第34話
古巣に戻ってきた。
ドアは蹴り込まれたまま開き、窓は飛び降りたまま開け放たれ、銃弾の残骸と見うけられる粉を始め砂埃が床に積もっている。しかし、それ以上に荒らされた形跡はない。あれから誰も立ち入らなかったようだ。
雨が降り込んでいた窓を閉めてベッドの上とその周辺を適当に払うと、シキはベッドの上に座り込んだ。腰から銃を抜き、ベッド脇の小さな机の上に置く。心ばかりの安心感を得て、シキは溜息を吐いた。
籠の鳥に戻ったような気もしていた。窓が割られていなかったのは幸いだ。閉じた窓から眺める景色は見慣れたもの。窓枠が鉄格子のように映る。今まではそんな風に見えても籠から出られる時があると思っていた。だが、その望みももう叶わない。シキは左肩を掴んで、指先に僅かに力を込めた。この痛みと悔しさを、全てトイにぶつけてやる。口の中で何度も反芻した。
「全部持っていって、全部どっかにやっちまったからスッカラカンだな」
シュウが苦笑混じりにシキの前に立つ。シュウも銃を机に置いていた。二人で居た時に銃を置く場所はいつもそこだった。
今は少し気を緩めよう。そう思ったシキは肩から手を外すと、シュウと同じ様な笑顔を作って見上げた。
「この方が後腐れ無くていいだろ。すっきりしてて」
「あのな。死にに行くんじゃないんだから、もっと違う表現しろよ」
「ああ……うん」
シキは答えに詰まった。シュウは恐らく、まだこの瘴気の状態の意味するところを知らない。疲れ以外のものが反論することをやめさせた。
「今、お湯湧かしてるから、コーヒー淹れたら飯にしようぜ」
「ガス、点いたんだ」
「ついでに水も出たぞ」
「運がいいな」
確かに、と頷きながらシュウは窓辺に寄った。その姿をシキは目で追う。
シュウは壁に手を付き、相変わらず激しく雨が降り続く外を眺めている。彼を含め部屋全体がが映り込む窓ガラスを隔てて、無情な世界が腰を下ろしている。この部屋の中もその一部には違いないが、自分たちにとっては違った。安心して眠れる場所はそう多くない。心安らかでいられる場所は、世界から隔絶されていなければならない。今、それを仕切っているのは薄い窓ガラスが一枚。ある時は壁であり、ある時は家という区切りであり、そしてある時は勝手に作り上げた目に見えない境界でもある。
彼が見ている景色は、見なくとも想像に易い。それに、先程窓を閉めたときに見ている。シュウまで何もわざわざ見ることはないのに、と、シキは顔を背けてベッドから足を落とした。
「なあ、少し、訊いていいか?」
シュウが窓を背にシキの方を見ながら尋ねた。シキは後ろの方に手を付いて足をぶらぶらさせていた。
「いいよ。俺の望み以外のことなら答える」
「前、ルイレンと会ったとき、おまえが言った〝あの人〟って誰? ルイレンも知ってたみたいだけど」
「意外なこと気にしてたんだな」
「瘴気のことを、……言ってたから」
「なるほど」
ただシキと関係あるだけの人なら気にはしなかったのだろう。言うつもりの無かった過去の一部について話すハメになりそうだ。シュウにその意図があってかはともかく嫌な質問には違いない。
約束は約束だ。コーヒーが飲めるようになるまでの暇潰しに、シキは話し出した。
「はっきり言って、俺にも誰だか解らない。小さい頃の記憶でさ、しかも、あの人の記憶はあの人が死んだ日のものしか残ってないんだ。リオが母親かも知れないって思ってたけど、今となっちゃ真実は知りようもない」
「ルイレンは、結局言わなかったのか?」
「ああ。どうして死んだのかは気にしてたけど、俺には何にも」
