵している。もう、自分を殺さなくてもいい。がむしゃらになる必要もない。固執することも、不安に思うこともない。

 やっと解放される。

 束縛されていたこの部屋で。

 ――いいだろう、シュウ。おまえより先に、欲しいものを手に入れてやった……。

 最期の息を、深く、吸った。



 刹那、トイが微かに微笑んだのが見えたのは見間違いではないだろう。

 シュウがはっとしている間に、シキはマガジンに残るありったけの弾丸をトイに撃ち込んだ。トイは正面からその全てを受けた。

 銃声が止み、気配は消えた。冷たい狂気は、漸く鎮まった。

 銃を降ろしトイを見下ろすシキの脇を、シュウは腹を庇いながら通り過ぎた。シュウはトイの脇に膝を付くと、まだ温かい頬にそっと触れた。トイは瞼を閉じ、安らかにも見える。

「ごめんな。最後まで、結局何にも出来なかった」

 泣いてやることはいくらでも出来る。けれど、許して貰うことは出来ない。どちらが死ぬとも限らない状況に終止符を打ったシキを責める気は全くなかった。不甲斐ない自分を責めるのみ。

「もし今度があるんなら、今度は……」

 声が詰まる。続きは心の中で言うことにした。



 色々狂ったが、目指していた結末の一つには辿り着いた。

 満足など感じない。達成感も御門違い。

 何がどうなっても、結局虚しいだけだったのかと、シキは改めて思い知った。

 その思い知った心が滲む。

 トイの元に寄ったシュウの背を見ながら、シキは視界がぐらつくのを感じた。

 ――もう……無理か……。

 後頭部から糸を引かれて盗まれていくかのように、意識が遠退いていく。

 銃を取り落とすと、為す術もなくその場に倒れた。



 その音に気付いたシュウが振り返り、倒れたシキに驚いて近付こうとしたとき、シキの倒れた部分の床が腐った木のように脆く崩れて彼と共に下の階へと落ちていった。

「シキ!」

 ぽっかりと床に開いた穴から覗くと、シキは細かい瓦礫の上に倒れていた。彼が居るのは地下。それより下に部屋はなく、シキはそれ以上の落下をすることはなかった。

 シュウは急いでその穴から下の階へ降りた。

 そしてシキの上半身を抱き起こしたが、身体に走る痛みに顔を歪めた。痛感とはこのことか。狂気は本当になくなってしまったらしい。それでもシュウは彼を放すことはしなかった。気絶したシキはなかなか目を覚まさない。

 天井の方からは止めどなく細かいコンクリートの破片や粉が落ちてきていた。シキが落ちた穴は広がり、砂埃となって舞い落ちる。そして、穴から見える上の階全てが轟音を立てて抜け落ちてきた。

 シュウはシキを庇って彼の頭を抱えた。建物全体が崩れたにもかかわらず、降ってくるのは塵ばかり。大きくてもせいぜい小石くらいで、大きな塊は一つも落ちてこなかった。

 抜け落ちた部分から、光を取り戻し始めた空が見える。まだ黒が強いが、やがて青を再び湛える空。

 これは瘴気による崩壊なのだろう。彼が恐れていたその時が、来てしまった。止められなくなった瘴気は持ち主さえも崩す。その前哨戦として、建物が塵に変わっているのだ。

 ある程度の瓦礫の落下が収まったところで、シュウは腕の力を緩め身体を起こした。腕の中には、とろりとした眼差しでシキがこちらを見ている。

「シュウ……。もう、いいよ。おまえの狂気、死んでるから、俺と居ると、殺してしまう」

「莫迦言ってんじゃねぇよ。今更おまえを放り出せるかって」

「おまえを、殺したくない」

「死なないよ。おまえの瘴気じゃ死なない。大丈夫だから」

「腹の傷、もう、塞いでやれない……」

「大したこと無いから。気にしなくていい……」

 シキの気力を保つ為の痩せ我慢ではなかった。確かに寒さを覚えた程の傷である。だが、その痛みも傷の重みも、既にシュウの関知するところではなくなっていた。血は止まり、傷は塞がったような気がしている程だ。

 全ての神経は、シキに向けられている。

 シキは何でも無さそうな表情とは裏腹に、速い呼吸に胸を上下させていた。唇は乾いて割け、血が滲んでいる。水気を失っているのは唇だけではない。全身が水分を失って頬も指先もカサカサになっている。

「空……」

 シキの虚ろな目がシュウから空に移った。穴からは光が差し込み、二人を照らし出している。

 鳶色の瞳が、まだ薄暗い空を見つめている。

 目映い光と青を取り込んだ瞳孔が急速に収縮した。少し速い呼吸の中、いつになく穏やかな表情をしてシキは口を開いた。

「シュウ」

「何?」

「俺、空から堕ちてきたんだ。鳥になりたくて、翼が欲しくて、毎日毎日白くて狭い部屋に一つだけある、大きな窓の外に探してた。ずっと待ち続けて、青しかなかった世界に、白いモノを見たんだ。それをどうしても掴みたくて、窓の外に出た。堕ちて堕ちて、……そしたら、こんな所に来て……。灰と黄土しかない、この見捨てられた、悲運の大地に」

 シキの視線が空からシュウに戻る。

 夢の話と判ったが、シュウにはそれが現実のもののように思えた。この大地は、彼が生きるには汚れすぎていたのだ。だからこんな不条理に愛でられて、今、最期を迎えようとしている。

 空に、帰りたかったんだよな……?

