第33話

 雨は容赦なくシキの身体を打った。慈悲の欠片もなく熱を奪い、痛めつけ、大地を舐めるように流れ、または吸い込まれていく。ここに降る雨は、一度降り出すと暫く止むことを忘れる。何もかも流し、浸した後でやっと太陽が顔を覗かせる。

 以前に一度は太陽に焦がれたシキも、今はそんなことは忘れ去ってしまっていた。太陽が存在することさえ頭にない。生まれてから今の今まで雲が空を覆い、雨が降り続けていたような錯覚さえ受け入れていた。探し物が見つからない理由も、それで片付けることが出来る。

 何度も目に入る雨に瞬きをし、口に入ってきては吐き出しを繰り返した。露出している顔や手の肌だけでなく全身の皮膚が水浸しになってふやけている。酸性の強い雨に皮膚がべとつく感じもした。

 傷はある程度治っていたが、完治には至っていない。歩くたびにいつ傷が開くか冷や冷やしていた。傷に極力刺激を与えない為に左足を庇うので、壁伝いに歩くことを余儀なくされた。いくら治りが早いといっても、痛みは普通の人間と変わらない。なまじ治りが早いだけにそれで死ぬこともなく、苦痛を味わう回数が増える。この力が良いのか悪いのかの悩み所でもあった。

 息が苦しくなり、シキは一旦足を止めた。壁に手を付き俯いたまま深い呼吸をする。雨が裾を広げる様しか見えない空を仰ぐことはしなかった。足下に広がる大地に目を落とし、呪うような冷めた瞳で流れゆく雨を見た。

 雪に変わってもおかしくない気温とこの豪雨の中、シキはそれ程寒さを感じていなかった。存在している感覚は傷が規則正しく疼く痛みだけ。その痛みに感覚が集中し、冷感がおろそかになっているとも考えられる。けれど、原因はそれだけでないことをシキは分かっていた。力を強めている瘴気を抑える術がないのだ。自制心も気温も季節も何も関係なくなってきている。強まりすぎた瘴気は、もう、溢れ出るしかない。

 一体この力は何処まで膨れあがるのか。シキは、夏に一度だけ大量の瘴気を溢れさせながらも何も感じなくなったときのことを思い出した。このままいくと、冬の今でもあの時の苦しさに襲われ、そしてその限界を超えたときに何も感じない自分が生まれるのではないか。シキはそのことに身震いした。

 シキにとってそのことは恐怖だ。恐れていた形の死に近づく道がそこから続いている。頭を振って考えを追い出した。行けるだけ行こうと唇を噛み、再び歩き始めた。

 足を進める先の目的地は決まっていない。始めは何処を歩いているのか把握していたが、徐々にそれも怪しくなってきていた。何処を辿っても汚れた壁が続く。知り尽くした街の筈なのに、見知らぬ場所を彷徨うかのように思うままに歩き続けた。

 整備されてない地面は何度もシキの足を掬おうとする。その度にシキは蹌踉めき、転倒しそうになった。バランスを失いかけている身体は、恰好の標的であった。大地はシキを引きずり倒し、呑み込もうとする。もがけばもがく程執拗にシキを狙ってきた。抵抗するたびに確実に体力は殺がれていく。服が存分に水を吸っている所為で身体の重みはかなり増していた。それもまたシキを弱めさせる原因となった。

 迷い込んだのはL字型の細めの路地だった。その曲がり角で遂にシキは大地に跪いた。全身から一息に力が抜け、汚れた壁に背を付けて目を閉じた。右手はまだ傷を押さえているが、既に心配する程の傷ではなくなっている。服に付いていた大量の血はかなり流され、光の下に行かないとその跡は確認できない。

「コウ、……ありがと」

 目を閉じて壁に頭を付けたシキは、まだ身体のどこかを流れているだろうコウに囁いた。傷口に自分以外の熱を感じるきがする。優しい熱だ。シキは、それをコウのものと信じた。

「みんな無くした……。愛しいものは、全部……」

 心に残ったのは虚しさだけ。悲しみさえその虚しさに呑み込まれ、痺れてしまっている。

 痺れていたのは心だけではない。降り注ぐ凍てつく雨と湧き上がる瘴気の熱が相俟って感覚が麻痺していた。傷がほぼ治った今、痛覚さえない。今、手を握っているのか開いているのかも分からない。