訊いておくべきだったかも知れないと、シキは少しだけ後悔していたがもう遅い。リオについてルイレンが口を開くつもりはないことは感じ取っていた。どうせ話さないのならと諦めはしたものの、思えば彼女について知る最後の機会だった。それをフイにしたのはシキ自身の手。
話は暫く中断した。シュウは催促もせずに窓辺からシキを見下ろしていた。
後悔。ここに来てもこれだ。
突然窓ガラスに吹き付けた雨で、シキは我に返った。苦笑混じりの溜息を吐いて小さく首を振った。それは苦笑ではなく自嘲に近かったかも知れない。頭に立ち込めた靄を振り払い、話すべき事を取り戻した。
「あの人も、瘴気を持ってたんだ。今の俺より弱い力だったのに、それでも苦しそうだった。あの人が死んだのは、大雪の日で、雪に埋もれながら死んだんだ」
「どうして死んだんだ?」
「どうしてって……」
自分を殺すための凶器は、常に自分の身体に潜めている。
持っているだけで自身の身をも切る刃を、彼女は持っていた。そして、シキも持っている。
これを言えば、きっと全てが伝わってしまう。
この後、呪われたこの身体が、どうなるのかが。
「……瘴気に、殺された」
「おまえの瘴気か?」
「いいや。あの人自身の瘴気があの人を殺したんだ。シュウは、瘴気を使いすぎたときの俺を知ってるだろ? あれが悪化して、身体が堪えられなくなったとき、瘴気はそれを宿す者さえ崩し始めるんだ。跡形もなく塵にする。塵になって……この大地に、ばらまかれるんだ」
大地という言葉を口にした瞬間にシキの口が僅かに震えた。窓の外に目線を逃がし、上方を向く。部屋の中がガラスに映り込んで外の様子は殆ど見えないが、それでも良かった。
「そんなこと……」
信じられない、という言葉を飲み込んだシュウは、明らかに動揺している。
「でも、俺が居るだろ? それで抑えられないのか?」
問い掛けに対し、シキは首を振る。その動作に、シュウは何故と食い掛かった。
「だって、あの人の傍には俺が居たんだぜ? それでもあの人は死んだ。シュウの存在は気休めにはなっても、所詮は気休めにしかならない。瘴気の浸蝕は、誰も止められない」
鼻の奥がつんと痛んだ。
止められるのなら止めて欲しい。シュウの存在が役に立つのなら、永久に傍に居て欲しい。けれどそれが出来ない絶望が瞳に滲む。
放っておけば泣き出しそうな顔で見られたシュウも、いたたまれなくなった。回転を止められない死への歯車。一生に一回転。シキの場合、その直径は余りにも小さすぎる。シキの為だけに用意された特注の歯車。軋む音は、もう聞こえ始めている。
回転の停止は誰にでも訪れるもの。しかし、この現実はあまりにも残酷だ。
「死に際にあの言葉を言ったんだ。『虚は虚を埋める』。それを覚えていれば少しは幸せになれるって……」
「少しも幸せにはなれなかった?」
俯き始めるシキに、間髪入れずシュウは尋ねた。完全に俯かせたら泣かせてしまう。辛うじて動作を途中で止めたシキは、目線を下にしたまま僅かに首を傾げた。
「まぁ……」
やがて顔を上げると、口元に僅かに笑みを湛えてシュウを見た。その顔は、泣き笑いに近い。
「あんたがここに居るか」
「な? ゼロじゃないだろ?」
薄幸には違いない。背負わされているものが彼の人生を全て潰したと言ってもいい。
でも、首肯しろ。
ゼロではないと。
誇らしげに笑うシュウを見て、シキは笑い出した。
シュウを目の前にして、こんな時にもコウの言葉が心強い信実となる。ルイレンを殺した後にコウに言われた言葉を思い出していた。
自分の自分しか歩めない人生。だから、何が起きてもアリ。
この言葉のお陰で、精神を保ち、こんな時でも笑うことができる。これ以上、わざわざ損をする思考に持っていくことはない。俯くことより笑うことの方が難しい。口の端が上がるのなら、上げておくのが得策だ。