 そして、今までのシキの断片的な言葉の意味がここで漸く繋がり、シュウは思わず泣き顔になった。

 その泣き顔を癒すようにシキは微笑する。

「俺……シュウに、俺の欲しい物持ってないって言ったよな? あれ、違った。おまえ、その空の中に、ちゃんと俺の欲しい物、持ってた」

 外側に出ている左手を伸ばし、シキはシュウの頬から目尻にかけて触れた。

 何度も偽物のようだと言われた青の瞳で、シュウはシキを見る。

「俺が、持ってる?」

「ああ。おまえが、この空に、俺を返してくれる……」

 こんな盲目な目の中におまえの欲しいものがあるのなら。いくらだってくれてやる。

 喉の奥が震えた。鼻の奥と目頭がじわりと痛んだ。

 辺りからより一層の轟音がし始めた。遠くでも建物の崩壊が起きているらしい。この付近の天井も大部分が落ちていた。柱を崩されたところから順に建物としての形を失っている。

 耳に響く破壊音と伝わってくる振動は、まるで天変地異のようであった。それでも空は静かに涼しそうな顔をしてそこに居る。結末を静観しているようだ。

「ほら……大地が崩れる。俺は今度は空に墜ちるんだ。あの場所に戻れるよ」

 シュウに触れていたシキの手は、いつしか離れ、空へと伸びていた。空を掴むように指先にまで力を入れ、視線もその先にある。

 鳶色の瞳がシュウの青を見ることはもう無かった。憧れた青だけを仰ぎ、優しい腕に抱かれながらいつか焦がれた太陽に見入っていた。

「空が見えるよ、シュウ。こんなに近くに……。ほら……手が、届く……」

 うっすらと目を開いたまま、シキはシュウに顔を寄せた。同時に、空に伸びた腕は力無く胸の上に落ちる。一筋の涙が、遅れてシキの目尻から流れた。顔の輪郭まで流れたところで、涙はすっと消えていった。呆気なく蒸発した涙は、微かに跡を残している。

 シュウは口を戦慄かせシキを揺すった。そんなことをしてもシキはぐらぐらと首を揺らすだけで、僅かに開いたままの目をもう一度しっかり開けることはない。

「シキ! 何だよ。ここからどっかに行くのかよ! 折角おまえが狂気を殺してくれたのに、おまえを失って湧き出るこの狂気はどうしてくれる! 責任取れよ! 俺の狂気は死んじゃいない。もう一度殺せよ……。おまえの所為なんだぞ……」

 シュウの叫びを聞く者は居ない。次々とやってくる轟音に掻き消されてしまった。

 それでもシキの名を呼ぶ。もう一度強く抱き締め、泣けなくなった彼の代わりに、涙を流した。

「死なせない、殺させないって言っておいて、結局おまえを逝かせちまった」

 抱き返して来る腕はなかったが、気が済むまでそうしていた。

 崩壊は収まらない。建物だけではなく、世界そのものを壊してしまいそうだ。

「もうおまえ一人で狭い空には居させない。またおまえが窓から堕ちないように、俺がずっと繋いでやる。一緒に居るよ……。シキ……」

 もう空を見ることのないシキの目を、シュウはそっと閉じてやった。腕の中のシキはただ眠っているようだ。暫くすればまた起き上がり、遊びに行こうと言い出しそうに見えるほど、彼の顔は穏やかだった。コウと居るときよりも安らかに、何に怯えることもなくシュウに顔を寄せている。

 響く轟音も崩れる建物のことも忘れ、シュウは幼子を寝かしつけるようにしてシキを抱きかかえたままで居た。

 空では月がかなり退き、光で満ち始めている。

 月の浸蝕は終わった。

 シュウは一度空を仰いだ後、またシキに視線を移した。晴れ渡った空に雨の気配を感じた。

「雨の日に、また会おうな」

 歪んだ視界が何によるものか、シュウは既に判ることが出来なくなっていた。

 気が遠くなる。

 終わった。

 終わってしまった。

 やがて降る雨に流されて、塵と埃になった大地は洗い流されて、一体何処へ行き、層を成すのだろう。

 感覚が無い。

 最早死んでいるのかもしれない。

 見上げた虚空。

 それが崩れてきた様に見えたのは、……気のせいだろうか。

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