 重たくなった瞼を、少しだけ開けた。灰色の空間に傷を入れるように雨が降っている。

「ユイに会ったのも、雨の日……」

 雨はよい物は運んで来ないらしい。初めて愛した女は、シキの腕の中でシキの瘴気によって事切れた。死に際のユイの顔が浮かび、眉を顰めた。この思い出は余りにも哀しすぎた。自らの手で殺したも同然の人を、ただの思い出には出来ない。

 思い出しては苦しむ物が多すぎる。目に入った雨に瞬きするたびに、それが涙のように流れた。

「そう言えば、あの莫迦と会ったのも、雨の日だったっけ……」

 まだ一年も経っていない話だ。見下ろしてきた青い瞳を思い出す。だが、その瞳を今日、二度と振り返ることはしないと誓った。雨の日に出会い、雨の日に別れた偽物のような空色。一度棄て、そしてもう一度棄てた。探し物はそこにはないと、始めから決めつけていた。本物の空にしか、目当ての物があるはずがない。それ故、その点に関して棄てるのは何ともなかった。

 けれど、思い切れない部分があるからこそ殺してしまえない。二度と追って来る気を起こさせないように言葉で切り裂くことも出来ない。優柔不断はどっちだ。結局、仲間となりうる相手が恋しいのか。

 諦めが悪いのは、自分の方か……。

 歩くのをやめた為か、瘴気が鞘に収まり始めた。それと同時に身体を抱えたくなるような寒気が襲ってきた。口元までやってきた震えに、呼吸が乱される。 

「俺が終わる方が先なのかな……。まだあの男、殺せてないのに……」

 霞んでいく視界に、シキは必死になって目を開けた。このまま閉じてしまっては、いけない気がした。もう少しで夜になる。雨は止む気配はない。これでは瘴気の限界を超えたとしても凍死する方が先であるような気がした。

 瞼は執拗に閉じようとして目の前を覆う。傷に指を入れて開いてしまおうかと思う程にこの眠気は耐えがたいものであった。

 トイを殺すまでは死ねない。

 その思いだけがシキの瞼をこじ開け、呼吸をさせている。その視界の端に微かに光が見えた。建物の明かりだ。

 大地の束縛を解くように少しずつ立ち上がる。身体中が悲鳴を上げている。宥め賺してどうにか身体を立てた。

 相変わらず壁を伝って歩いたが、今度は傷を庇う為ではなく、身体自体を庇う為だ。歩き始めると同時に、一度収まりかけていた瘴気が再び燃え始める。こちらは宥めても賺しても言うことは聞いてくれない。利かん坊は無視して光の在る方へ歩いた。

 路地を抜け、やがて目の前に現れたそれは教会だった。高さは見上げる程あり、建物はかなり年季が入っている。

「こんな所に……教会?」

 思わずシキは呟いた。この街のことなら何でも知っていると思っていたが、この教会のことは今の今まで知らなかった。思わぬ不意打ちを食らってシキは呆然と教会を見上げていた。

 柔らかい光がステンドグラスから漏れてくる。疲れきった目に、それは酷く優しく映った。

 細かいことを考える頭は指先と同じように麻痺していて、誘われるようにシキは教会へと進んだ。

 大きくて重たい扉を押し開けると、一瞬息が詰まる程の暖かさがやってきた。特別に暖房を入れているわけではない室内なのに、雨が降っていないというだけで体感温度からまず違う。

 入ってすぐの目の前には開け放たれた扉があった。本堂へ続く扉だ。

 開いている扉の向こうは、赤い絨毯が祭壇まで続いていた。道の脇には長机と椅子。手の届く高さは蝋燭の明かりで、上の方の壁には質素な灯りが並んでいた。程良い明るさが保たれ、そこにある光はやってくる者に全く威圧を与えない。その代わり、教会独特の雰囲気が圧力を持っていた。気圧されそうになりながらも、前へと歩く。

 数歩前に進み二つ目の扉を潜ると、空間が開けた。上を見上げると、空に天使が居る絵が描かれていた。傷みが激しく色もくすんでいたが、シキには鮮やかすぎる色に映った。無垢な笑みを浮かべた天使が何人も戯れている。シキが想像したのとはまた違う空の世界だ。この天井も、実際の空も、どちらも手が届かない程に遠い。

 無力感を感じて、シキは視線を落とした。

「珍しいね。若い人が来るなんて」

 突然右後ろからした声に驚いて、シキは慌てて振り返った。言うことはきかないと分かっていても、極力瘴気を抑えようと努力した。現れたのはシキよりも少し小柄の白髪の老人で、神父だ。手には白いタオルを持っていて、嫌味のない笑みでそれをシキに差し出した。流れに呑まれるように差し出されたタオルを手に取ると、広げて頭にかける。思ったよりも大きく、くるまって眠れそうな程の大きさがあった。