やかんの蓋のけたたましい音が二人を呼びつけた。シキも立ち上がってシュウの後に付いて狭い台所に入る。シュウはコーヒーを淹れ、シキは流しの下の棚に残っていた缶詰を全て抱えてベッド脇の床に積んだ。、一回半くらいは満腹になりそうな量がある。
二人で床に座り込み、コーヒーと缶詰を囲んで晩餐会とした。
話には花が咲いた。過去の話でも、それがたとえ嫌な思い出に繋がったとしても死んだ者の話であっても、落ち込むことはなかった。シキはいつもより多弁で、ハルはこんな奴だった、コウがあの時あんなヘマをしたと過去をなぞるように話したりもした。
シュウはもっぱら相槌役。いつもと立場が逆転している。
今まで共に居た時間の割に話さなかった分全てを取り戻すように話し続けた。一瞬の沈黙も許さない。雨の音など一切耳に入ってこない。
口を閉ざせば現実に引き戻される。そのことを何処かで恐れていた。せめて食事の時くらいは過去に居座りたい。無意識のうちに、そう願っていたのかもしれない。
*
長い時間もあっという間に過ぎた。空腹が満腹になり不意に口を閉ざしたとき、雨の音が耳に染みてきた。
戻される。
現実が重くのし掛かってくる。どんなことにも永遠はない。それを嫌と言う程思い知らされた瞬間でもあった。
シキは床の座ったままベッドに寄り掛かり、足を前に放るように伸ばした。空いた缶と食べ残した数個を足先で退け、少し俯いた後に目の前のシュウを見た。
「シュウ。俺、トイを殺すよ。あいつがあんたにとって大切なものだとは知ってる。けど、俺は殺すよ」
確認するようにシキは言った。後に引くつもりはないことを、改めて伝えたかった。シュウはゆっくりと頷く。
「解ってる。それに俺も、あいつを壊しに行くよ。壊れていくあいつは、俺がこの手で壊したいんだ」
無言は返ってきても、言葉が返ってくるとは思わなかった。こちらに合わせた様子はない。
決めたのだろう。決別を。
でもそれで、
「シュウはそれでいいのか?」
未だに目線が落ちている状態で、本当に出来るのか。
シュウは深く首肯し、
「もう、決めたんだ。辛いのは今でも変わらないけど、天秤にかけて決めたんだ」
「片方には何を載せたんだ?」
その質問に対するシュウの答えはなかった。雨の音が沈黙を割る。シキは答えを聞くのを諦めた。
シュウの方は何か別のことが頭にある様子で、腕を組んで黙りこくっていた。時々何かを言いたそうに口が動くが、声になって出てこない。
シキは手を自分の首に当て、僅かに眉を動かすと立ち上がってベッドに腰掛けた。シュウの姿を眺め下ろす。やはり何かを訊こうとしているようだが、躊躇っている。シキは話題にならなかった事柄を思い返した。ユイのことは大して話さなかったが、彼女について躊躇っているようには見えなかった。シュウが気にしそうなことで、今になっても迷いかねないこと。
シキがそれを問う為に口を開こうとしたとき、シュウは立ち上がって机の前に歩いた。シキは言葉にするのをやめ、シュウの姿を目で追う。シュウは机の前からシキの銃を取ると、シキの前に立った。そして銃身を持つと、グリップをシキの胸に押しつけた。訳も分からずシキは銃を受け取る。
「もし俺がまた狂気に狂うようなら、これで俺を殺せ」
「俺が、あんたを?」
突然のことで呆気にとられ、言葉が上手く出なかった。
「狂気に憑かれれば俺が何するか解らないのは知ってるだろ? だから、躊躇うなよ。さっきおまえを撃って、我に返ったとき凄く恐かったんだ。今の俺は、狂気に憑かれるよりも死ぬことよりも、おまえを殺してしまう方が恐い。だから……」
――言いたかったのはそれか?