「何を迷ってここに入ってこられたかな?」

 神父の問いにシキは口を開けなかった。これと言った理由など何もない。足が向くままに来たとはその神父の顔を見ると言い出せず、肩をすくめていた。何故かいつもの自分らしくなれない。

「懺悔をしたいのなら聞いて差し上げますよ?」

「いや……そういった用でもなくて」

 こんな所に入り込んでしまった自分を殴りたくなった。このまま振り切って外に駆け出しても良かったが、口をついて出てきた言葉は、

「もう少しだけ、ここに居たいんだけど……」

 だった。何を言っているんだと自分で驚きながらも、表面は冷静で居られた。

「どうぞ、気が済むまで居てください。ここは神の家ですから、誰も拒んだりはしませんよ」

 そう言うと神父は脇にあった扉の奥に消えた。

 面倒な難を逃れたことにホッとしたシキは、先程の神父の言葉を思い出して自嘲の笑みを漏らした。

「誰も拒んだりしない? ……莫迦言うなよ」

 シキは祭壇への道を三分の一程度進むと目の前のステンドグラスの手前にある十字架を睨んだ。磔にされ、原罪を償う姿として惨めな様を曝しているその像を見た。

「神が本当に居て、神が本当に完璧なら、あんたはそんな姿する必要はないだろう? 俺みたいなのは出来ないだろう? 神は完璧じゃない。誰も完璧じゃない。……俺は神の居る空に拒まれて生まれてきたのに、神は誰も拒まないなんて嘘言うなよ」

 すぐ隣にいるかも知れない神父には聞こえないように言った。本当は叫びたかった。けれど、そんなことをすれば神父に気付かれる以前に瘴気で彼、もしくは彼らを殺してしまう。瘴気のことは気にするのをやめた筈だった。けれど、気付けばこうやって気にしている。瘴気で人を殺さないように考えている。何で徹底的に残酷になれないのか。そう創られてしまっている、と言い訳をするしかなかった。

 シキは暫く十字架を睨んでいたが、疲れを感じ、祭壇の所まで歩いた。そこから見上げる磔刑の姿は尚更惨めに見えた。

「懺悔はしない。あんたに何も望みはしない。ただ……」

 言いかけてシキは口を噤んだ。望まないと言った先で口から出かけた望みを、苦しい思いで飲み込んだ。

 ――誰に望んだところで、どのみちこの身体じゃあ……。

 いろいろな方面への絶望が高波になって打ち付けてきた。心の中を洗いざらい持って行かれそうになった。唇を噛み締め、その力に耐える。今から無になってしまってはいけない。無になるのは最期の時でいい。

 シキは祭壇の前に立ち尽くし、上を見上げたままで居た。何を望むこともなく、十字架にかけられた哀れな姿を眺めていた。


   *


 トイはある建物の廃墟に来ていた。コンクリートの壁は激しく焼け焦げ、窓ガラスはことごとく割れ、内装は全て灰になって塵と化していた。

 あれからかなりの年月が経つが、ここにあった組織の末路にはいろいろ良くない曰くが付いて回っていたのはトイも知っていた。その所為もあって誰もこの土地に新しい物を建てようとはしなかったのだろう。鎮火した後の当時のまま残っている。

 トイは慎重に建物の中を歩いた。いくらコンクリート製とはいえ、焼かれた上に風化も始まっている。気を抜けば足下が抜けそうな場所もあった。屋根も落ちているところがかなりあって、雨漏りが激しい。

 一時とはいえ、かなり名を轟かせた時期もあった組織だ。それがあんな風に瓦解し、今尚その建物がこんな哀れな姿を曝しているのを目の当たりにすると、虚しさが胸を過ぎった。

 全てのものにはいつか終わりが来る。永遠など無い。

 ある場所に向かいながら、トイはその言葉を心の中で繰り返した。諦める為の呪文でもあった。何度もこの言葉を自分に言い聞かせては諦めたり、振り払ったりしてきた。

 昔から、ずっと、繰り返してきた。

 本当に自我がなかったのなら、そんな風にする必要もなかったはずだ。人形のフリをして、必死に苦痛から逃げていただけだった。そのことに、今初めて気が付いた。

「なあんだ……」

 押し殺して、無いことにして。感じていないと思っていたのは、そうやって無いことにしていただけ。知らずと努力していただけ。

 ルイレンと過ごすことで抑え付ける必要が無くなり、過去が溢れて夢になって現れた。

 それでも尚、誰かに身体を預けてもいいと思うのは、二十年近く続けてきた行為への慣れだろうか。

 やがて、何度目かの諦めを得た場所にたどり着いた。ドアは炭になって室内に倒れていた。それを踏みつけて中に入る。出火の火元だけあって中は激しく燃えた跡があった。家具の類は一切原形を留めていない。

 今も降り続いている雨が漏って水浸しになった室内を、トイはゆっくりとした足取りで奥に進んだ。

 窓辺に寄る途中、脇にあった小部屋の方を見た。扉は他と同じく焼けて無くなっている。

 その小部屋。マルクという男に、まさしく飼われていた部屋。今も身体に残る傷のいくつかをそこで付けられ、人間性を全て奪われて、犯された。今でもはっきりと思い出せる。しかし、嫌悪感こそ抱くも、心の何処かに傷を感じることはなかった。

 生きるために何にでもなったあの時。動作の全てが演技だった。抱く嫌悪は今だからこそ感じるもので、当時はそれで良しとしていたのだ。今更当時を忌避することに意味はない。

 あの時の自分が焼けた小部屋の奥に見えた。鞭で打たれ、犯される自分。あの男の為に時に苦痛に喘ぎ、時に快楽に喘いで見せた。本当は、何も感じていなかったというのに。

 トイは大きく息を呑み、小部屋から目を逸らした。それ以上過去の幻は見るに耐えない。

 ルイレンと会うまでは、当たり前だったことだ。けれど、今となっては正視していられないものがある。このまま独りで居られない状態が続いたまま生きるのなら、また過去に戻るかも知れない。その時はその時で堪えるようになるのだろう。また、感覚も感情も失うのだろう。

 いつか、ルイレンも彼らと同じだと思って伸ばした手を、あっさりと振り払われたのを覚えている。


「俺は男を買った記憶はない。第一、誰が飼うと言った?」


 ルイレンはトイをオモチャにはしなかった。部下よりも近い位置に置きながらも、それ以上近く置くことはなかった。トイの過去を知ったルイレンは、それからトイの伸ばす手を払わなくなった。だが、甘んじて受けることもなかった。させたいようにさせる、それだけだった。

 回想の途中、窓に映るものに意識を奪われた。

 人の頭蓋骨だ。トイは下が泥水であるにもかかわらず膝を付くと、頭蓋をそっと持ち上げた。激しく焼かれている為強度が弱い。崩さないように膝の上で抱きかかえた。

「戻ってきたよ、マルク。シュウに殺されなかったら、あんたはまだ俺を飼ってくれてるかな? それだったら、俺はルイレンにも出会わなかったよね。今、こんな辛い思いしなくても良かったんだよね」

 青緑の瞳は遠いところを見て、頭蓋でも空でもないところへ語りかける。

「傷なんて痛くないんだ。独りにされる方が、よっぽど痛いよ……」

 顔が歪む。

 髪から流れる雨の滴に紛れて、涙が流れた。全身が寒さに震えている。悲しみに震え、怒りに震え、愛しさに震えていた。独りであるという現実が恐怖となって時折背中を撫でていく。どうしてこんな思いをしなくてはいけないのか、という疑問の答えを、全てマルクの死の所為にした。

 頭蓋を抱える腕にありったけの力を込めた。腕の中で、マルクの頭蓋は脆く崩れた。ただの破片になった骨を膝の上に置いたまま、トイは暫くそれを眺めていた。

 全てのものにはいつか終わりが来る。永遠など無い。

 骨の残骸がトイに囁いた。


   *


 シキの前で足を止めた。存分に濡れてきた所為で、シキの前にはすぐに水溜まりが出来上がった。

 シキは祭壇の前で横になっていた。眼を閉じ、浅く息をしている。意識はないようだ。何かに怯えるように膝を曲げ、小さくなっている。まるで胎児のようなその格好は、心に一切の平安がない時のものだ。白い大きなタオルで身体をくるみ、険しい顔をして寝ている。