疑心を持ちながらも、シキは受け取った銃を手元で見つめ、シュウを殺すということを考えていた。殺してやりたいと一度口にした記憶がある。けれど、あれは本気ではなかった。銃口は何度も向けた。けれど、本気でシュウを殺そうなど、本当のところは一度たりとも考えたことはなかった。
シュウを殺すということ。考えただけで喪失感が生まれた。しかし、シュウの立場はどうなのか。恐怖を抱え狂っていく彼が殺してくれと言っているとき、どうするべきなのか。
殺されても殺したくないという勝手。それが互いにある。殺されてしまって相手が苦しむくらいならという勝手。それも互いにある。
思考の違いはお互い様だ。
シキはグリップを握る手を強めると、水平に構えてシュウの眉間に銃口を向けた。
「俺があんたに殺されるなんて大地が空になっても有り得ない話だけど、もしそうなったら、ちゃんと殺してやる。躊躇わないからな。一発で、あんたを殺す」
ここは覚悟を酌んでやろう。
「でも、俺はあんたの狂気を殺せる。その時になったら、あんたじゃなく、まずは狂気から殺してやるよ」
用の無くなった銃は机の上へ。
「ああ。ありがと」
礼の言葉の後に、床に座り込み、再び思案する顔になる。
はっきりしない男だ。今の話もしたかったのだろうが、その前にやはり違うことを言い出したかったように思えてならない。シュウはシキから目を逸らし、落ち着き無く呼吸をしている。
シキの方が苛立って敵わなかった。このまま待ち続けたら、次の朝になっても話し出しそうにない。そして、シュウの訊きたいことの大体の予想は付いている。
「シュウ。訊きたいんなら、訊けよ。そうもそわそわされると鬱陶しい」
シュウはハッとしてシキを見上げた。一度は口を固く結んだが、次には誤魔化して笑った。
「いいよ。訊くことも、……無いと思うから」
「コウの遺体のことだろ」
シキが平然と言ったのに対し、シュウは驚きと悲哀を微妙な割合で混ぜたような顔をした。声にはしないが、何故解ったと瞳がシキに尋ねている。
何も難しいことではない。可能性と消去法で、絞り込むのは容易かった。
「フォルトって奴の死体も気になる奴が、コウのことを訊いてこなかったから、何となく解った。話させるの辛いと思ったんだろ?」
「思い返させるのも……」
シュウらしいとシキは笑んだ。
確かにコウを失った喪失感は大きい。その為にトイを殺すことはまだ諦めていない。だが、彼が完全に消えたわけではないことをシキは信じていた。だから笑える。
「コウは、ここに居るよ」
シキはそう言うと手を胸の真ん中に当てた。解らないと言った顔をしているシュウを見据えて、あの儀式の様を思い返していた。粉になったコウを掬った感覚。口に含んだ感覚。彼が血液に乗って身体中を巡る感覚。シキは妙な興奮を覚えた。
「あの後、コウはどんどん崩れていったから、醜くなる前に一息に瘴気で大地に還したんだ。その残骸、喰ったから……。だから、コウはここに居る」
恍惚とさえしているシキを前に、シュウは瞠目している。
「死体を、食べた?」
「腕をもいで食い付いたワケじゃないんだ。そんな顔するなよ。この傷も、コウが手伝ってくれたんだ」
そう言って手を胸から脇腹に移す。シュウの目はシキの手を追って脇腹に行く。彼が作った傷は、既に完治している。
その手の上に、雫が落ちた。それは、シキが左目から涙を流し、それが頬を伝って落ちたもの。口元は笑んでいるのに、目は泣いている。天気雨のような顔をして、シキはシュウを見続けた。
いつの間に泣いていたのだろう。こんな僅かな間のことに自分でさえも気が付かなかった。
コウはここに居る。哀しむことなど、何も無い筈なのに。
「俺は後悔してない。人喰いになっても、俺の身体の何処かにコウが居る。血になって巡ってる。これ以上、もう失わないだろ? 離れること、ないだろ?」
シキの涙は止めどなく流れ、笑いを作っていた口も歪み、震え始めた。それでも笑おうとするものだから、余計に苦しそうな表情になる。
悔しいのだ。そのことに、今になって気が付く。彼を、こんな風にしか遺せなかったこと。そして、死なせてしまったこと。
「ホントは全部喰いたかった。けど、風が攫って、大地が呑み込んでいった。大地は俺から奪っていくんだ。大切なものも、探してるものも、何もかも」
何も残らなかったから、一つくらいは残したかった。
死ぬときまで消えないものが欲しかった。死んでも後に残らないものなら、これほど理想的なものはない。
それを得た。
死に、崩れ、還ろうとするコウの身体がそれだった。
大地に奪われるなど、これで最後だ。
そう、信じたかった。
大地という単語が異様に耳に付く。意図的に強調されているようにも思えた。シキが羨望する空。シキが憎悪する大地。その関係が漸く見え始めたように思えた。