 やっと見つけた。

 まさかと思っては行った場所で、そのまさかだ。

「教会なんて似合わねぇところに居るんじゃねぇよ」

 シキは真上から振ってきた声に反応して目を開けた。ぼんやりと開けた目は、始めは床ばかりを眺めて、状況を把握しきれずにいる。

 シキは目をこすった。眩しそうに眼を瞬かせ、ゆっくりと目線を顔ごと上に上げた。

 微睡みから現実へ。

 移り変わるにつれ、寝惚けた表情が、引きつりそうなものに変わった。

「シュウ! 何でここに!」

 シキは飛び起きた。突然の動作に目眩がしたのか眉を顰めているが、元気なものだ。動作を見る限り、脇腹の傷は今はもう癒えているのだろう。激しい雨に洗い流されたのか、服に血の染みもあまりない。

 胸を撫で下ろしながら、シュウはシキの隣に腰を降ろした。

「何? 神様への生け贄のつもりだった?」

 これで祭壇の上に乗っていたら完璧だ。そうでなくても絶妙な場所で眠っていたのだ。何はなくてもそんな想像が働く。

 そして思う。何を捧げれば、彼は背負わされているものから自由になれるのだろう、と。

 シキはそっぽを向いて奥歯を噛んでいる。

 頑なだ。

 シュウはそんなシキの姿を見やりながら、シキを選んで良かったと思った。何も変わらず、出会った頃のように頑なになるシキを見ていて安心さえする。

 全て、自分の優柔不断が招いた結果だ。

 フォルトとコウを死なせ、トイとシキを傷付けた。

 もう迷わないと何度思ったことだろう。幾度となく思い、幾度となく揺れ、日和見を繰り返してきた。

 信用は得られないだろう。だから、野暮なことは言うまい。



 何か想像を巡らせているらしいシュウの前で、シキは口を閉ざして膝を抱えていた。あれほどはっきりと棄てると言ったのに、それでも目の前に再び現れたシュウに合わせる顔がなかった。本当はこんな気持ちになるのはシュウの方の筈なのに、シキはそれに違和感を覚えながら頑なになっていた。

「何で来たんだよ。二度と追ってくるなって言っただろ? 聞こえなかったのかよ」

 不機嫌な声で言う。拗ねているようにも聞こえるだろう。シキは抱えた膝の上で口を尖らせていた。

 安心している。誰かと居ること、それがシュウであっても、横に人が居ることに心が緩んでいる。心細く思っていた自覚はないのに、唐突に訪れた再会で得た感情が、隠れていたものを露わにした。

 シュウと眼を合わせることを避ける。眼を見られたら、きっと見抜かれてしまう。要らない、と踵を返して立ち去った癖にと思われる。それは嫌だった。

「二度棄てられたけど、それでも、やっぱりおまえの方が大切だと思った」

 思いも寄らぬシュウの言葉に、シキは振り向きそうになる顔を必死で抑えた。

「傷。治ったみたいでよかった。さっきは、撃ったりして、悪かった」

 口癖が始まった。

「コウを殺させちまったのも、おまえらを見捨ててトイを追ったのも……」

「『悪かった』はもういい。聞き飽きた」

「悪い」

「言うな。諄いぞ」

 膝を抱え直す。怒りはいつの間にか何処かへ行ってしまった。見栄を張るのもそろそろ疲れた。肩の力を抜くきっかけが欲しい。

 シュウはシキと同じ格好をしている。何かを考えているらしい。

「あのさ」

 溜息混じりにシュウが言う。

「今だから言うよ。俺さ、ずっと、俺を殺してくれる人、探してたんだ」

 その言葉だけで、シキはシュウの話に引き込まれた。シキはシュウのことは殆ど知らない。訊こうともしてこなかった。自ら語られるシュウの話に、教会の入り口に目をやったまま耳を澄ませた。

「狂気に蝕まれていく自分が嫌だった。けど、どうしても自分では引き金が引けなくて。誰でも良いって思いながら、選り好みしてて、なかなか殺して欲しい奴が居なかった。おまえと会って、こいつだって思った。暫く、おまえにその望みを押しつけることだけ考えてた。あの酒場で置いていかれたときも、まだそんなこと考えてた。けど、コウと三人で暮らし初めて、考え変わったんだ。おまえに俺の望みを押しつけたくないって思った。死にたいっても思わなくなってた。一時は過去に腕を引かれたけど、もう迷わないって決めた。何が本当に大切なのか、ちゃんと見出せた」

「……そう」

 長い独白にも似た言葉に対し、シキは素っ気ない相槌を返して、再び黙った。黙ったが、これ以上シュウを突き放す気はなかった。抑えが殆ど効かなくなっている瘴気が、こうやってシュウと肩を並べているだけで落ち着くような気がした。心地よい感覚だった。

 その感覚に負けたのだ。棄てようという決心も、恨みきろうという決心も、撃たれたことや、コウが殺されたときにトイを追っていったことに対する恨みの全てが、その感覚によって崩されていった。現金な自分に自嘲さえしたが、それも全て掻き消され、シュウから得られる安寧の感覚に今、溺れている。

「それにしても、よく俺がここに居るって分かったな」

 自分を誤魔化す為も含めてシキは尋ねた。気になっていたことは確かだった。尋ねるまでもないことなら、あれほど驚きはしない。

「似合わねぇとは思ったけど……」

「けど?」

「……ここに居るって思った」

「それだけ?」

「それだけ」

 ふうんと口では納得しながらも、シキは腑に落ちなかった。どんな理由を付けても、別れてからかなりの時間が経っているにもかかわらず、まるで始めからここに来ることを知っていたかの様なシュウの現れ方は説明が付かない。まして、場所は教会だ。信仰心に厚いなら可能性はあっただろうが、実際は足を踏み入れたのは今日が初めてだ。

「何でここに居るんだよ」

 今度は、意味合いはどうとでも取れる質問をシュウに投げた。

 微かな笑い声の後、

「おまえがここに居るから」

 とんだ答えが返ってきた。けれど、それも答えなんだろうとシキは納得することにした。

 繋がっているのだろう。そう思うしかない。

 先程の質問といい、今の質問といい、完全な満足を得るものではなかったが、冷静に受け止めると解らなくもない。よく解らない理由など、他にも沢山転がっている。言い訳がましいものから不条理なものまで、それこそ数え切れない程だ。

 不思議なことだってあってもいいだろう。こんな瘴気がある世界なのだ。他にまかり通ってもいい不思議は沢山ある筈だ。

 ――理屈や言い訳の前に、ここに現実があるしな。

 今抱えているモノすべてが、どんな理由を付けようとも現実であると受け止めればそんなに難しく考えることはない。そして、シキはコウの言葉を思い出した。身体の中から聞こえてくるような声が、気を楽にしてくれる。

 ――こんなのもアリって事か。

 口元が自然と綻んだ。深い理由は何もない。勝手にそうなっただけだった。

 シキは膝を抱えたまま、頭をシュウの肩に載せた。

「あんたの肩、いつでも丁度いいな」

「おまえの特等席だから」

 祭壇の前で二人、肩を寄せ合う。雨の冷たさは失せ、温かい体温が通った。

 教会とは縁がない二人だったが、悪くないと思った。宗教や信仰が、ではない。でっち上げられたものの為にあっても、包んでくれるものというのは温かい。くだらないとは思いながらも、雨の打ち付けてこないこの柔らかな雰囲気に呑まれていった。

 シキは天井を見た。

 天使の戯れる空。

 シキの思い描く空とは違ったが、こんな空があったら穏やかかもしれない。

 そう思い、おもむろに左手を伸ばした。指の先には天使が居る。親指と人差し指で、その翼をつまもうとした。けれど、それを毟れることはない。

 最初から無理なことだ。

 探し物も、恐らくこれと同じだ。ただ生きる理由にしてきただけ。見つからないと何処かで理解しながらも、いつか見つかるならばと生きてきた。

 絵にいる彼らはこちらを見ない。

 こちらが一方的に見上げるだけ。

 シキは、伸ばした手を下ろした。



 シュウはその手の動きの意味を解っていた。手伝ってやることは出来ない。

 欲しいもの。そこにある、手の届きそうなもの。

 でも、目の錯覚で、人一人の手ではとても届かない場所にあるその欲しいもの。

 与えてやることも出来ない。

「ねぇ」

 囁くようにシキが呼びかけてきた。

「ん?」

 子供に答えるようにシュウは返す。

 あれから少しだけ、シキの熱が上がったのを感じた。温まったのではないということは立ち籠める気配で分かる。

「最後の晩餐をしよう。俺達が出会った場所で」

 穏やかな声だった。この教会の中で揺らめく淡い炎のように、吹いたらすぐに消えてしまいそうな弱さもある。

 得意の強がり。こんな時でも気丈な男だ。

 意味を問うことはせずにシュウは無言で頷いた。

シキは立ち上がりざまに、突然口をシュウの耳元に寄せると、付け足すように囁いた。

「大したモンじゃないけどさ」

 二人の小さな笑いが教会に響いた。

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