その時だ。シキの上体がぐらついたと思うと、そのまま前に身体が傾いた。シュウは慌てて立ち上がってシキを支えると、この時初めて異常を知った。服の上からでも焼け付くように感じるのは、間違いなくシキの身体だ。体温とはとても思えない。
シキの熱い手がシュウの腕を掴んだ。燃やしてきそうな勢いで力を込めている。哀しげに笑んでいる表情をどう見やっていいか分からなかった。
「俺、狂ってるのかな? 大切な人を喰って、こうやって笑ってる。ユイでさえ喰わなかったのに、コウは喰った。瘴気で狂い始めてるのかな? それとも、あんたの狂気が
支えているシュウを上目遣いに見ながらシキは笑って目を細めた。その表情からは考えられない程の熱に、シュウは動揺しながらシキの首に触れた。脈は少し早い程度であるのに、肌から感じる体温は尋常ではなく高い。
「おまえ、それよりもこの熱……!」
「瘴気の所為だよ。この熱、たぶんもう二度と下がらない」
シキの笑顔が、一息に崩れる。全てを泣き顔にすると、頭をシュウの胸に押しつけた。両手はシュウの服を掴み、限りなく距離をゼロにする。小さくしゃくり上げる声がした。
強がりが、遂に嗚咽を漏らして泣き出した。
シキの小さな身体が震えている。寒さの所為ではなく、熱の所為だけでもない。
「ねぇ、ここに居てよ……。苦しいのは、嫌なんだ。……恐いんだ」
やがて訪れる死が。瘴気に身体を崩されるという、想像が追いつかないその死が、恐くてならないのだろう。無力な自分ごと覆うように、シキの背に腕を回した。
片羽しかない背。シキは両羽を揃えて、一体どこへ行きたかったのだろう。シキの望みは、やはり自分には叶えることが出来ないのか。無力感が次の無力感を呼んで、シュウは絶望しそうになった。
シュウはこれ以上泥濘に嵌らないように、シキから手を放すと彼を無理にベッドに寝かせ、上掛けを掛けた。
「最後だから。もう、最期だから」
シキは熱に乾いた声でシュウに訴えた。
あれほど強い、強がりも努力するシキがなんて表情をするのか。シュウは見ていられなかった。コウの言ったことは正しかったと、今になって思わされる。けれど、既に壊れてしまったわけではない。脆い割れ物が音を立てて震えている。まだその段階だ。
「もう一度言うぞ。俺達は死にに行くんじゃない。今、目の前にあるものに、一度ケリを付けに行くんだ。最期なんて言うな。いいな?」
一度死を口にした者が言う台詞ではないと思ったが、そうでもしないと眠るまでこの表情を見なければならないと考えると口にせずには居られなかった。
シキは高熱に耐えるように奥歯を噛んでいる。自分がどんな表情をしていたのかよく分かっていたようで、すまなそうな顔をしてシュウから手を放した。握力が無くなって落ちたとも言える。シュウは落ちた手を取ると、上掛けの中に入れてやった。
「いつ行く?」
シキは焦点が合わなくなり始めた目をシュウに向けた。もしかしたら既に見えていないのかも知れないと思わせる目だ。
シュウはシキから窓の外に視線を移した。闇夜を割く雨は、未だに激しく降り続いている。ここの雨が一度降り出すとなかなか止まないことはよく知っている。冬の雨の痛さも身をもって知っている。シュウは手を伸ばした先にある窓ガラスに数本の指先を付けた。痺れるような冷たさが伝わってくる。シキの上がりすぎている体温との差が激しいこともあって、外の温度を知っている窓ガラスは冷たすぎた。
隔絶された世界のガラス一枚向こうは、凍てつく温度を持った、余りにも近く余りにも遠い世界。現実が染み込み始めたこの部屋は、もはや隔絶されていないのかも知れない。無情や非情が彼らを包み込み始めている。
シュウはベッドの端に腰掛けると、汗に濡れたシキの額を拭った。
「雨が止んだら行こう。それまでずっと、傍に居るから」
それを聞いてシキは目を閉じた。少し前に見せた絶望や悲しみや狂気さえ孕んだ表情は失せ、淡い紅を添えた色を残して落ち着いた。時々苦しそうに大きく息を吸うが、次の呼吸では元に戻る。それを繰り返しながら、シキは眠りに落ちた。
部屋の中は再び雨の音だけに満たされた。その中に微かにシュウの吐息が混じる。
どうか悪夢に魘されないように。
それを祈ること以外、出来ることは何もなかった。
夜は寒気と静けさを連れ添って深まる。シュウは一度身震いをして、シキの上掛けを掛け直した。
その夜、ベランダに寄り添うように止まっていた二羽の鳥が寒さに事切れ、大地に落ち、空へ舞ったのを二人は知らない。
夜の片隅の出来事。
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